第3話 中野ジャンクブルース
「ねえ、クロマル。モノが動くなんて、別に珍しい話じゃないでしょ。……あ、別に中野ブロードウェイのことディスってるわけじゃないんだけどさ」
そんな噂をひとつひとつ律儀に拾っていたら、烏天狗衆の羽が何枚あっても足りない。
アカリは独り言のような、少し回り道をする軽口を叩きながら、中野駅北口の広場を歩いた。
春先の夜風はまだ冷たく、中野サンモールのアーケードを抜ける人々の吐息が白く揺れている。
この街の夜は、どこか油臭い熱を帯びている。ドラッグストアの眩しい照明と、閉店作業中のパン屋から漂う甘い小麦の匂い。深夜でも途切れない人波が、昭和から続く巨大なコンクリートのチューブ――中野ブロードウェイへと吸い込まれていく。
クロマルはアカリの肩口で、漆黒の羽を一枚だけ鋭く鳴らした。
「ひとつならな」
「クロマルさん、人の話聞いてました?」
「ああ、聞いている。だが今回は異常だ」
カラスは駅の北口、ブロードウェイの入り口が構える方向へ鋭い眼を向けた。
「同じ話が、駅の南北で同時並行で上がっている。ブロードウェイ周辺だけでも報告は数十件だ。玩具がひとりでに位置を変えた、古道具が夜中に不気味な声を上げた、閉店後の店で棚がひとりでに崩れた……。偶然で片付けるには、条件が揃いすぎている」
アカリは唇を少しだけ尖らせた。
「まるで『中央線沿線はアカリの担当です』みたいな顔して言いますね……」
「……違うのか?」
「違わなくなってきてるのが嫌なんですよ。本当なら、今頃こたつで丸まってたはずなのに」
文句を言いながらも、アカリの視線は既に「サンモール」の突き当たり、重厚なブロードウェイの入り口に注がれていた。
白い蛍光灯の下、昼間の熱狂を閉じ込めたシャッターが延々と並んでいる。その奥の闇には、古本、レコード、フィギュア、古時計、色褪せたポスター……誰かに愛され、あるいは誰かに見捨てられたモノたちが、幾重にも層を成して沈殿している。
クロマルが、意図的な咳払いをした。
「今回の調査対象は中野ブロードウェイ。古物、玩具、機械、書籍。……妖にとって、動く理由がこれほど揃った場所も珍しい」
「最後の一言だけで業務を遂行させるの、ズルくないですか?」
「お勤めの後には、グルメも多いらしいぞ」
アカリの目が、ほんの少しだけ輝いた。
「行きましゅ……」
それで決定だった。
アカリはサンモールの喧騒を離れ、脇道――昭和中通りの細い路地へと一度逸れた。古道具屋の店先に並ぶ、時代から取り残されたようなショーケースが、街灯の光を鈍く反射している。
ブロードウェイの夜は、表の賑わいに反して奥が深い。人が消えれば消えるほど、モノの気配が沈殿し、街全体が巨大な貯蔵庫のように呼吸を始める。
*
閉店後のブロードウェイを歩くのは、昼間の喧騒とはまるで違う体験だった。
階段を下りて地下1階へ向かうと、空気が急にひんやりとする。スーパー『ライフ』の冷たい生肉の匂いと、有名店『デイリーチコ』の甘いワッフルコーンの残り香が、複雑に混ざり合って停滞していた。
人の目が途絶えた途端、値札を付けたままの玩具がわずかに向きを変え、まんだらけの真っ赤な壁面に並ぶガラスケースの中の陶器が息を潜める。積み上がった古本の隙間から、無数の視線のような気配がこちらの様子を伺っていた。
アカリは最初、あえて天狗の威圧を少しだけ滲ませて歩いた。この時間、この場所に動くモノがいるなら、それは一律に「排除対象」である可能性が高いからだ。閉じたままの扇に指を添え、硬い足音を響かせて角を曲がる。
「……お巡りさん、か?」
最初に声をかけてきたのは、年代物のブリキ玩具だった。片輪が欠けた消防車の姿で、棚の端からことことと車体を揺らしている。
「そ。これは烏天狗のお勤め。……まずは話を聞こうかな。まぁ、夜の刑事さんみたいなものだと思って」
