第9話 秋葉原ネカフェラビリンス
秋葉原の空気は、情報のゴミが交じって乾いている。
電気街口を出た瞬間、アカリは反射的にパーカーのフードを深く被り直した。不特定多数の視線、極彩色の看板、濁流のような電子音。情報の密度が高すぎて、空気が肌をチリチリと刺す。
「ほんとっ、ここって情報が渋滞してるよね」
アカリは独り言を漏らし、人流を縫うように歩く。今日の装備は軽装だ。烏天狗の「お勤め」用の正装ではなく、街に溶け込むための厚手のパーカーに、カンガルーポケットには扇を忍ばせている。
上空。電柱から電柱へと飛び移る、一際大きな黒い影。
『アカリ。……地元のカラスが囁くのは、万世橋の先だ。店名は「ラッキーホーム」』
「了解。……朝から三軒回ったけど、どこも普通のネカフェ。もう、満喫したい……」
液晶モニターが壁面を埋め尽くす路地へ入る。
秋葉原には、奇妙な噂が絶えない。「開かずの個室」、「一時間滞在したつもりが外は夕暮れ」、「ずっと同じ書棚が続く」。都市伝説の類ではあるが、東京の秩序を守る烏天狗としては看過できない。
ジャンク品が積み上がった路地の奥。看板を見つけた。
【ネットカフェ・ラッキーホーム:24時間営業】
一見、どこにでもある古びた店舗だ。
だが、自動ドアの前に立った瞬間、肌に微かな「チリッ」とした帯電の感触が走った。
「……見つけた」
鼻を突くのは、古い空調の匂いと、微かな澱みの残り香。
アカリはドアを押し開き、秋葉原の喧騒を背に、静まり返った内部へと足を踏み入れた。
*
受付には誰もいなかった。
呼び出しベルが一つ。横には「空席状況:満席(調整中)」の札。
手続きなしで中へ入る不快感があったが、奥から来る澱みは無視できない。
「おじゃましまーす……」
一歩踏み込むと、背後の自動ドアが閉まる音がやけに遠くに聞こえた。この瞬間、店外の気配が完全に遮断された。
通路に入ると、一見すると普通のネットカフェなのだが、そこだけ不自然な妖気が漏れていることに気づく。何か、特定の領域へ迷い込んだような――強力な結界の感触。
通路の角。足元の絨毯が、妙に粘つくような感触。三メートル先に置かれた、半分だけ中身の入った紙コップ。
角を曲がる。
また、同じ絨毯の感触。同じ位置に、同じ凹みの紙コップ、ドリンクバー、ソフトクリームマシン。
「……これ、ループじゃない。空間を継ぎ接ぎ(パッチワーク)してるんだ」
アカリは足を止めず、奥へ奥へ進んだ。
コーヒー切れのドリンクバー、年期物のソフトクリームマシン。受け皿に付いた、一週間前からのものと思われる微かな汚れ。
通路を十歩、再び右へ。
また、同じ汚れのあるソフトクリームマシン。
「甘い物……甘い物……甘い物……あの誘惑、強すぎっしょ……。」
とりあえず、目印代わりに漫画棚から一冊抜き出し、通路の角に置いた。
そのまま一巡。漫画は消えていた。代わりに部屋番号が「103」から「108」へと飛んでいる。
「あー、もう、面倒。……こういうの、ほんと性格悪いよ」
逆走を試みる。
本来なら受付に戻るはずの扉を開ける。だが、そこには見たこともないほど長い漫画棚の列が、どこまでも続いていた。戻ることで、より深い反復へと引きずり込まれる。
一時間。あるいは二時間。
景色が摩耗し、時間感覚が溶ける。体力が削られる。
足腰には、同じ景色を歩き続ける特有の重い疲労が蓄積していく。
普通の侵入者なら、ここで「偽の出口」に誘導され、外とは別の場所に吐き出されるだろう。
「見つけるまで帰してくれませんよね……」
師匠の顔が一瞬、頭をよぎる。
二時間近く歩かされたところで、さすがに足が止まった。
「……さすがに……」
同じ通路、同じ漫画、同じ棚、襲い掛かるサイクル。
目印の本は今、何週目かをはっきり教えてくれる……。
アカリは一度目を閉じた。
視界じゃない。別の感覚に切り替える。
ポケットから扇を出し、軽く返す。
「……凪」
