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東京百鬼パレード 〜烏天狗アカリのお勤め日誌〜  作者: Studio_Anko


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第0話 東京ミッドナイト

## Ⅰ. 高尾山


 高尾山の木々の中。

 枝の上に腰を下ろし、烏天狗の少女は眼下に広がる東京の夜景を見下ろしていた。遠くの灯りは宝石みたいに瞬いているのに、山の空気は湿っていて、羽のあいだにじっとりと張りつく。すぐ隣の枝には、見慣れた烏が一羽、いかにも慣れた顔で止まっていた。


「**あ・の・で・す・ね、**

 問題はわたしのおやすみが少ないことを言ってるわけ。

 今週三件とか、いくらわたしでもね。

 それにこの羽が黒いことと、お勤め環境が黒<ブラック>であることは関係ないの」


 烏は首を一度だけ傾けた。聞き飽きた愚痴に付き合う顔だった。


「ああ、そうだな。これも関係ないことだが、親方様が東京タワーの話をしてたぞ」


「えっ! 東京タワーって、そう言えば、丸く治るとか……」


「早く終われば観光しても良い……と言っていたが」


 少女の目がわずかに明るくなる。

 けれどその顔はすぐに、疑うような、計算するような、いつもの顔に戻った。


「それ、先に言ってほしいんだけど。

 いや、待って。そういうの、だいたい”ついでに仕事”が増える流れじゃない?」


 烏は何も言わない。

 山の上の枝が、夜風にわずかに軋む。

 少女はもう一度、遠くの東京を見た。

 暗い空の下に広がる光の塊は、ここからだと静かで綺麗だ。近くに行けば面倒ごとばかりなのに、遠くから見ているぶんには、少しくらい騙されてもいい気がした。


-----


## Ⅱ. 墨田川


 川底は暗い。

 街の音は水の層をいくつも通るうちに角が取れて、遠い振動みたいになる。泥の匂い、石に触れる水の流れ、時々混じる金属っぽい味。少女はその中を、泳ぐというより滑るみたいに進んでいた。


 やがて水面へ向かう。

 黒い川の膜を押し上げるようにして現れたのは、六角模様のワンピースとハイブーツを履いた少女だった。息継ぎをするわけでもなく、ただ川面に浮かび、一度目を閉じる。


 今日一日を、静かに振り返る。

 いつものように学校に行った。退屈な授業を受けた。暗記した教科書の行間を勝手に考察した。日が暮れるまで、本の海に沈んでいた。どれも別に嫌いじゃない。けれど、好きとも少し違う。正にそういう時間だった。