アカリが視線を合わせてしゃがみ込むと、刺々しかった天狗の気配がふっと和らぐ。それを察したのか、ブリキの消防車は少しだけ安堵したようにタイヤを鳴らした。
「なら、話を聞いてくれ。……俺たちじゃないんだ」
「何が?」
「夜に騒ぎを起こしている連中だよ。俺たちは、長くここに居る。誰かに買われ、誰かに触られ、またここに戻ってきた。愛着もあれば、未練もある。でもな、わざわざガラスを割ってまで注目を引く趣味はねえんだ」
通路の陰から、別のくぐもった声がした。
色褪せたぬいぐるみ。片目の取れた猫が、棚の上から静かに見下ろしている。
「夜に派手に動いているのは、まだ意識の定まっていないモノたちだ。箱の底に押し込まれたままのやつとか、ただの在庫として名前も貰えていないやつらだ。最近、みんな妙に落ち着かないんだ……」
「……誰かに、煽られてる感じ?」
アカリの問いに、ぬいぐるみは沈黙した。
代わりに、足元の古いラジカセが、しゃり……とノイズ混じりに答えた。
「あれは、うちらみたいで、うちらじゃない」
「仲間じゃないってこと?」
「古いモノの匂いはする。けれど、まだ喋れない半端ものってこと。うちらみたいな付喪神じゃないよ、まだまだ。」
「……“好き”だから集めてるんじゃない。“欲しい”から寄せ集めてるだけなんだ、あいつは。」
その一言が、アカリの耳に残った。
付喪神という存在は、誰かに触れられ、執着され、記憶されてようやく個としての「気配」を持つ。けれど、そこへ届ききらない予備軍たちもまた、この街には無数に漂っている。
「誰にも、迷惑をかける気はない。……モノっていうのは、そういう誇りを持ってるんだな」
「当たり前だ」
ブリキの消防車が、鼻息のような音を立てた。
「中野で生きるっていうのは、売られたり戻されたり。そうやって循環しながら、ここでなんとか根を張るってことだ。好き勝手暴れて居場所を無くすような真似はしねえ」
アカリは立ち上がり、周囲の棚を見渡した。
けれど、それらに触れてきた無数の指先、注がれてきた羨望、そして手放された時の未練。それらが層のように重なり、この閉鎖的な空間に、煮詰まったような「人の匂い」を充満させていた。
今はそのどれもが、確かな意志を持った「中野の住人」として、暗闇の中で静かに呼吸している。
(……あー、重たい。地下のソフトクリーム、特大のやつ、まだやってるかな……)
クロマルが低く囁く。
「やはり、付喪神の暴走ではないようだな、アカリ」
「うん。……騒いでるんじゃない、騒がされてる」
その時、通路の奥で、かた、と規則正しい音が響いた。
古道具が崩れるような雑な音ではない。もっと丁寧で、何かが棚から棚へ、優雅に渡っていくような気配。
アカリの瞳が、天狗の鋭さを帯びて細くなる。
「発生する曜日も時間も、完璧に規則性がある。……今日、ここ。間違いないね」
ブロードウェイの奥深くから、妙に冷たく、そして「重い」夜気が流れてきた。
誰かが、ゆっくりと歩いている。
けれどその足音は、生身の人間とも、理のある妖とも、根本的に何かが異なっていた。
*
水曜日の丑三つ時。
シャッターの下りた古道具店が並ぶ、ブロードウェイの最深部。
アカリとクロマルは、人気のない通路の影で静かに身を潜めていた。
やがて、空気が粘り気を帯び始める。
最初に浮遊したのは、埃を被った小さな灰皿や、黄ばんだキーホルダーだった。次に古い雑誌の束、プラモデルの空箱。まだ個としての意識を持たない「半端なモノ」たちが、何かに磁力で引き寄せられるようにして、棚の影からじわじわと這い出してくる。
その「磁力」の中心に、それは立っていた。
「さーてさて、付喪神たちの話を辿れば、潮時ってことね。……どうやら、そこのあ・な・たを素通りするわけにはいかないみたい」
アカリは扇子の先で、通路の奥に立つ影をぴたりと指した。
通路の奥で、その人影は足を止めた。