広く、薄く、店内の空気を一枚撫でるみたいに風を流した。
ざらついていた空気が、ふっと均される。
カタカタと続いていた打鍵音が遠のく。
小さく鳴っていたマウスのクリックが沈む。
空調の低い唸りが、床の方へ落ちる。
どこかの個室から漏れていた、湿ったいびきも薄くなる。
寝返りを打つ気配。椅子のきしみ。喉の奥で詰まるようなうめき声。
ばらばらだった生活音が、一度だけ、同じ高さまで揃った。
その静けさのあとで、残る音を聴く。
カチ。
遠い。
……カタ。
それも違う。
右は浅い。
左は同じ。
奥だけ、遅い。
クリック音でも、いびきでもない。
人が中にいる時の響き方じゃない。
何かを挟んで、向こう側から返ってくるみたいな、妙に鈍い遅れ。
「……あー。そこか」
突き当たりの壁。
見た目はただの行き止まりなのに、そこだけ音の返りが悪い。
空気が一枚、遅れて戻ってくる。
アカリは息を整えた。
「性格悪……ほんと」
一歩、踏み出す。
踏み出した先には、スタッフ専用と書かれた、一際古びた扉があった。
*
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、青白い光の洪水だった。
狭い個室内。
壁三面を埋め尽くすモニタ群。
椅子を逆さにして座り、フードを被ったままモニタを凝視している人影。足元にはポテチの袋。
「……はあ。見つかっちゃった」
だるそうなボクっ子の声。アカリは扇を構えたまま、立ち尽くした。
禍々しい怪異を想定していたため、あまりの脱力感に耳の下が熱くなる。
「元凶? ボクはただ見てるだけ。人間さんたちがウロウロしてるのを眺めて……ボクが居るだけで、勝手にこうなっちゃう。……めんどくさい」
「……最悪。これ、ほんとに本人がやる気ないやつだ」
アカリは独り言を漏らし、扇を納めた。影――ニコが、椅子を回転させてアカリに向き直った。
隈の浮いた瞳。中性的な顔立ち。ポテチをつまむ指先に、青白いモニタの光が反射している。
「……キミ、面白い。普通、そこまで根性で跨ぎ越してこない」
「お陰で足が棒だよ。……ここに居着いて何を企んでるの」
「企まない。会いたくないやつを追い払って、ボクが一人で遊ぶだけ。……あー、もういい。見つかったからボクの負け」
ニコは空中にQRコードを投射した。
「これ。LINE。ボクの気が向いた時だけ返信する」
「……お勤め、ご苦労さまです、自分」
アカリは自嘲気味に呟き、スマホを取り出した。
「じゃあね、烏天狗」
「あ、ちょっと……」
ニコが指を弾く。
「あ。最後に一つ……。」
ニコの瞳が、初めてモニタを離れ、アカリを射抜いた。
その瞳には、目の前のアカリではなく、複数のモニタを同時に眺めている時のような、奇妙に焦点の分散した「観測者」の光が宿っていた。
彼女はそこに座っているが、存在の半分は電子の海に溶け出している。まるで、ネットカフェの個室という箱そのものが、ニコという怪異の外殻であるかのように。
(……あ、期間限定のポテチの匂い……。一枚、いい? とか言える雰囲気じゃないか、さすがに)
口にポテチを放り込みながら、ボソッとニコが言った。
「……ネズミに気を付けて」
「……?」
*
「ラッキーホーム」の自動ドアを出ると、外はもう、オレンジ色の夕闇に包まれていた。
アカリは大きく伸びをした。
足腰には、一日中迷宮を彷徨い続けた凄まじい疲労が蓄積している。
上空。街灯の上に、大きな烏。
『アカリ。……終わったか。無事ならいい』
「今、縁起でもないこと言いかけたでしょ」
アカリは呟き、スマホの画面を確認した。
「ニコ」という無機質な名前の連絡先が、一つ増えていた。
「……歩きすぎ……。あー、膝笑う……」
アカリは重い足取りで歩き出した。
ネオンが灯り、情報の波が再び押し寄せてくる。
夕闇に滲む秋葉原。その底知れなさを背中に感じながら、アカリは帰路についた。




