15
どちらからともなく、動いた。ほとんど同時だった。
相手は半歩だけ下がる。
私は槍を持つ手を引く。
細い通路の空気がわずかに緩んだ。
「……そっちは一人なの?」
私が訊くと、ゴブリンは一拍置いてから答えた。
「今は、ね」
答え方が、ひどく自分っぽかった。
断言しない。
嘘でもない。
でも、全部は言わない。
私は顔をしかめる。向こうも同じような顔をした。
『反吐が出るわね』
頭の奥でベルザリアが言った。
『さっさと殺してしまえば?』
「なんでよ」
『気持ち悪いもの』
うまく言い返せなかった。その気持ちは一緒だったから。
ゴブリンが、私の火を指さした。
「それ、消したほうがいいよ」
「なんで」
「明るいと寄ってくるから」
短い説明だった。でも十分だった。さっきから火を持っているせいで、自分がこの暗い場所でひどく目立っている感覚はあった。
「でも、消したら見えないよ」
「見えないほうがましなときもあるよ」
妙な説得力があった。
ここで生きている側の言葉だった。
『従う必要はないわよ』
ベルザリアがすぐに口を挟む。
『さっさと殺しましょう』
「すぐにそれだ」
『いいじゃない。簡単で』
その返しに呆れた瞬間、奥と背後の両方から、同時に小さな音がした。
石の擦れる音。
爪が岩を引っかく音。
振り返る。火が揺れた。
「……遅かったみたい」
軽い口調なのに声だけで、冗談ではないとわかった。
「消して」
「でも」
「早く」
天井の奥でまた羽音がした。蝙蝠みたいな軽さじゃない。もっと大きい。乾いていて、硬い翅の音。
私は迷っている暇がなくなった。燭台を足元へ寄せ、石床へ押しつける。火がじゅっと音を立てて消えた。
世界が青白く沈む。
光る石の煌めきが残り、目が慣れるまで何もかもが輪郭だけになった。その暗さの中で、ゴブリンが低く囁く。
「こっち来て」
私は一瞬だけ躊躇した。
『行くの?』
ベルザリアが言った。
「うん。今は、他に頼れないし」
そう答えて、私は影を追った。
通路の脇に、裂け目みたいな細い横穴があった。人ひとりがやっと体を滑り込ませられる程度の幅しかない。
ゴブリンはそこへ迷いなく潜り、私は槍を斜めにしながら後を追う。狭い。息が詰まる。けれど、なんとか入り込めた。
直後、外を大きなものが駆け抜けた。
影だけが見える。
狼より大きく、道喰いよりは小さい。
一匹だけじゃない。
通路の向こうで、同じ気配が続けて三つ、四つ、滑るように過ぎていく。火があったら、たぶんこっちへ迫っていた。
私はそこでようやく、自分の隣にいる相手へ目を向けた。
横穴は狭くて、私とゴブリンの肩がほとんど触れそうだった。青白く光る石の反射で、相手の横顔がぼんやり見える。
鼻筋の低さも、耳の尖りも、人間とは全然違うのに、目を細める癖とか、唇の端の引きつり方とか、そういうどうでもいいところが、鏡で嫌というほど見た私に、嫌なくらい似ている。
ゴブリンもこっちを見た。
目が合う。
すぐに逸らす。
そこまで一緒だった。
「……ありがとう」
思わず言うと、相手はわずかに眉を上げた。
「素直だね」
「取り柄だもん」
「そうだったね」
それだけ言って、また外の気配へ耳を向ける。
気味が悪いのに、会話の噛み合い方だけは自然だった。
外の足音が遠ざかっていく。
やがて、完全に消えた。
それでも私たちはしばらく動かなかった。先に出たほうが負けみたいで、でも勝ち負けの話でもない。ただ、同じだけ警戒して、同じだけ迷っている感じがした。
先に口を開いたのは、また向こうだった。
「その槍ね」
「うん」
「持ち方、ちょっと変じゃない?」
私はむっとする。
「さっき拾ったばっかりだし、しょうがないじゃんか」
「使い慣れてないってすぐ分かっちゃったよ」
「分かるものなの?」
「わかるよ。私も、最初はそうだったから」
その言葉に、言葉が詰まった。
「最初って」
ゴブリンは答える前に、ほんの一瞬だけ目を細めた。考えているというより、どこまで言うか測っている顔だった。
「ここに来てすぐの頃ね」
それだけだった。
短い答えの中に、私が知らない時間が詰まっている気がした。
私は言葉を絞り出した。
「……そっちは、どこまで知っているの」
「何を?」
「この世界とかこの場所のこととか、ここから出る方法とか」
ゴブリンは黙った。
沈黙すらも、私に似ていた。
「……世界のことはまだ分からないけれど」
やがて、ゴブリンは言った。
「この場所のことなら、結構知ってる。出たいなら、上に行く道はあるよ。でも、真ん中は見張りがいる。火にも匂いにも敏感なやつらがいる」
私は槍を握る指に力を込めた。
「じゃあ、火はこのまま消しておいたほうがいい?」
「うん」
「暗いのやだなぁ」
「真っ暗じゃ眠れないタイプだもんね」
その返しが、かすかに可笑しくて、でも笑えなかった。
私は横目でゴブリンを見た。
私は、自分のことをあまり信じていない。
経験は浅いし、努力家でも天才でもない。
なのに、目の前には、頼りになりそうな私がいた。
だったら私も、まだ、これから強くなれるのかもしれない。