 少女はゆっくり目を開く。

 橙と紫の双眸が、夜の空を映した。


 傍から見れば、川の真ん中で月を見ているだけの少女だ。

 でも彼女にとっては違う。一級河川の真ん中で、誰にも邪魔されず月を独り占めできるこの時間は、何よりも大事だった。


 その月が、不自然に欠けた。

 何かが横切る。

 月を遮るほどの大きさの何かが、空を泳いでいる。


 少女はしばらく黙ってそれを見ていた。

 それから、小さく呟く。


「そらとぶさかな……しらないさかな……」


 声は水面の上でほとんど広がらず、夜の中にそのまま落ちた。

 これから起きうることを考える。静かで大切なこの時間が蝕まれる可能性。その仮説について、頭の中で組み立てる。けれど、途中で止まる。


「……まだ情報、足りない……」


 そう言って、少女はそのまま静かに水の中へ還っていった。

 川面には波紋だけが残り、ほどなくして、それも月の下に溶けた。


-----


## Ⅲ. 麻布十番


 最も有名な歓楽街のすぐ隣に、江戸の頃から続く静かな商店街と、いくつもの寺社が残っている。

 その一角。少しだけ小高い場所から周囲を見守るように、稲荷神社があった。


 緑の狐耳を揺らしながら、幼い顔立ちの少女が石段を一段ずつ上がっていく。鳥居の柱を軽くぽん、ぽんと叩き、その響きと手応えを確かめるように指先を止めた。


「問題なしだね。よーしっ、よし」


 ほっとしたように頬を緩める。

 それから振り返り、左右の狛狐を見た。


「二人とも、変わりなかった?」


 二匹は静かに頷くようにそこにいる。少女はそれだけで十分らしく、小さく満足そうに笑った。


 神社の周囲をひと通り巡り、本殿の方へ戻る。けれど、その途中で足を止めた。

 本殿から少し離れた、小さな社にだけ、そっと視線をやる。


「平和が何より、だよ。ね、お姉ちゃん」


 声は明るい。

 でもその表情には、どこかだけ寂しさが残っていた。


 少女は持っていた浪速屋のたい焼きを、そっと供える。まだ少しだけ温もりが残っている。白い息も立たない夜だったのに、その湯気だけがやけに柔らかく見えた。


 それから指先を胸の前で合わせ、小さく印を結ぶ。


(かい)っ」


 声と同時に、その姿がほどける。

 幼い少女の形は白い狐の神獣へと変わり、そのまま軽やかに跳ねて本殿の屋根へ上がった。

 月の光を受けた白い尾がひとつ揺れて、すぐに静かになる。

 神社を見下ろすその場所で、狐は丸くなり、何事もなかったように目を閉じた。


-----


## Ⅳ. 高尾山 天狗の里


 懐かしい日本家屋だった。

 磨かれた廊下、少し軋む柱、夕方の匂いをまだ薄く残した畳。そこに、桜色の髪飾りと空色の着物がよく似合う、白い髪と白い羽の少女がいた。


 手にした昔ながらのハタキで、棚や柱の埃をはたいていく。ぱた、ぱた、と乾いた音が家の中を小さく巡る。


 けれどその手は、どこか落ち着かない。


「お姉ちゃん、帰り遅いなぁ」


 独り言みたいに呟いて、縁側の向こうをちらりと見る。


「今日はお勤めないはずなんだけど……」


 口を尖らせたまま、もう一度ぱたぱたとハタキを振る。

 そうしているうちに、ふと家の中の”食いしん坊”の顔が浮かんだ。帰ってきたら真っ先に台所を覗く顔。勝手に鍋を開ける顔。


