第10話 上野スカルダンス
アメ横の人波は、夕暮れを過ぎると急速に密度を変える。
昼間は観光客と買い物客がひしめき合う通路が、夜になると飲み屋の客と酔った足取りだけが行き交う、別の生き物になる。頭上に張り巡らされた看板や電球が、アスファルトの上に色とりどりの油膜みたいな光を落としていた。
アカリは、ケバブ屋の軒先に立っていた。
串に刺さった肉の塊が回転する機械の前で、トルコ人の店主が馴れた手つきで薄く肉を削いでいく。焼けた脂の匂いが夜風に乗って、御徒町方面へ流れていく。
「オマタセ、ビッグサイズネ」
受け取ったピタパンは、両手で持っても少しはみ出す大きさだった。レタスの端から垂れるヨーグルトソースを舐めとりながら、アカリは人混みの隙間をすり抜けて歩いた。
うまい。脂っこいけど、うまい。香辛料の残り香が鼻の奥で弾けて、今夜の湿った空気を少しだけ乾かしてくれる。
「……お勤め飯としては上出来ね」
独り言は、居酒屋の換気扇の轟音にかき消された。
アカリは最後の一口を噛みしめてから、指先についたソースを拭った。
上野で、夜ごと地鳴りのような音がする。そんな風の噂が高尾に届き、アカリはその真偽を見に来ていた。
ゴミ箱を探して視線を上げた瞬間、肌が粟立った。
アメ横の喧騒が途切れるあたり——上野公園の入り口に面した横断歩道の向こうに、夜の公園が広がっている。街灯がぽつぽつと並ぶ園路は、閉園した動物園と博物館群を繋いでいるはずなのに、今夜はその灯りの色がどこかおかしい。
白いはずのLEDが、微かに青みがかっている。
冬の空気のせいではない。あの色は、澱みが光に干渉するときの——。
「クロマル。公園の空気がおかしい……」
足元の影が、わずかに揺れた。
「博物館のあたりの地面が小さく揺れている。羽にも伝わる。」
「了解……。」
アカリは横断歩道を渡り、上野公園の石段を登り始めた。
噴水広場を抜け、大噴水のそばを通り過ぎる。水は止まっていたが、池の底に溜まった水面が、風もないのに細かく震えていた。
博物館の正門は当然閉まっている。
だが、アカリの目的は建物の中ではない。本館の裏手、寛永寺の跡地へと続く暗い園路を進んだ。
街灯の光が届かなくなるあたりで、空気の質がはっきりと変わった。
湿度が上がったのではない。空気そのものが重くなっている。まるで、地面の下に沈んでいた何かが、呼吸を始めたように。
「……この土地は一度、焼け野原になってる」
独り言だったが、クロマルが拾った。
「昔のいくさだな。彰義隊の兵がここで大勢死んだが、ろくに弔いもされなかったと聞く」
「うん、知ってる。……けど、百五十年以上前の話が今さら……何だって……」
アカリは足を止めた。
園路の先に、小さな墓碑が見えた。彰義隊戦死者の墓。昼間なら観光客がちらほら立ち寄る、目立たない慰霊碑。
その墓碑の前の地面に、亀裂が走っていた。
アスファルトではない。その下のコンクリート基礎、さらにその下の土壌が、何かに押し上げられるように隆起している。亀裂の縁からは、錆びた鉄の匂いと、もっと古い——土と骨灰が混ざった、墓場の底のような匂いが滲み出していた。
「クロマル、退避して。……来る」
地面が割れた。
*
最初に見えたのは、指だった。
土を掴む、白い骨の指。人間のそれより遥かに大きい。ベンチを握り潰すほどの手が地表に現れ、それを支点に、腕が、肩が、頭蓋が、地中から這い出してくる。
園路の街灯が一本、根元から倒れた。鉄柱が飴細工のように折れ曲がる音が、夜の静寂を引き裂いた。
立ち上がったそれは、国立博物館の本館に並ぶ大きさだった。
がしゃどくろ。
飢えと戦で死んだ者たちの怨念が凝集し、巨大な骸骨として実体化した怪異。烏天狗の里の古い絵巻で、その名と姿だけは知っていた。
だが、実物を見るのは初めてだった。
骨の表面が、普通ではなかった。
肋骨の隙間に、焼け焦げた木片が挟まっている。寛永寺の柱か梁か。頭蓋の側面には、錆びた刀の欠片が癒着し、肩甲骨には判読不能な経文の断片が、墨の跡もかすかに残したまま貼りついていた。百五十年分の土と歴史を纏った、巨大な墓標が歩いている。
