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「こっち」


 女は踵を返した。迷いがない。


 男たちはいつの間にか荷物をまとめ上げて、すぐに走り出していた。私もその後ろへ続く。


 回廊の奥で鳴った音は、こちらへ近づいていた。


 靴音じゃなかった。硬い爪が石を打ち鳴らすみたいな音だ。私はつられてそちらを見た。

 白い回廊の向こう、折れた柱の影に、細長い影が一瞬だけ揺れる。


 前へ突き出た口先に、低く張った胴に鎧、そして床すれすれを払う長い尾。蜥蜴(とかげ)が二足歩行で歩いている。


「見なくていい」


 女が言った。


「そのまま走って」


 私は頷いた。


 道をひとつ折れ、その先の狭い脇道へ滑り込む。さらに階段を上がる。先に、扉の外れた小部屋があった。

 古い宿直室か何かだったのかもしれない。壁際に長椅子の残骸があり、片隅に水瓶の割れた底だけが残っている。床には白い粉が薄く撒かれていた。


 彼女は部屋へ入るなり、指先を壁へ向けた。青白い光が、細く走る。扉の枠を一周して、すぐに消えた。その一瞬で部屋の空気が澄んだ気がした。


「ここなら大丈夫」


 女が言った。


「少なくとも、すぐには入ってこない」


 そこでようやく、大柄な男が荷物を床へ下ろす。近くで見ると、まだ若い。焦げ茶の短い髪は汗と埃で額に張りつき、革鎧の肩にはさっきの戦いでついた傷が白く残っていた。大柄なのに、荷物の置き方は妙に丁寧だった。


 細身の男はその場へしゃがみ込み、肩で息をした。明るい茶色の癖毛が乱れ、腰に下げた小物がまだ小さく揺れている。さっきまで棒を握っていた手は、膝の上で震えていた。


 私も壁に背をつけて、槍を下ろす。


 静かだった。


 さっきまでの戦いも、さっきいた気配も、扉の向こうへ切り離されたみたいに遠い。


「……さっきは助かった。ありがとう」


 大柄な男が言った。


「どうも」


 私が先ほどと同じように答えると、細身の男が顔を上げた。


「僕、ユーノ」


 あまりに急だったので、間が空いた。


「え」


「名前」


 彼は気まずそうに続けた。


「相手に名前を聞く前に、自分から名乗るべきかなって」


 そこで大柄な男が自分の胸を親指で指した。


「ロラン」


 最後に、女が短く言った。


「ネア」


 そこで初めて、私は女の顔をちゃんと見た。青みがかった黒髪を肩の後ろでまとめ、濃い青の外套をまとっている。青灰色の目は、私の右手を見ていた。


 順番に名前が置かれていく。


 私はその三つを頭の中で転がしてから、答えた。


「……マイ」


 その名乗りに、三人は目を細めた。けれど、そこで何かを言い足すことはしなかった。


 詮索しない。そういう空気があった。


 ただ、ネアだけはまだ私の右手を見ていた。


「さっきの」


「うん」


「やっぱり魔法じゃないよね」


 きっぱりした言い方だった。


 私は右手を見下ろす。赤い熱の名残はもうない。


「わからない」


 それだけ答える。


 ネアは頷いた。


「そっか」


 そこで終わった。


 どこから来たとか、その力の正体とか、聞いてこない。ユーノは明らかに気になっている顔をしていたけれど、ロランが先に口を開いた。


「言いたくないことなら、別にいい」


 私は顔を上げた。


 ロランは荷物の紐を結び直しながら続ける。


「冒険者をやっていると、変なものを見たり、変なものを拾ったり、変な事情を抱えたりする。それをいちいち掘るより、いま無事に出るほうが先だ」


「いい人だね」


 思ったまま言うと、ユーノがすぐ顔をしかめた。


「マイさんの方がいい人だと思いますよ。知らない相手をわざわざ助けるなんて」


 ネアが続けた。


「珍しいんじゃない?」


「お節介ですみません」


 そこで空気がやわらいだ。


 緊張が完全に消えたわけじゃない。でも、ここで切り合うことはないのだとわかるだけで、ずいぶん違う。


 少し軽くなった雰囲気の中で、ユーノが私の服をまじまじと見た。


「その格好、すごいですね」


「前も同じこと言われた」


「ですよね」


 即答だった。


 ロランは気にすることなく、荷物を漁り、布の包みをひとつ取り出した。開く。干し肉だった。

 私はついそれを凝視する。ネアの口元がわずかに動いた。


「好きなの?」


「……別に」


「隠せてないよ」


 ロランが一つ差し出した。


「食うか?」


 私は迷わず、受け取った。


「ありがとう。いただきます」


「さっき助けてもらった礼だ」


 言い方が妙にまっすぐだった。


 さっそく噛む。硬く、塩気が強い。疲れた体に染み込んだ。


 ネアは壁際から離れ、部屋の外を一度だけ見る。


「今は何もいないし、一息ついたら地上に戻ろう」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


「地上って言った?」


「うん」


 ユーノが続けた。


「僕らの故郷、迷宮都市に早く戻ろう」


 私は干し肉を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。


 もうすぐだ。


 色々あった。

 体にはベルザリアがいる。

 地上に出ても知らないことだらけだろう。


 でも、間違いなく前進している。


 足の先まで軽くなる気がした。


 そんな私をロランが壁に背を預けて、見る。


「出たら、行く宛はあるのか?」


「行く宛?」


「俺の実家、食堂兼宿なんだ。良ければ礼を兼ねて食事でもどうだ?」


 ネアが頷く。


「賛成」


「温かいご飯、早く食べたいね」


 ユーノが言った。


 私は三人の顔を順に見た。


 変わった出会い方をした。私は怪しくも見えただろう。

 人を助けて、ろくでもない目にあったこともある。


「喜んで行く」


 そう答えると、ロランが頷いた。


「じゃあ決まりだ」


 頭の奥で、ベルザリアが口を開いた。


『知らない人に、ついて行ってはいけないって習わなかった?』


「いいの。久しぶりにまともな食事がしたいもん」


 独り言にしか聞こえない私の返事に、部屋の中で笑いが広がった。


 一息ついて、地上へ出る。

 その先に、都市がある。


 小部屋の中で、道筋がはっきり見えた。


 休憩を終えたあと、私たちはまた歩き出した。

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