 その瞬間、別のことを思い出す。


「あぶないあぶない」


 少女はハタキを置いて、駆け足で台所へ向かった。

 鍋は今にも吹きこぼれそうになっていて、慌てて火を弱める。湯気がふわっと立ち上がり、家の中に優しい匂いが広がった。


 そっと味見をする。

 口元が、すぐに綻んだ。


「うん、だいじょうぶ」


 それから、お玉を持ったまま小さく笑う。


「もう、先になくなっても知らないからね」


 言いながら浮かぶのは、また別の食いしん坊の顔だった。

 どっちも、こういう時だけ妙に目ざとい。


 少女は鍋をかき混ぜながら、少しだけ肩の力を抜く。

 家の中は静かだった。外の風の音も、烏の声も、今は遠い。

 だからこそ、誰かが帰ってくる足音を、つい待ってしまう。


 湯気の向こうで、少女はもう一度だけ玄関の方を見た。


-----


## Ⅴ. 神保町


 文机の上のコーヒーから、細い湯気が立っていた。

 夜の静けさの中で、それだけがゆっくり揺れている。


 小さな和箪笥の上に、白い折り紙がいくつも並べられていた。どれも同じ形に折られ、同じ向きで整っている。


 そのうちの一つが、音もなく、すっと裂けた。


 彼女は目を閉じる。

 指先を胸元で組み、静かに印を結んだ。


「三号、後はお願い。座標は寅戌の八……」


 言葉は低く、短い。

 それだけで十分らしかった。


 和装の彼女は少しだけ考えるように間を置き、そのまま正座を崩さず筆を取る。

 巻物の上を走る筆先は速いのに乱れがなく、流れるような文字が次々と溜まっていく。


 ――侵入有(三)捕縛……


 書きつけたあと、彼女はその文面を一度だけ目で反芻した。

 巻物はひとりでに巻き上がり、何事もなかったように、あるべき場所へと滑っていく。


 裂けた紙はもう動かない。

 代わりに、彼女の手のひらの上で、一片の白い紙がひとりでに折り上がっていく。角が合い、翼が生まれ、小さな人形の形を取ると、それは音もなく和箪笥の上へ移り、新しい一体として静かに居座った。


「……今でも、あなたとのお約束はおまもりいたしております……」


 その声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。

 一仕事を終えた彼女は、ようやくコーヒーに口をつける。まだ残っていた温かさが、静かに喉を通っていった。


-----


## Ⅵ. 浅草


 芸の街も静まる頃だった。

 観光にはもう遅い時間。浅草寺の輪郭も、金色の雲も、夜に溶けた霞の向こうで少しだけ鈍って見える。


 その淀みの中に、一条の弦の音が走った。

 続いて、低く細い語りの声。


 吾妻橋の袂。

 月の意匠を刻んだ琵琶を抱えた語り女が一人、目を閉じたまま弾き続けている。


 パァン。

 和の音色に混じって、乾いた炸裂音が鳴った。

 パァン、パァン。

 女の指が速くなる。

 座して奏でるような静かな音ではない。立ったまま、肩も腰も使い、全身で叩きつけるように音を生んでいく。弦の震えは鋭く、ひと息ごとに研がれ、夜気を裂く。


 さらに速く。

 さらに深く。

 次第に、琵琶から”見える音”が溢れ出した。

 月光を帯びた薄い刃のような響きが、淀みの奥へ、沈んだものの方へ届いていく。


 パーーーンッ!


