13
通路を上るにつれて、風の質が変わっていく。
ぬるい獣臭が薄れ、その代わりに乾いた石と、灰の匂いが強くなった。火を掲げなくても、前が見える。壁に埋まった石の色も、青白さより淡い白に近づいていた。
進んでいるのだと実感した。
とはいえ、道のりが楽になるわけじゃない。
槍は重いし火は熱い。道喰いとの戦いのあとから、胸の奥の炉すら不機嫌そうに燻っている。歩くたび、熱と空腹が一緒になって体の奥で揺れた。
「……ハラペコだ」
『でしょうね』
ベルザリアの返事はあっさりしていた。
『あれだけ力を使ったもの。当たり前よ』
「また食べなきゃいけないのか……」
『次は何を食べるのかしら。楽しみだわ』
生肉と虫だけは絶対に嫌だった。
私は槍を肩へ預け直し、前へ進んだ。通路はしばらく細いままだったが、やがて横へ広がる小さな踊り場みたいな場所へ出た。
天井は低い。けれど、そのぶん生き物が入りにくい。岩壁の片側がえぐれ、ちょうど人ひとりが体を寄せられる窪みになっていた。
『そこ、休むにはちょうどいいわ』
ベルザリアが言った。
私は周囲を見回した。生き物の気配はない。新しい血の匂いもない。魔物の爪痕も、通路よりずっと少ない。
「敵こない?」
『絶対はないわ』
「だよね」
『けれど下よりはマシよ。そこは中層に近いから』
私は壁際に腰を下ろした。座った瞬間、脚の力が抜ける。どうやら無理をしていたらしい。槍を横へ置き、燭台を足元の石へ差し込む。橙色の火が小さく揺れ、狭い踊り場だけをぼんやり照らした。
ようやく、息がつける。
ここは、静かだった。
どこかで何かが這う音も、爪の音も、いまは聞こえない。ただ自分の呼吸と、遠くを抜ける風の音だけがあった。
その静けさのせいか、いろいろと考えてしまう。世界とか、私の体のこととか。
私は無意識に自分の腕を抱いた。
「……ねえ」
『なによ』
「この体、どこまで治るの?」
『どこまでって?』
「腕がなくなっても治るの?」
『生えてくるわ』
あまりにも当然に言われて、私はたぶん、目を丸くしていた。
「え」
『その程度で驚くの?』
「驚くよ!」
思わず声が大きくなる。私は慌てて口を押さえ、声を落とした。
「じゃあ、首とか、腹とか」
『残り方によるわね』
ベルザリアは冷静だった。
『時間はかかるし、お腹が空くわ。でも、戻る。少なくとも、普通の人間みたいに一度壊れたら終わり、ではないわ』
私はしばらく何も言えなかった。
腕が生える。
腹を裂かれても、たぶん戻る。
それは助かるということなのかもしれない。
でも、そんなものに慣れてしまっていいのだろうか。
その感覚を当たり前みたいに覚えてしまったあとで、私は元の体に戻れるのだろうか。
戻れたとして、何事もなかった顔で、自分の手を見られるのだろうか。
『暗い顔ね』
ベルザリアが言った。
「そりゃそうでしょ」
『いま元に戻れるかどうか、なんて考えても仕方ないわ。考えるだけ無駄よ。ここを出ることを一番に考えなさい』
「……達観してるなぁ」
『ただの事実よ』
その冷静な物言いが、ありがたくもあった。泣いても、嫌がっても、世界は回り続ける。だったら今必要なのは、慰めじゃなくて次に進むための事実なのだろう。
私は膝を抱えたまま、火を見た。
そして、視線を自分の影へ移した。私の影であって私のものではない、ベルザリアの影へ。
「……それで、ベルザリアって、封じられる前は何していたの?」
頭の奥が静かになった。
長い沈黙だった。
『……ずいぶん雑な聞き方ね』
「だって、どう聞けばいいかわかんないし」
『そう』
また沈黙。
答えたくないのかと思った。けれど、やがてベルザリアはぽつりと言った。
『食べていたわ』
「……うん」
『壊して、奪って、食べていたわ。人間は私を暴神と呼んで、怖がった』
声は平坦だった。誇っているわけでも、恥じているわけでもない。ただ、そういうことがあったと並べる声音だった。
『でも、最初からそうだったわけじゃないのよ』
私は思わず顔を上げる。
「なにかあったの?」
『そこまで話す義理はないわ』
「えぇ……」
『その顔やめなさい』
呆れたみたいな響きが返ってくる。でも、さっきまでとは違う温度が混じっていた。
最初からそうだったわけじゃない。
その一言だけで、ベルザリアがただの怖い存在ではなくなった気がした。もちろん、だからといって安心なんてできない。私を食べたし、性格は悪いし、見下したように物を言う。
それでも。
ここで、私の中にいるのがただの空腹だけじゃないのだと思うと、孤独感がいくらか遠のいた。
腹が鳴る。
今度は人間の空腹みたいな、情けない音だった。
『お腹がなっているわよ』
「わかってるよ」
『下に戻って道喰いでも食べる?』
「絶対やだ」
『なら我慢ね』
私は壁へ頭を預けた。冷たい。火照った体を冷ましてくれる温度があった。
火は静かに燃えている。
ベルザリアは頭の中で、相変わらず偉そうだ。
でも、最悪な状態ではない。
幾分ましだ。
そう思ったところで、通路の奥から小さな石の転がる音がした。
私は急いで体を起こす。槍を掴んだ。火が揺れた。
『おかしいわね。魔物は来ない場所だと思ったのだけれど』
ベルザリアの声が低くなった。
踊り場の外、細い通路の先で、何かの影がゆっくりと動いた。
大きくない。
でも、小さくもない。
火の影が届くぎりぎりのところで、それはぴたりと止まった。




