16
「そろそろ出るよ」
頷いて、その背中を追う。
外は、さっきまでと同じように暗かった。火は消したままだから、頼れるのは壁や床に埋まった青白く光る石だけ。
でも、もう目はだいぶ慣れている。ゴブリンの背中がどこを選んで進んでいるのか、前よりはちゃんと見えた。
通路はすぐに、下層らしい荒れ方に戻った。
壁は崩れ、床は斜めで、獣や虫が何度も通った擦れ跡が白く残っている。
落ちて、食われて、捨てられる場所。
ゴブリンは無言で進む。私も槍を抱え直して続いた。
細い道だった。ところどころ床が黒く濡れている。私はそこを避け、乾いた石だけを選んで飛ぶ。
とんとん跳ねて、しばらく進むと、風が変わった。
わずかに乾いている。下層のぬるい獣臭が薄れ、その代わりに、砕けた石と古い埃の匂いが混じり始めた。
私は顔を上げた。
「これ、上から吹いているよね」
ゴブリンが頷く。
「そう。もうすぐ中層だよ」
足が軽くなった。
けれど、道のほうは素直に進ませてくれなかった。道はそこで急に崩れ、片側が大きく落ちた斜面へ変わった。下層の獣道はまだ続いているのに、その先にだけ、急に真っ直ぐな線が現れる。
壁だ。
自然の岩肌じゃない。削られ、積まれ、崩れながらも形を保っている石の壁。その一部が割れて、斜めに口を開けていた。
「……あの隙間って」
「境界だね」
ゴブリンが割れ目の手前で止まった。
壁の割れ目は、体を横にすればどうにか抜けられそうだった。
「ここから先、下のやつらはあんまり来ないんだ」
「なんでだろう」
「落ち着かないからだろうね」
「そうなの?」
「うん、匂いとか、音とか、人の気配とかたくさんあるからね」
私は割れ目から向こう側を覗いた。
暗い。でも、下層の闇とは違う。湿り気が少なく、風が細くまっすぐ抜けている。さっきまでの獣道が、生き物が通るだけの道だったとしたら、向こうは人が通るために切った道みたいだった。
『ようやくね』
ベルザリアが言った。
『ここから先は、食うか食われるか心配する必要は減るわ』
「私、食われる側だったんだけどね」
『結構美味しかったわよ』
私は答えず、槍を持ち直した。
ゴブリンは割れ目に手をかけ、そのままするりと先へ入る。そのあとに続いた。肩が擦れる。頬も傷つけた。けれど、抜けた先の空気ははっきり違っていて、些細なことは気にならなかった。
まだ洞窟の中だ。まだ暗い。なのに、息がしやすい。
床も下層より平らだった。壊れていても、形は残っている。ここには、たしかに人の手が届いていた。
私は息を大きく吐いた。
「全然違うね」
「ね」
ゴブリンは短く言って、先を見た。
その視線の先で、何かが動いた。
私はすぐに槍を上げかける。けれど、ゴブリンが手を出して制した。
「ちょっと待って」
青白い石の光の中を、黒いものが細い列になって流れていく。
最初は影かと思った。
でも違う。
蟻だった。
ただし、人ほどの大きさがある。黒く硬い殻、長い触角、太い顎。一匹だけではない。五匹、列を崩さずに床の中央を横切っていく。
壁を這う個体もいれば、天井近くまで登るものもいる。どれも迷いがない。
私は息を呑んだ。
「……なにあれ」
「蟻道だね」
ゴブリンが囁く。
「いつも、大体この時間に通るんだよ」
大きな蟻たちは私たちのほうを見向きもしなかった。ただ決まった道を、決まった速さで渡っていく。その静かさが、気味悪い。慣れている。ここを自分たちの道だと知り切っている動きだった。
「見つかったらどうなるかな」
「囲まれて、食べられるよ」
そりゃそうか。
私は壁際へ体を寄せ、息を殺す。蟻の列は細長く続き、やがて最後の一匹が天井のひびへ消えていった。そこまで見届けてから、ようやく肩の力を抜く。
「もしかして中層って、こういうのばっかり?」
「集団で動く生物が多いかも」
「下層よりましなのかな、これ」
ゴブリンは一拍考えた。
「難しい質問だ、それ」
そのまま進むと、道はゆるやかな階段へ変わっていった。風はさらに乾き、獣臭はかなり薄い。
石段をしばらく進むと、崩れた門が見えてきた。
片側は落ち、もう片側もひび割れたまま傾いている。その向こうから、今までより濃い白い光が流れてくる。
「あれの向こうがもしかして」
「うん」
「中層?」
「多分中層」
「多分?」
「おそらく絶対」
なんて私らしい答えなのだろう。
門の手前まで来ると、床に落ちているものが変わった。骨は減り、代わりに割れた陶片や朽ちた布の切れ端が増えている。
ゴブリンが門の陰へ滑り込み、向こうをうかがう。私も続く。
門の向こうは静かだった。這う音も、羽音も、遠吠えもない。その静けさの中で、どこか遠くのほうから、石と石が触れ合う細い音だけが時々響く。
「行けそう?」
私が訊くと、ゴブリンは頷いた。
「今なら大丈夫だね」
私は槍を持ち直した。
門をくぐると、空気がはっきり変わった。
軽い。
冷えている。
そして乾いている。
壁に埋まった青白く光る石も、下のものより白に近い。床はひび割れていても平らだった。
下層を抜けたのだと、ようやく実感した。
『気を抜かないことね』
ベルザリアが言った。
『ここからは、魔物より人間に気をつけなさい』
私は答えず、前を見た。
ゴブリンは、私の前を歩く。
今より高い場所へ。
人のいる側へ、ともに進む。
そのとき、通路のどこかから、かすかな話し声がした。
私は足を止める。
低い男の声が二つ。何を言っているのかまではわからない。でも、獣でも魔物でもなく、人の声だとすぐにわかった。
ゴブリンの耳がぴくりと立つ。
「……まずいかも」
その一言だけで十分だった。