 最後の乾いた一音が広がった瞬間、あたりを覆っていた霞がふっと割れた。

 濁っていた夜の色がほどけ、浅草の街に色の戻ってくる。提灯の赤、看板の黄、川面に滲むネオンの青。沈んでいたものが、ようやく息を吐いたみたいだった。


 女は静かに言う。


「六根清浄……未練はこの世の置き駄賃。どうぞ良い旅を……」


 少しだけ間を置いて、琵琶を抱き直す。


「一献奏上……私の唄が、案内になりまふことを願い、奉ります」


 その聲も、琵琶の音も、この場所に積み重なった怨念を静かに剥がしていく。


 祓い終えたあと、女はようやく目を開いた。

 疲れがどっと身体に落ちてくる。

 それでも彼女は、頭上の大きな満月を一度だけ見上げると、そのまま夜の影へ溶けるように歩き去っていった。


-----


## Ⅶ. 谷中


 谷中の路地は、夜になると違う街になる。

 昼間の観光客の声がすっかり引いて、寺の塀と古い民家のあいだを、湿った夜気がゆっくり流れていく。

 提灯の橙色が、コンクリートの上に長く伸びる。


 オレンジ色のパーカーをはためかせ、銀髪の隙間から猫耳を覗かせた小柄な影が、路地の角を曲がってきた。

 配達用リュックを背負って、スニーカーで石畳を蹴る。

 パーカーの裾から、一本の尻尾がふらふら揺れていた。

 誰も見ていない夜だから、隠す必要もない。


「お、今日も配達かにゃ?」


 路地の角の塀の上から、声がかかる。

 黒猫が一匹、前足を揃えて座っていた。


「あったりまえにゃ! 今夜は谷中銀座の三軒分にゃ!」


「景気いいにゃね」


「忙しいのはありがたいにゃ。お駄賃も増えるしにゃ」


 塀に手を伸ばし、黒猫の頭を軽くひと撫でする。

 すれ違いざまに別の塀から、三毛猫が顔を出した。


「夜風冷たくなってきたにゃー」


「秋にゃね」


「あんた、また転ぶにゃよ。最近の路面は油断ならんにゃ」


「だいじょぶだいじょぶ、転んだらラッキーが転がってくるって、ばあちゃんも言ってたにゃ」


「言ってないと思うにゃ」


 短い言葉が、夜気の中にぽつぽつ落ちる。

 路地のあちこちに、街猫たちの目が光っていた。

 歩くたび、ひとつ、またひとつ、瞼を細める。

 この街では、夜の挨拶は目礼で済む。


 最初の配達先は、商店街の裏手の古い木造アパート。

 二階の角部屋の扉を、軽くノックする。


「お待たせしましたにゃー、夜分にすみませんにゃ!」


 扉が薄く開く。寝間着姿の老婦人が顔を出した。


「ああ、いつもありがとうねぇ。今日はお団子?」


「はいにゃ、みたらし三本と、おはぎが二つにゃ!」


「悪いねぇ、夜遅くに」


「ぜんぜんですにゃ。歩くの好きなんでにゃ!」


 受け渡し。

 会計は事前に済んでいる。

 老婦人は受け取りながら、ふとパーカーの裾に目をやった。


「あんた、あったかそうな子ね」


「……えへへにゃ」


 曖昧に笑って、軽く頭を下げる。

 扉が閉まる。

 階段を降りながら、尻尾の付け根がほんの少し緩んだ。


 あの婆さん、勘がいい。

 でも、悪い見方じゃないにゃ。

 そういう人は、嫌いじゃないにゃ。


 二件目は、銭湯の隣の小さな居酒屋。

 暖簾の下から、出汁の匂いと笑い声が漏れていた。

 裏口から声をかけると、女将が顔を出す。


「こっちこっち」


「お疲れさまですにゃー!」


「いつも悪いね。これ、お礼」


 差し出されたのは、温かい肉まん。

 一度だけ目を大きくして、両手で受け取った。


「……マジっすかにゃ!?」


「マジマジ。今日のは特に上出来」


「いただきますにゃ! ……あ、そういえば女将さん、最近この辺で猫の集まりが増えてるって聞いたんですけど、なんか心当たりありますにゃ?」


「あー、それね。隣の寺の住職が、また餌やり始めたのよ。野良猫増えるからやめろって言ってるのに」


「なるほどにゃー。情報あざーすにゃ!」


 肉まんを大事そうにパーカーのポケットに入れて、頭を下げる。

 夜のデリバリーの役得は、こういう瞬間にある。

 ついでに街の話が一つ集まれば、なおよし。


 三件目への道すがら、寺の裏手の小さな広場を抜ける。

 樹齢の長そうな銀杏の木の下に、白い猫が一匹、毛づくろいをしていた。

 足を止める。


「ばあちゃん」


 白い猫は答えない。

 ただ一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。

 それが返事だった。

 それだけで満足して、また歩き出す。


 三件目の配達を終え、リュックが軽くなる。

 時刻は深夜に近い。

 帰りは少し遠回りをして、谷中霊園のほうへ抜けた。

 石塀の上に飛び乗って、しばらく歩く。

 誰も見ていないので、尻尾が好き放題に動いた。


 寺の屋根の高さに合わせて、霊園の向こうに月が出ていた。

 大きい。

 今夜は、ばかみたいに大きい満月だ。


「うわー、おっきいにゃー……」


 石塀の上で立ち止まり、月を見上げる。

 パーカーのポケットから、まだほんのり温かい肉まんを取り出した。

 ひとくち齧る。

 肉汁が、口の中にじゅわっと広がる。


「……うんめぇにゃ」


 声が、誰にも届かない夜空に落ちた。

 月が、それを聞いているような気もしたし、聞いていないような気もした。

 どっちでもよかった。


 石塀の下を、さっきの黒猫がまた通りかかる。


「いい月にゃね」


「いい月にゃ」


 短い言葉だけ交わして、黒猫は夜の奥へ消えていった。


 最後のひとくちを口に放り込み、尻尾をひと振りする。

 明日も、たぶん配達がある。

 明後日も、ある。

 そのあいだに、銭湯に寄って、商店街で立ち話をして、街猫たちと目礼を交わす。


 そういう夜が続いていく。

 別に、それで困ることはなかったにゃ。


 月は、変わらず大きかった。


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## Ⅷ. 秋葉原


 少し懐かしいつくりのネットカフェの個室。

 ヘッドホンをつけた少女は、勝手に増設したマルチモニターに囲まれていた。

 左から、掲示板。SNS。監視カメラの映像。

 メインの画面ではスクリプトが走り、その横で別のウィンドウがいくつも明滅している。少女はキーボードを叩きながら、モニターの波間に浮かぶ都市の情報と、表の下に沈んだ裏の表情を、飽きもせず眺めていた。


