19
腰を下ろした瞬間、部屋の空気がさらに緩んだ。
それでも、注意深い視線は私に注がれていた。
壁際、窪みの縁、積んだ毛皮の上。あちこちにいるゴブリンたちが、じっとこっちを見ている。
飛びかかってくる気配はない。まず見て、考えて、それから決める。そういう目だった。
私を連れてきたゴブリンが、横に座った。
私の様子が一番わかる位置だった。
奥の一人が、膝を立てたまま私を見る。
「それで、何があったの」
予想していた質問だった。
私は唇を湿らせた。
「食べられた」
部屋の空気が、わずかに動く。
「だよね」
「そうなるよね」
「その体に食べられたの?」
口々に言う。その反応の軽さが、ありがたかった。
「前は?」
別の一人が訊く。
「狼」
「その前」
「緑色した巨人」
「その前」
私は黙った。
黄土色の目がいくつもこっちを見る。私の答えを皆が待っていた。
「人間」
その一言で、今度はさっきより大きく空気が揺れた。
「やっぱり」
「それはそう」
「今となっては懐かしい」
そこで、頭の奥でベルザリアが鼻を鳴らした。
『うるさい連中ね』
私は思わず顔をしかめる。
「あなたも割とうるさいほうだと思うよ」
口に出してから、しまったと思った。
ゴブリンたちの視線が一斉に集まる。
「今のなに」
「独り言ではなさそうだ」
「変だと思ってた」
私は息を吐いた。
誤魔化しても仕方がない。
「この体の持ち主と話してた」
部屋の空気が、変わる。
「持ち主?」
「中にいるの?」
「それ、残ってるってこと?」
質問が重なる。
私は頷いた。
「うん。ベルザリアっていう……まあ、すごく偉そうで、食べるのが好きで、性格の悪い女の子」
『ずいぶんな紹介ね』
「間違ってないでしょ」
『食べるのが好きなのは否定しないわ』
そこまで言って、私はふと気づく。
目の前のゴブリンたちが、揃って変な顔をしていた。
「……何?」
奥にいた一人が、慎重に口を開く。
「私たちにはいないよ」
「うん」
「声とかしない」
「そういう誰かは残っていない」
別の一人も頷く。
「たぶん君だけだよ」
私は瞬きをした。
「ほんとに?」
「ほんと」
「食べた相手の知識とか、癖みたいなのは混ざる」
「でも、喋ったりはしない」
「中に誰かいる感じはない」
私は思わず黙り込んだ。
違うのだ。
この子たちは、私と同じようでいて、大きく違う。
みんな私だけど、頭の中に別の誰かを抱えたままではない。
最初に私を連れてきたゴブリンが、小さく言う。
「かなり変」
「変だよね」
「うん。とびっきり、変」
その言い方に、笑いそうになる。
奥の一体が、今度は肘を膝に乗せて訊いた。
「ベルザリアって、君を食べたやつ?」
「そう」
「強かった?」
「強かったなんてもんじゃないよ」
言ってから、赤い部屋での出来事を思い出す。狼の残骸。あの動きにあの熱にあの声。
「多分この洞窟の中で一番強いよ」
「うわ」
「最悪」
「それで性格が悪いのか。納得だ」
全員、素直に嫌そうな顔をした。
『礼儀を知らない連中ね』
ベルザリアが言った。
私はわざとらしく肩を落とす。
「今怒ってるっぽい」
「わあ」
「いやだ」
「めちゃくちゃ怖いね」
「でしょう?」
思わず笑うと、部屋の空気がかなりゆるんだ。
最初に服へ反応した一人が、私の手元の槍を見る。
「体はあなたが動かしているんだよね」
「うん」
「返せって言われてる?」
「言われてる」
『早く返しなさい』
「今も言ってる」
伝えると、部屋のあちこちで笑いが漏れた。
怖い場所のはずなのに、笑い方だけは妙に気が抜けている。
皆で笑いあったあと、奥の一体が、真面目な顔に戻った。
「それで、下から来たんだよね」
「うん」
「上に行きたい?」
「行きたいなぁ」
「人のほうへ?」
私は一瞬だけ迷った。
でも、首は自然に縦へ動いた。
「外に出たい。元の世界に戻りたいから」
その答えに、何人かが目を細める。
「そっか」
「まあ、そうだよね」
「まだそっちなんだ」
その言い方に、引っかかった。
「そっちってなに」
すると、最初に私を連れてきたゴブリンが、床へ肘をついたまま言う。
「人のほうに戻るって発想が、ね」
短い一言だった。
でも、重かった。
戻りたいのかと聞かれたなら、もちろん戻りたいと答える。
私は人間で、ただの女子高生なんだから。でも、目の前にいる私たちは。
奥の一体がそこで話を切るみたいに手を打った。
「じゃあ、とりあえず休んでから考えようか」
「考えるって?」
「上まで抜ける方法を、ね」
部屋の空気が、締まる。
「正面はだめかな」
「蟻道は早いけど危ないよね」
「人と会わないほうがいいかも」
「上に行く抜け道は残ってるよ」
最初に私を連れてきたゴブリンが、こくりと頷いた。
「私も、もともとはマイだ。もちろん私に協力するよ」
ようやく全部繋がった気がした。
案内してくれたゴブリンは初めから、私に力を貸すつもりだったんだ。
だから、ここで、私の群れに見せたのだ。
ここにいるのは、ただのゴブリンじゃない。
全員マイだ。私だ。
私は膝の上に置いた手を見下ろした。
白い。
細い。
私の手じゃない。
周りには姿形が違っても、私が、私たちが何人もこちらを見ている。
気持ち悪さは、まだある。
でも、すでに警戒心は薄れていた。
「……じゃあ、少しだけ休む」
そう言うと、何人かが頷いた。
「うん」
「それがいいよ」
「上に行くなら、体力いるからね」
最初に私を連れてきたゴブリンが、毛皮の束を足でこちらに寄せる。
「使う?」
「……使う」
「お気に入りの毛布に似てるでしょ、それ」
自分の部屋を思い出して、泣きそうになった。帰りたい。強く願った。
青白く光る石の下、ゴブリンたちの巣は静かだった。
静かで、乾いていて、あたたかかった。
私は毛皮に包まりながら、もう一度だけ部屋の中を見回した。
どこか懐かしい部屋。周りはみんな私。
でも、みんな私ではない。
これから少しずつ知っていくのだろうと、瞼を閉じて、思った。