アカリは、反射的に距離を取った。園路を走り、噴水広場の端まで後退する。心臓が早い。呼吸が浅い。それでも扇子は抜いていた。
「……聞いてないんだけど、こういうの」
骸骨が、一歩を踏み出した。
地面が陥没する。園路の石畳が放射状に砕け、その衝撃がアカリの足元まで届く。ただ歩いただけで、これだ。
扇子を開いた。
「――芭蕉!」
開扇と同時に振り下ろす。一振りで生まれた突風が、骸骨の膝に叩きつけられる。
風は確かに当たった。骨の表面を削るように砂埃が舞う。
だが、骸骨は微動だにしない。
質量が違う。芭蕉の風圧で人間サイズの怪異なら吹き飛ばせる。だが、この巨体には、そよ風と大差ない。
「……押せない。重すぎる」
アカリは舌打ちし、扇を構え直した。
*
風で押せないなら、斬る。
アカリは噴水広場を半周するように走りながら、扇子の角度を微調整した。狙うのは関節。巨体の弱点は、可動部の接合にある。
「――風刃・断!」
親骨から要へと走る力を一本の線に束ね、鋭角に射出する。不可視の刃が夜気を裂き、骸骨の右膝の関節に吸い込まれた。
白い骨に亀裂が走る。膝から下が、ぐらりと傾いた。
効いた——と思った瞬間、異変が起きた。
砕けた膝の周囲の地面が、蠢いた。
アスファルトの下から、小さな骨片が無数に這い出してくる。指の骨、肋の破片、名もない欠片。それらが磁石に引き寄せられるように骸骨の膝に集まり、亀裂を埋め、数秒で元通りに繋がった。
「再生する……。壊しても……、壊しても……」
アカリは走りながら観察した。骨片が集まる方向。地中から這い出す速度。再生が始まるまでの間隔。
全て、胸の方向から引き寄せられている。
骸骨の巨大な腕が振り下ろされた。
直撃ではない。だが、あの質量が振られたときに生まれる風圧だけで、アカリの体は軽々と弾かれた。噴水の縁石を越え、不忍池の方向へ転がる。背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が一瞬で絞り出された。
「……っ、」
膝をつく。視界がぶれる。左の肩が、鈍く熱い。打撲か、ひびか。
不忍池の水面が、骸骨の足音で細かく波打っている。蓮の枯れた茎が、震える水面で踊るように揺れていた。
「……重い。物理的に、重い」
立ち上がる。肩を押さえたまま、呼吸を整える。
正面から壊しても無意味。壊した端から再生する。なら、再生の「源」を潰さなければ終わらない。
胸。骨片が集まる中心。あそこに、核がある。
だが、確認する方法がない。あの巨体の胸郭の内側に何があるか、外からは見えない。
見えないなら——止めて、聴くしかない。
アカリは扇子を閉じた。
「……品川で使ったあれ、もう一度……やる……」
走った。骸骨に向かって、正面から。
巨大な腕が再び振り下ろされる。その軌道を読み、ぎりぎりで内側に踏み込む。骨の指先が背後のベンチを粉砕する音が、耳の横を掠めた。
骸骨の足元。巨大な足の骨の隙間に、アカリは滑り込んだ。
そして、閉じた扇子を、地面に突き立てた。
「――凪」
一瞬の無音。
噴水広場を中心に、空気が止まる。園路の木々の葉のざわめきまでも。骸骨の動きが、目に見えて鈍くなった。
再生が止まる。先ほど風刃で削った膝の亀裂が、今度は修復されずにそのまま残っている。骨片が地中から這い出そうとして、途中で力を失い、アスファルトの上に転がった。
凪の中で、アカリは耳を澄ませた。
全ての音が止まった世界で、一つだけ残る音がある。
銃声。
怒号。
悲鳴。
百五十年前の音が、骸骨の胸郭の奥から、くぐもった反響として漏れ出していた。
そこだ。
アカリは目を凝らした。巨大な肋骨の隙間から覗く、胸腔の闇の奥。黒く凝縮した塊が、鼓動するように明滅している。怨念の核。百五十年分の怒りと無念が、拳ほどの大きさに圧縮されたもの。
——そして、もう一つ。