 コーラを一口含む。

 そのまま、指先の速度が上がる。


「……さーてさて、お邪魔しまーす」


 乾いた打鍵音が、低い音から高い音へ少しずつ変わっていく。

 ツールをいくつか立ち上げるたび、少女の顔はわずかに明るくなった。


「……へー、こんなことしてたんだ。なかなか悪い子さん達だなぁ。さーて、どうしてあげよっか……」


 いくつかのバックドアを仕込み、新しい遊び場を確保する。

 モニターの左端では、株価チャートが崩れ落ちるみたいに沈んでいた。少女はそこへ一瞬だけ視線をやって、小さく笑う。


「はは。やっぱり、こうなるよねー」


 それから、少し間を置いて。


「こわいこわい。人間の欲望は」


 目の下に隈を溜めたまま、彼女は次の画面へ視線を移した。

 退屈しのぎのつもりだったのに、今度の映像は少しだけ質が違う。リアルタイムで流れてくる怪奇映像。その端に残った残滓のようなものが、液晶越しでもはっきり見えた。


「まぁ、やっぱり妖もこわいよね……」


 少女は椅子の背にもたれたまま、ヘッドホンを少しだけずらす。


「外に出るのは、まだいいや……」


 そう呟いて、またキーボードに指を戻す。

 部屋の外は静かだった。けれど画面の中では、誰かの夜が次々に覗けてしまう。彼女はその方が、今はずっと気楽だった。


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## Ⅸ. 新宿・屋上


 雨あがりの屋上。

 黒いテックウェアの袖から、雫が一定の間隔で落ちていく。

 少女は手すりに体重を預けていた。


 今は、震えもない。

 頭も、静かだ。

 無人のビルの屋上だけが、妙に落ち着く。

 洗い流されたあとの空気は、薄くて、軽い。


 下の階には、誰もいない。

 残されていた箱から、乾パンと水だけを拾ってきた。

 それで、足りている。


「……どうしようかな……」


 虹色に爆ぜる、蛇のような瞳が、

 新宿の光の海を抜けて、月を捉える。


 手すりに触れた指先が、わずかに遅れて感触を返す。

 濡れたコンクリートが、ほんの一瞬だけ柔らかく沈む。


 乾パンを齧る。

 途中で味が別のものに変わる。

 すぐに戻る。

 気にしない。


 水を一口、流し込む。


 月のそばを、何かが横切る。

 魚みたいな影。

 空を泳ぐには大きすぎるのに、水の中みたいに静かだった。


 少女は目を細める。

 知らない。

 そのはずなのに、

 見た瞬間、胸の奥の血がゆっくり熱を持つ。


「……なに……」


 頭ではない。

 もっと奥のどこかが、先に反応している。

 視界の端に、別の高さの夜景が一瞬だけ重なる。

 もっと高いところ。

 もっと遠いところ。

 そこを滑る感覚だけが、遅れて流れ込む。


「あっ……」


 針を刺すような痛みが走る。

 理由はわからない。

 思い出したわけでもない。

 ただ、一瞬だけ、同じものの中にいたみたいな感触だけが残る。


 影はすでに月から離れ、

 新宿の灯りの向こうへ滑っていく。


 少女は額に手を当てたまま、その方角を見ていた。

 手すりの上の水滴が、落ちる前に形を崩す。


 次の瞬間には、何事もなかったように夜が戻る。


 少女はそのまま、

 都市の光の向こうを見続けていた。


-----


## Ⅹ. 新宿・歌舞伎町


 地下のバーの片隅。

 湿った夏夜の空気の中で、煙がゆっくりと沈む。

 赤いネオンが、濡れた床を鈍く照らしていた。


 青毛の男の前には、気の抜けていない炭酸水のグラスが置かれている。

 泡は細かく立ち上るが、彼は一度も手をつけない。


「……数だけ増やしても、不良債権が膨らむだけですね……」


 言葉が落ちる。

 それだけで、場の温度が一段下がる。


 女は紫煙を細く吐く。

 煙は絡まり、細い蛇のようにほどけていく。


「ふぅ……新宿はね」


 吐息が白く凍る。

 ほんの一瞬だけ、夏の空気が温度を失う。


「……あんたらだけのもんじゃないんだよ」


 カウンターには、触れられていないマティーニ。

 表面だけが、わずかに揺れている。


 椅子が小さく見えるほどの体格の男が、大ぶりのグラスを片手で転がす。

 氷が、低く鳴る。

 そのたび、空気が少しだけ沈む。


「……はは。相変わらずだな」


 肩は揺れない。

 息だけで笑う。

 否定も肯定もしない、どちらにも転べる余裕。


 店の奥、照明の届かない位置。

 そこに置かれたダイエットコーラは、気づけば少しだけ減っている。

 誰も、その瞬間を見ていない。


 カウンターの向こうで、年老いたバーテンダーが手を止めない。

 磨かれたグラスを一つ置く。

 誰も手を伸ばさない。

 氷が、ひとつ鳴る。


 ネオンが一度、激しく明滅した。

 暗転。

 その一瞬だけ、

 床に落ちた影が、人の形から外れた。


