27
「こっち」
女は踵を返した。迷いがない。
男たちはいつの間にか荷物をまとめ上げて、すぐに走り出していた。私もその後ろへ続く。
回廊の奥で鳴った音は、こちらへ近づいていた。
靴音じゃなかった。硬い爪が石を打ち鳴らすみたいな音だ。私はつられてそちらを見た。
白い回廊の向こう、折れた柱の影に、細長い影が一瞬だけ揺れる。
前へ突き出た口先に、低く張った胴に鎧、そして床すれすれを払う長い尾。蜥蜴が二足歩行で歩いている。
「見なくていい」
女が言った。
「そのまま走って」
私は頷いた。
道をひとつ折れ、その先の狭い脇道へ滑り込む。さらに階段を上がる。先に、扉の外れた小部屋があった。
古い宿直室か何かだったのかもしれない。壁際に長椅子の残骸があり、片隅に水瓶の割れた底だけが残っている。床には白い粉が薄く撒かれていた。
彼女は部屋へ入るなり、指先を壁へ向けた。青白い光が、細く走る。扉の枠を一周して、すぐに消えた。その一瞬で部屋の空気が澄んだ気がした。
「ここなら大丈夫」
女が言った。
「少なくとも、すぐには入ってこない」
そこでようやく、大柄な男が荷物を床へ下ろす。近くで見ると、まだ若い。焦げ茶の短い髪は汗と埃で額に張りつき、革鎧の肩にはさっきの戦いでついた傷が白く残っていた。大柄なのに、荷物の置き方は妙に丁寧だった。
細身の男はその場へしゃがみ込み、肩で息をした。明るい茶色の癖毛が乱れ、腰に下げた小物がまだ小さく揺れている。さっきまで棒を握っていた手は、膝の上で震えていた。
私も壁に背をつけて、槍を下ろす。
静かだった。
さっきまでの戦いも、さっきいた気配も、扉の向こうへ切り離されたみたいに遠い。
「……さっきは助かった。ありがとう」
大柄な男が言った。
「どうも」
私が先ほどと同じように答えると、細身の男が顔を上げた。
「僕、ユーノ」
あまりに急だったので、間が空いた。
「え」
「名前」
彼は気まずそうに続けた。
「相手に名前を聞く前に、自分から名乗るべきかなって」
そこで大柄な男が自分の胸を親指で指した。
「ロラン」
最後に、女が短く言った。
「ネア」
そこで初めて、私は女の顔をちゃんと見た。青みがかった黒髪を肩の後ろでまとめ、濃い青の外套をまとっている。青灰色の目は、私の右手を見ていた。
順番に名前が置かれていく。
私はその三つを頭の中で転がしてから、答えた。
「……マイ」
その名乗りに、三人は目を細めた。けれど、そこで何かを言い足すことはしなかった。
詮索しない。そういう空気があった。
ただ、ネアだけはまだ私の右手を見ていた。
「さっきの」
「うん」
「やっぱり魔法じゃないよね」
きっぱりした言い方だった。
私は右手を見下ろす。赤い熱の名残はもうない。
「わからない」
それだけ答える。
ネアは頷いた。
「そっか」
そこで終わった。
どこから来たとか、その力の正体とか、聞いてこない。ユーノは明らかに気になっている顔をしていたけれど、ロランが先に口を開いた。
「言いたくないことなら、別にいい」
私は顔を上げた。
ロランは荷物の紐を結び直しながら続ける。
「冒険者をやっていると、変なものを見たり、変なものを拾ったり、変な事情を抱えたりする。それをいちいち掘るより、いま無事に出るほうが先だ」
「いい人だね」
思ったまま言うと、ユーノがすぐ顔をしかめた。
「マイさんの方がいい人だと思いますよ。知らない相手をわざわざ助けるなんて」
ネアが続けた。
「珍しいんじゃない?」
「お節介ですみません」
そこで空気がやわらいだ。
緊張が完全に消えたわけじゃない。でも、ここで切り合うことはないのだとわかるだけで、ずいぶん違う。
少し軽くなった雰囲気の中で、ユーノが私の服をまじまじと見た。
「その格好、すごいですね」
「前も同じこと言われた」
「ですよね」
即答だった。
ロランは気にすることなく、荷物を漁り、布の包みをひとつ取り出した。開く。干し肉だった。
私はついそれを凝視する。ネアの口元がわずかに動いた。
「好きなの?」
「……別に」
「隠せてないよ」
ロランが一つ差し出した。
「食うか?」
私は迷わず、受け取った。
「ありがとう。いただきます」
「さっき助けてもらった礼だ」
言い方が妙にまっすぐだった。
さっそく噛む。硬く、塩気が強い。疲れた体に染み込んだ。
ネアは壁際から離れ、部屋の外を一度だけ見る。
「今は何もいないし、一息ついたら地上に戻ろう」
胸の奥が、どくんと鳴った。
「地上って言った?」
「うん」
ユーノが続けた。
「僕らの故郷、迷宮都市に早く戻ろう」
私は干し肉を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。
もうすぐだ。
色々あった。
体にはベルザリアがいる。
地上に出ても知らないことだらけだろう。
でも、間違いなく前進している。
足の先まで軽くなる気がした。
そんな私をロランが壁に背を預けて、見る。
「出たら、行く宛はあるのか?」
「行く宛?」
「俺の実家、食堂兼宿なんだ。良ければ礼を兼ねて食事でもどうだ?」
ネアが頷く。
「賛成」
「温かいご飯、早く食べたいね」
ユーノが言った。
私は三人の顔を順に見た。
変わった出会い方をした。私は怪しくも見えただろう。
人を助けて、ろくでもない目にあったこともある。
「喜んで行く」
そう答えると、ロランが頷いた。
「じゃあ決まりだ」
頭の奥で、ベルザリアが口を開いた。
『知らない人に、ついて行ってはいけないって習わなかった?』
「いいの。久しぶりにまともな食事がしたいもん」
独り言にしか聞こえない私の返事に、部屋の中で笑いが広がった。
一息ついて、地上へ出る。
その先に、都市がある。
小部屋の中で、道筋がはっきり見えた。
休憩を終えたあと、私たちはまた歩き出した。




