28
小部屋を出ると、廊下はさっきより静かだった。
ネアが先に立ち、ロランが最後尾につく。ユーノは私のすぐ前を歩いた。
通路はすぐに上へ折れた。
壁の装飾は整って、ところどころに古い灯具の跡が残っている。青白い石は減り、かわりに上のどこかから落ちてくる薄い自然光が、白い床をぼんやり照らしていた。
もうすぐだ、とわかった。
ロランの肩が軽い。ユーノは緊張しているくせに、足が浮いている。ネアだけは同じ歩幅だったけれど、その背中には速さがあった。
階段をひとつ上る。
長い廊下を曲がる。
壊れた扉の脇を抜ける。
それを繰り返した先で、風が変わった。
私は足を止めた。
地下の風じゃない。
冷たいのに、淀んでいない。
どこか遠くからまっすぐ来る、広い場所の風だった。
「マイ?」
ユーノが振り返る。
「……大丈夫」
声が掠れた。
胸の奥が勝手に熱くなってくる。
ネアが前を向いたまま言った。
「もうすぐ外だよ」
みんなが早足になった。
最後の階段は、石じゃなく木だった。擦り減っている。人が何度も踏んだ跡だ。
ロランが先に上がり、扉を押す。
硬い音。
重い抵抗。
それから、光が入った。
赤い光。
夕方だった。
空は青の名残を残しながら、茜色に傾いている。雲が流れ、風が吹いている。土の匂いがする。遠くで鳥が鳴いた。
私は扉をくぐったところで、立ち尽くした。
空だ。
天井じゃない。
作り物の灯りでもない。
どこまでも上がある。
息を吸う。
胸が痛い。
空気が冷たくて、軽すぎて、めまいがした。
私は気づいたら泣いていた。
涙だけが勝手に落ちる。
「……やば」
自分で言って、笑いそうになった。
でも、次の瞬間にはまた涙が出た。
ユーノが困った顔をしているのが見えた。
「え、あの、大丈夫? どこか痛いの?」
「ごめん。大丈夫、大丈夫」
ロランが黙って布を差し出してくる。
私はそれを受け取って顔を拭いた。
「ありがと」
「おう」
『……泣くほどのものかしら』
頭の奥で、ベルザリアがいつもより上ずった声で言った。
「もしかしてベルザリアも泣いてる?」
『んな! 別に泣いてはいないわよ!』
「ベルザリアも久しぶりの外なんでしょ。無理しなくていいからね」
『だから泣いていないと言っているでしょう!』
返事は強かった。
扉の向こうは、石造りの小さな詰所だった。
低い柵、槍立て。迷宮の口を塞ぐように、兵士が二人立っている。片方は年かさで、片方はまだ若い。どちらも、私たちが出た瞬間に目を上げた。
「帰還を確認」
年かさの兵士が言った。
「ロラン、ネア、ユーノ。三名」
そこで、彼の視線が私で止まった。
「……待て」
胸の奥が跳ねた。
若い兵士が帳面を開く。紙をめくる。指が止まった。顔つきがわずかに強張る。彼らが槍を強く握ったのが分かった。
「今日の入場記録に、その娘はいません」
当然だ。私は下から来たのだから。
喉がひどく乾いた。ここで口を開いたらまずい。何を言っても変になる。
ベルザリアが頭の奥で笑った。
『面倒ね、全員まとめて始末しましょう』
うるさい、と返す余裕もなかった。
「身分が分かるものは」
年かさの兵士が言った。
それを聞いて、ネアが一歩前へ出る。
「保護対象です」
ネアは一拍も置かず続けた。
「迷宮内で見つけました」
「見つけた?」
「捨て子かもしれません」
若い兵士が帳面から顔を上げる。年かさの兵士は私を見たまま動かない。疑っているのだろう。けれど、判断するのはまだ早い。そんな顔だった。
ユーノが早口で畳み掛けた。
「かなり消耗してました。たぶん、しばらく中にいたんだと思います。休めないと、ちゃんと答えられないです」
ロランが、低い声で続ける。
「俺の実家で預かる」
兵士たちはまだ何も言わない。
視線だけが私に刺さる。
赤い髪。
下から覗く派手な服。
私は息を殺したまま立っていた。目を伏せすぎれば怪しい。睨み返してもだめだ。どうしていいかわからないまま、ただ立っていた。
「名前は」
若い兵士が訊いた。
「……マイ」
「姓は」
「ワタナベです」
声が掠れた。
それが逆によかったのかもしれない。
年かさの兵士が、ようやく槍から手を離した。
「記録はする」
「はい」
「保証は俺が持つ」
ロランは私を見ながらまっすぐ言った。
若い兵士がペンを取り、紙の上に走らせた。その音が妙に大きく聞こえた。
あらためて年かさの兵士が私を見た。
「ロランのところでおとなしくしていろ」
「……はい」
若い兵士が帳面を閉じる。革表紙が乾いた音を立てた。
「明日朝、確認のためここまで来るように」
それを最後に、ユーノが安堵の息を漏らす。私はようやく、自分がずっと肩を上げていたことに気づいた。
『人間はこれだから面倒なのよね』
ベルザリアが言った。
「仕方ないよ。どう見ても怪しいもん」
思わず小さく返してから、私は口を閉じた。
兵士はもうこちらを気にせず、帳面に目を落としていた。
詰所を離れると、外れの道がゆるく続いていた。石畳と遠くに見える低い家並み。窓から漏れる灯りと煮込みの匂い。人の暮らしの音。
私は一度だけ振り返った。
詰所の灯りの下で、若い兵士がまだ帳面を開いていた。何かを書き足している。
嫌な予感が、棘みたいに残った。
「行こう」
ネアが言った。
ロランが歩き出し、ユーノがそのあとにつく。私も続いた。
地上へは出た。やっと息ができた。
それでもまだ、終わりではなかった。