 光が戻る。

 何事もなかったように、煙だけが残っていた。


-----


## Ⅺ. 原宿


 裏原宿の奥の奥。古道具を扱う、小さな店。

 店内にならんだ、刻を宿した品々が、柱時計の振り子に合わせて静かに呼吸していた。


 店主の女性は、傍らの赤い油傘に手を添え、ヴィンテージの羽織の襟を軽く整える。

 ふ、と柱時計が一秒ぶんだけ拍を外した。


 カチ。


 その小さな狂いに、棚の上の品々がいっせいに気配を揺らす。

 自動人形の睫毛が震え、古い蓄音機の針が触れてもいないのに微かに鳴り、硝子ケースの中の指輪がちり、と鳴った。


「……落ち着け、落ち着け……」


 彼女は眼鏡を押し上げ、店内をひと目だけ見渡す。


「……おい……ちょっと店、頼む……」


 それだけ言って、油傘を手に二階へ上がる。

 階段を踏むたび、さっきまで揃っていた時計の音が、少しずつ上下にずれていく。


 二階では、古い自動人形たちが逆向きに歯車を回していた。

 二眼レフは勝手に焦点を結び、巻き上げレバーをひとりでに送る。

 筆たちは宙で身を翻し、白紙の上へ細い線を走らせていた。


「……ゆっくり話せ。時間はあるから……」


 彼女は静かに油傘を開く。

 傘の下へ入りこんだ途端、ばらついていた秒針の気配が、すっとひとつに寄る。

 ざわついていた品々も、ようやく息を潜めた。


 彼女の目は、品そのものではなく、そこに残った手のぬくもりを見ていた。


-----


## Ⅻ. 稲城


 鉄塔の上を、風がまっすぐ抜ける。

 高度のせいで音がうすい。地上のどよめきも、車の流れも、ここまで届くと水の底のように遠い。


 少女は絶縁ゴーグルを額に押し上げる。

 その瞬間、送電線の一本だけが、びくりと跳ねた。

 遅れて隣の線が細く鳴る。

 低い唸りが、足裏から這い上がってくる。

 鼻の奥に刺さるのは、焦げた金属とオゾンの匂い。


「……いんじゃん、やっぱ」


 舌打ちひとつ。

 鉄骨に手をつく。

 手のひらから、ばちっと青い火花が弾けた。

 線の震えが、骨を伝って奥歯まで届く。


 次の瞬間、影が走る。

 電線の上だ。

 黒い塊が、線から線へ滑るたび、下の街灯がひとつずつ落ちる。

 ぱちん。

 ぱちん。

 住宅街の灯りが、遠くで順番を間違えたみたいに消えていく。

 まるで街そのものが、ひとつずつ呼吸を止めていくようだった。


「……ふざけんな」


 少女は鉄骨を蹴った。

 膝に電気を巻く。

 筋肉ではなく、電流で身体を撥ね上げる。

 火花を散らしながら、隣の塔へ飛ぶ。


 着地。

 鉄が鳴る。

 骨組みの内側を、衝撃が螺旋になって落ちていく。


 影はもう次の線へ移っている。

 フードを被った人影みたいにも見える。

 けれど輪郭は、走るたびにちぎれ、伸び、また繋がる。

 顔はない。

 目もない。

 あるのは、電流に貼りついた黒だけだった。

 形を持たないものが、形のあるふりをしている──そういう不気味さだった。


 少女は追う。

 鉄塔の継ぎ目を蹴る。

 保守足場を渡る。

 碍子の脇をすり抜ける。

 高い、細い、冷たい。

 手袋越しに伝わる金属の温度は、夜の体温そのものだ。

 それでも足は止まらない。


「……よく逃げる、食いしん坊が」


 左手は開いたまま。

 右の拳に電気を集める。

 手首から肘までが、青く帯電した。

 握り込んで、鉄骨に叩きつける。

 火花が裂ける。

 全身のシルエットが、闇に切り抜かれて浮かんだ。

 一瞬、自分の影が鉄塔の壁面に走り、すぐに溶けて消える。


「ぜってー、逃さねえからな」


 一気に加速する。

 脚に電気を流す。

 筋繊維が、本来の出力を超えて軋む。

 風の壁が頬を裂く。

 影との距離が、一足ごとに縮まっていく。


 ばちばち、と線の上で小さな火花が散った。

 下のマンションの明かりが、縦に三つ続けて消える。

 暗くなった窓の奥で、誰かが舌打ちをしているのが見えるようだった。


 ──ああ、ムカつく。

 あれは、自分の縄張りだ。

 送電網は、自分が守るものだ。

 誰の許可で食い散らかしてんだ。


「……っ」


 少女は鉄骨を掴み、無理やり身体を止める。

 手のひらに、金属の震えが直で食い込む。

 骨を通って、肩、背中、奥歯まで一本の線で繋がる。


 磁場が読める。

 目で見るより速い。

 手のひらの皮膚の下、細い針が走るような感覚で、網全体の流れが頭に入ってくる。


 まだ先じゃない。

 今、同じ網の上にいる。

 網の目のどこかで、確かに脈打っている。

 走っているのは影だけじゃない。

 流れそのものに連なる、負の電流。

 光であるはずの電気が、向きを反転させて夜を喰っている。


 次の瞬間、影が頭上を返した。

 速い。

 少女は身を沈める。

 黒が真上を抜ける。