核を取り巻くように、細い糸のようなものが絡みついていた。骨でも怨念でもない、全く異質な「何か」。規則的な格子模様。人工物のように精緻な構造。
がしゃどくろの怒りは、百五十年かけて自然に溜まったものだろう。しかし、なぜ今日の今なのだろうか。
ふとよぎった疑問は、白亜の巨人の前にかき消された。
凪が軋んだ。
骸骨が、凪の拘束を力任せに振りほどこうとしている。巨大な質量は、空気の骸を押し返す。
限界が近い。凪はループを止められても、この規模の実体を長時間は抑えられない。
アカリは凪を解いた。同時に、走った。
*
胸郭の中に入る。それしかない。
核は外から風刃を撃っても、巨大な肋骨の檻に阻まれる。中に入って、直接叩く。
正気の判断ではないことは、自分でもわかっていた。
「……こんなことしてる場合じゃないのに、さっきのケバブの味がまだ口に残ってる」
自嘲とも独り言ともつかない呟きを残して、アカリは骸骨の肋骨の隙間に飛び込んだ。
暗い。
胸郭の内部は、外から見るより遥かに広かった。肋骨が天蓋のように頭上を覆い、その隙間から園路の街灯の光が筋になって差し込んでいる。骨の内壁には、経文の断片や錆びた金属片が、無数の傷跡のように散らばっていた。
空気が重い。呼吸をするたびに、怒りと悲しみの残響が肺に侵入してくる。
核が、目の前にあった。
拳ほどの黒い塊。鼓動するたびに、周囲の骨が共振し、微かに軋む。
そして、あの格子模様の糸が、核の周囲に繭のように張り巡らされていた。
肋骨が動いた。
閉じようとしている。胸郭が、異物を排除しようと収縮を始めた。
「――籠!」
自分の周囲に風の防壁を張る。六角形の網目が、圧迫してくる肋骨と体の間に薄い層を作った。
だが、籠の外側から骨の圧力がかかる。品川の列車内で使ったときとは桁違いの物理的な力。籠が軋む。風の網目が、一箇所、二箇所と裂け始める。
「……っ、重い……!」
腕が震える。扇子を握る指先の感覚が薄れていく。
核に手を伸ばす。だが、格子模様の糸が邪魔をする。指先が触れた瞬間、糸が刃のように鋭く切り返した。掌から血が滲む。
核の中から、声が聞こえた。
声ではない。感情の残響。怒り。無念。恐怖。死にたくなかった。逃げたかった。弔ってほしかった。百五十年間、誰にも聞こえない場所で叫び続けた声。
「……わかった。わかったから」
アカリは、歯を食いしばった。
風じゃ砕けない。この核は物理的な力では壊せない。百五十年分の怒りを、風で吹き飛ばすことはできない。
なら、燃やす。
籠を維持したまま、空いた左手で懐を探った。指先が、紙の感触に触れる。符。焔走用の符が、一枚だけ残っていた。
「……最後の一枚、か。使い所としては、まあ」
アカリは符を核に向けて構えた。
右手の扇子で、最後の風を送る。
「――焔走」
符が燃えた。
小さな火が、扇子の風に乗って核に向かう。風が炎を引き伸ばし、一本の焔の筋がまっすぐに黒い塊を貫いた。
核が、叫んだ。
声にならない振動が、胸郭の内部を満たした。肋骨が一斉に震え、籠の外側から圧力が跳ね上がる。アカリの体が押し出されそうになる。
だが、炎は止まらない。
百五十年分の怒りを、風に乗せた火が舐め尽くしていく。核の表面が罅割れ、内側から赤い光が漏れ出した。
格子模様の糸が、最初に焼け落ちた。
あの異質な構造物は、核そのものより脆かった。火に触れた途端、糸は灰になって散った。
そして、核が砕けた。
黒い破片が飛び散り、一つ一つが微かな光を放って消えていく。怒りでも悲しみでもない、もっと静かな——安堵に近い何かが、光の粒子になって胸郭の内側を満たした。
骸骨が、崩壊を始めた。
肋骨が力を失い、外側へ倒れていく。アカリは崩れる骨の隙間を縫って、外へ飛び出した。
転がるように着地する。膝と掌が石畳を擦り、皮が剥けた。
振り返ると、巨大な骸骨が、ゆっくりと崩れ落ちていくところだった。
轟音。
骨が地面に散乱する。園路の街灯がまた一本倒れ、噴水の縁石が砕けた。だが、散った骨はもう動かない。白い破片が月光の下に散らばり、ただの古い骨として横たわっている。