 遅れて、髪が持ち上がる。

 耳の奥で、ノイズが弾けた。

 頭蓋の内側で、誰かが古いラジオの周波数を回したような感触。


 振り向きざま、鉄骨を叩く。

 拳の電気を、まとめて骨組みに流し込む。

 鈍い音が塔の中を走る。

 一本の骨を叩いたはずなのに、震えは全体へ広がった。

 鉄塔ぜんたいが、ひとつの音叉になる。


 影が揺れる。

 輪郭が一瞬だけ崩れ、線の上に黒い滲みみたいに張りつく。

 貼りついたまま、ずるりと長く伸びた。


「……食い散らかしやがって。マジで殺す」


 もう一度、叩く。

 今度は強く。

 体内の電気を、躊躇なく出力に変える。

 ごん、と重い音がして、送電線がまとめて唸った。

 火花が連なって走る。

 夜空に、青白い破線が一瞬だけ引かれた。


 影が弾かれる。

 だが消えない。

 するりと細くなり、別の線へ逃げる。

 線から線へ、まるで魚が水を選ぶように。


「……しぶといな、おい」


 少女は舌の奥で息を吐いた。

 口の中に、鉄の味が広がる。

 血じゃない。

 電気を流しすぎたときの、あの味だ。

 ついでに、足りなくなった分を線から吸い戻す。

 手のひらが、また熱を持つ。


 跳ぶ。

 塔から塔へ。

 そのたび、靴裏で火花が裂ける。

 夜気が頬を打つ。

 眼下では、消えた灯りと残った灯りがまだらに広がり、街全体が壊れかけた回路みたいに見えた。

 配線図のうえに、誰かが黒い指で適当に印をつけたような夜景だった。


 影がまた走る。

 今度は二つ、

 右へ逃げる黒、

 左へ滲む黒。


 少女は追わない。

 鉄骨に手を当てる。

 考えない。

 指先が勝手に答える。

 磁場の濃淡が、皮膚の下で像を結ぶ。


 一本だけ、密度が違う。

 他の線が薄い水なら、その一本だけが、ねっとりとした油だった。


「──そこだ」


 少女は身体をひねって、その線へ飛び移った。

 空中で、全身に電気を巻き直す。

 着地の瞬間、足裏から青い火花が放電となって散る。


 線が鳴る。

 影がぶつかる。


 ばちっ、と今度ははっきり音がした。

 黒い塊が爆ぜる。

 細いノイズになって、夜に散る。

 電線に貼りついた残滓が、雨の筋みたいにぶら下がり、すぐに消えた。

 最後にひとつ、火花がぽつんと落ちて、闇に呑まれた。


 線が、しん、と鳴き止む。


 少女は息をつく。

 握っていた拳の電気が、指先からゆっくり抜けていく。

 肩の力が遅れて落ちる。

 膝に巻いていた電流も、ほどけて、夜気に溶けた。


「……かたづいた」


 短く、自分に言い聞かせるように呟く。


 下では、止まっていた街灯がひとつ戻る。

 少し置いて、もうひとつ戻る。

 住宅街の窓にも、順番に灯りが点いていく。

 ひとつ、またひとつ、街が呼吸を取り戻していく。


 少女はその光を、しばらく目で追っていた。

 鉄骨に手をついたまま、ゆっくりと体重を預ける。

 息が、ようやく深くなる。

 奥歯に残っていた鉄の味が、唾と一緒に喉の奥へ落ちていった。


 影と電気の流れだけを追って、気づけば、ずいぶん高い所にいる。

 地上から線を辿って、塔から塔へ跳んで、ここまで上がってきた。

 その間、一度も空を見ていなかった。


 少女はゴーグルに手をかける。

 額の上へ押し上げる。

 その動きのまま、自然と顎が上がる。


 ──そして、止まった。


 雲海。

 その上に、満月。

 大きい。

 ばかみたいに、大きい。


 眼下の街明かりも、足元の鉄骨の冷たさも、一拍だけ意識から外れる。


 ひとつ、ひとつ、点いていく地上の灯りを、もう一度見下ろす。

 また、見上げる。


 少女は、何も言わなかった。


-----


## ⅩⅢ. 中央区


 灯りはやわらかく、声は低い。

 扉が閉まると、外の街は遠くなる。


 彼女は鏡の前に立ち、結っていた髪をほどく。

 指先で軽く整えるだけで、昼の顔は消える。

 衣を替える。

 余計な装飾はない。

 ただ、それで十分だった。


 ⸻


 グラスが触れ合う音。

 笑い声。

 抑えられた会話。

 夜の社交は、表情よりも間で進む。


「本日はお忙しかったのでは?」


 声をかけてきた男に、彼女は柔らかく笑う。


「ええ、少しだけ。」


 曖昧な返答。

 それ以上は言わない。

 男はそれを深追いしない。

 それで成立する場だった。


 ⸻


 会話を重ねる。

 仕事の話。

 政治の話。

 投資の話。

 どれも同じに聞こえる。

 違うのは、手触りだけ。


 この男は、駒だ。

 この男も、駒。

 少し大きい。だが、それだけ。


「最近は流れが早いですね。」


 彼女がそう言うと、別の男が肩をすくめた。


「ええ。誰が先に手を打つかで、だいぶ違いますから。」


 手。

 彼女はその言葉を胸の内でなぞる。