焼け残った経文の断片が、最後に微かな光を放って消えた。
弔いの真似事にもならない。けれど、少なくとも「叫び続ける」ことは、終わった。
「……はぁ……はぁ……」
アカリは膝をついたまま、呼吸を整えられずにいた。
手が震えている。左の掌から血が垂れ、石畳に小さな染みを作っていく。肩の鈍痛は、もう腕全体に広がっていた。視界の端がちらつく。
ケバブの味は、もう消えていた。代わりに、口の中に鉄の味がする。
「……勘弁してよ、こんなの……」
*
崩壊から、どれくらい経ったのか。
五分か、十分か。アカリは散乱した骨の中に座り込んだまま、動けずにいた。
夜風が戻ってきていた。
骸骨が立っている間、押し殺されていた空気が、ようやく上野の公園を巡り始めている。木々の葉が擦れる音、遠くの国道の車の音、不忍池の水面を渡る湿った風。夜の上野に戻った、ごく当たり前の音の層。
アカリは立ち上がった。
膝が笑っている。だが、帰る前に一つだけ、確認しなければならないことがあった。
焼け落ちたあの格子模様の糸。がしゃどくろの核に巻きついていた、あの異質な構造物。あれは、この怪異の一部ではなかった。外から持ち込まれたものだ。
後楽園の保守通路で見た、骸骨ムカデの残滓と同じ匂い。
「……クロマル、見てた?」
足元の影が、わずかに揺れた。
「ああ、あれほどの闇は見たことがない……」
アカリは、冷静なはずのクロマルの返事が、わずかに震えていたことを聞き逃さなかった。
足元に転がる小さな骨片を見つめる。
「多分……繋がってる……」
最近、変な事件、多くない?——あのとき感じた違和感が、背中に張り付いている。個々の怪異は別々に見えた。あの地下鉄の冷え切った空気も、新橋の街を這っていた粘つくような気配も、その土地固有の濁りだと思っていた。だが、その裏側に、名状しがたい何かが蠢いていることだけは感じ取れた。
上野公園に、朝日が差し始めていた。
茜色の光が、散乱した巨大な骨の上に薄く広がっていく。夜の間に砕けた園路の石畳や、折れ曲がった街灯は、朝の色に照らされて、人間社会ではただのガス爆発や事故の跡として処理されるだろう。夜明けとともに、実体化した怨念の後味も薄れていく。
「アカリ、大仕事だったな。親方様には報告しておく」
「ありがとう……」
こういう時のクロマルの声は頼もしい。
「それで、次の噂……」
「あーっ、ちょっと空気読みなさい!」
アカリは痛む体をほぐそうとして、顔をしかめた。
左肩が痛い。右膝も痛い。掌の傷は血が止まったが、扇子を握ると滲む。体のどこを動かしても、何かが軋む。
ケバブの店主は、もう仕込みを始めているだろうか。そんなことを考えた瞬間、腹の奥から間の抜けた音が鳴った。
「ぐぅ……」
「……まず、ご飯食べよ」
朝靄の中を、アカリはゆっくりと歩き出した。
アメ横の方向へ。石段を一段降りるたびに、膝が文句を言った。背後には、朝日に照らされた上野の森が広がっている。博物館の白い壁が、夜の戦闘の痕跡を何も知らないかのように、穏やかに光を受けていた。
*
アカリが去った後。
無人となった現場に、ひっそりと人影が現れた。
小さい。子どもくらいの背丈。だが、存在の「質」が人間でも妖でもなかった。空気の密度が変わらない。影が落ちていない。そこに「立っている」というより、そこに「映っている」ような——。
少女は、周囲に散乱する巨大な白骨を見渡して、静かに口を開いた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……いたくないよ……」
少女は散乱する巨大な肋に、そっと指先を置いた。
「ほねだから、もう、おもくないよ……」
数トンの質量があったはずの白骨が、音もなく浮き上がる。
重さだけが、どこかへ抜け落ちたみたいだった。
骨はひとつ、またひとつと折り畳まれ、
少女の掌の上で、小さな白い球になった。
少女の姿も、もうそこにはなかった。
朝靄の中、そこにはただの事故現場のような静寂だけが残っていた。