 違う。

 大事なのは、どう賽を投げるか。


 大きな勝負は愚かだ。

 退屈は嫌い。

 けれど、負けるのはなおさらつまらない。

 少し触るだけで崩れる形がいい。

 無理なく勝べる遊びがいい。

 そのうえで、倒れ方が美しければ申し分ない。


 彼女は、そういう夜を好んだ。


 ⸻


「またお会いできますか?」


 男が言う。

 彼女は一瞬だけ考える。


「ええ、機会があれば。」


 笑う。

 それで十分だった。


 ⸻


 グラスを置く。

 視線だけで場をなぞる。

 いくつか、使える。

 いくつかは、もう崩れる。


「……悪くない夜。」


 小さく呟く。

 誰にも届かない声。


 彼女は静かに席を立つ。

 振り返らない。

 次の配置は、もう決まっている。


-----


## ⅩⅣ. 月見坂


 高架下の暗がり。

 音が抜けきらずに溜まる場所だった。

 昼のざわめきも、夜の低音も、行き場を失ってコンクリートの下に沈んでいる。

 その上に、月だけが開けている。


 柱の影が、一定の形に留まらない。

 本来の足取りより、わずかに遅れて動く。

 足元に、低い火がぽつ、ぽつと灯る。

 踏み込んだ位置を、少し遅れてなぞる。


 その上を、小さな光がいくつも漂っていた。

 消えそうで消えない、頼りない火。

 集まり、散り、また戻る。

 拍に合わせるでもなく、わずかに外れて揺れている。

 どれも弱い。

 ただ、見惚れて寄ってきただけだ。


 重低音に合わせて、少女の長い兎耳が風を切る。

 ステップを踏むたび、飛び散る汗が街灯を弾いて白く光った。

 満月へ捧げるみたいに、少女は踊り続ける。


 モダンとも、バレエとも、カポエラともつかない。

 切るように伸びて、跳ね、絡み、またほどける。


 ずれたヘッドホンは鳴り続けていた。

 耳に入るのはビートだけじゃない。

 車の走行音、遠い話し声、ガード下の反響、誰かが落とした缶の乾いた音。

 街じゅうのノイズが、勝手に集まってくる。


「……まだまだ……」


 少女はさらに深く潜る。

 音を追うのではない。

 頭の中で混ぜる。

 ざらつきも、濁りも、途切れた拍も、そのまま身体に通して次の一歩へ変えていく。


 祓うのではない。

 拒むのでもない。

 乱れたものまで抱え込んで、別のリズムへ持ち上げる。


 踏み込むたび、影と火と光が一拍遅れて追いつく。

 視線は月から外れない。

 高架も、街灯も、コンクリートも、今は遠い。

 届くはずがなくても、届かせるみたいに跳ぶ。


 一秒、

 世界が静止する。

 音が消える。


 それでも少女の影だけが、コンクリートの上で別のリズムを刻み続けていた。

 気づけば、影も火も光も、少女の拍に収まっていた。


-----


## ⅩⅤ. 裏東京駅


 裏東京駅。

 地上のどこからどう降りてきたのか、もう誰も覚えていない深さに、その広間はあった。

 石の天井は高い。

 壁には古い壁画。

 松明でもなく電灯でもない、薄青い光が、どこからともなく満ちていた。


 広間の中央、大きな椅子。

 少女が、膝を抱えて沈み込むように座っていた。

 黒と白の衣。

 長い髪が、椅子の縁から流れ落ちている。


 柱の影に、骸骨の女中たちが控えていた。

 十二体。

 布で骨の顔を覆ったまま、ただ立っている。

 動かない。


「……ひま」


 少女がぽつりと呟いた。

 声は天井に吸い込まれて、消える。


「ひま、ひま、ひま……」


 膝の上で、指をぱたぱたと振る。


 骸骨女中の一体が、すす、と進み出た。

 深く一礼。

 声はない。

 たしなめる空気だけが、広間に流れる。


 少女は女中を見もせずに、頬杖をつく。


 別の女中が、卓に茶器を置いた。

 湯気が立つ。

 少女はそれを一瞥して、また膝に視線を戻す。


 女中たちは、いつも静かだ。

 動かない。

 しゃべらない。

 骨だから。


 みんな、もう、おしゃべりはしてくれない。


 遠い天井のどこかで、地上の音が、かすかに響いた気がした。

 夜の電車。

 車の流れ。

 それとも——


 少女の指が、ぴくり、と動いた。

 顔を上げる。

 退屈そうだった目に、薄く色がさす。

 頬の片側が、ゆっくり持ち上がる。


 今夜の地上は、いつもと違う。

 いろんな気配が、いつもより、ずっと、ちかい。

 走っている誰か。

 跳んでいる誰か。

 追っている誰か。

 守っている誰か。


 その中に、きっと——


 骨が、ある。


 少女は、にこ、と笑う。

 無邪気な、幼い笑顔。

 その笑顔のまま、骸骨女中たちに首をかしげる。


「あそびのじかん、はじめよっか」

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