古道具屋の主のようでもあるし、時代錯誤な倉庫の住人のようでもある。眼鏡をかけ、丁寧な仕付けの衣服を纏っている。だが、その輪郭の端々には紙片や値札、錆びたブリキがこびりついていた。人の形をしているが、最初から「人」ではない。負の執着から生じた怪異。中野塵塚怪王。
「やや、これはこれは。何か御用でしょうか」
怪王は、薄く笑いを含んだ、やけに慇懃な声で言った。一人称は「小生」。
「小生はただ夜のあいだ、この物に溢れた誇り高き街を歩いているだけにすぎませんよ」
「あなたが歩くだけで、周りのモノたちが勝手にざわつき始める。それを『ただ歩いているだけ』で済ませるには、ちょっと範囲が広すぎるんだよね」
「ほほぅ?」
怪王は眼鏡をくいと押し上げ、恍惚としたように周囲を見回した。
「小生の蒐集は、この不毛な消費の荒野に秩序をもたらす聖業なのですぞ! 捨てられ、忘れられ、それでもなお誰かの手の熱を。所有の喜びを覚えているモノたち……。この街は、実に見事な蒐集品です。実に好ましい」
「懐かしむのはあなたの自由。けれど、そのお散歩のせいで、ここにいる『住人』たちが怯えてる。実害が出てる以上、お勤めの対象になるってわかってる?」
「ほほぅ?」
怪王の眼鏡が、夜の闇の中で一点、鋭く光を反射した。
「既に『風の噂』になっている、と? 小生の活動が、そこまで広範に認知されているということでしょうか?」
「そこ、喜ぶところじゃないから」
「やや! 小生の活動が文化的に認められたということですなぁ!」
「話、聞いてる?」
アカリのこめかみに、青筋が微かに浮かぶ。
通路の奥で、怪王に惹き寄せられた半端なモノたちがさらにざわつき、物理的なうねりとなって膨れ上がっていく。怪王はそれに気付く様子もなく、ゆったりと袖を払った。
「つーまーりー、あなたが静かに引き下がるなら、私は何もしない。……でもやめないなら……」
「やや。せっかく小生の活動が公になったというのに、それは勿体ない話ですなあ」
アカリは大きくため息をつき、腰に差していた扇子に手をかけた。
「交渉決裂、ね」
ぱちり、と乾いた音が、静まり返った通路に響いた。
「行かせないよ。その、寄せ集めの王様気取り」
「……不粋ですなぁ、実に出自の知れた天狗だ」
怪王の目が、一瞬で温度を失った。
*
中野塵塚怪王が、両腕を大きく広げた。
視界が、ガラクタで埋まった。
ゼンマイの軋む音。古本の重い風切り音。
それから、錆びた鉄の匂い。
アカリは踏み込んでいた。
避ける隙間がない。
身体をねじ込む。
頬をゼンマイが掠める。熱い。
パーカーの肩が裂けた。
——追いつかない。
質量に、圧される。
「ややや、ご覧なさい。この街のモノたちも、小生の情熱に呼応している……!」
「呼応なんて、してない」
アカリは息を吐き捨て、扇を手首の痺れで握り直した。
「あんたが、勝手に……ッ」
言葉が途切れる。
飛来したレコード盤が、アカリの脇腹を叩いた。
あばらが軋む。
息が止まりかけるのを、無理やり胃の底へ押し戻した。
「……偽物の王様なんて、だーれーが欲しがるっつーの」
アカリは、速さを捨てた。
止まった。
一拍。
怪王の胴の真ん中。
そこだけ、空気の震えがズレている。
拍。
指先が痺れている。
構わない。
——師匠なら、ねじ込む。
強引に、一閃。
肉を斬る感触はない。
泥を切り裂くような、歪な抵抗。
掌から肘へ、不快な振動が抜けた。
怪王の輪郭が、一瞬でボロボロと崩れ始める。
「小生…の蒐集は…」と小さな断末魔を残して。
眼鏡が砕け、衣服を形作っていた塵や古い布が解け、ただの中野の遺物へ戻っていく。
寄せ集められたガラクタが王の幻想を失い、雨のような落下音。
音が、切れた。
アカリは荒い息を整え、散乱した通路上を見渡した。割れたガラス、ひっくり返った棚、無数のモノ……。
「あーあ。これ……どうすんのよ……」
*
棚の奥から、ことこと、と小さく乾いた音がした。
次に、パサリと古本のページを捲る音。
夜のブロードウェイの至る所から、付喪神たちが再びその姿を現し始めた。
「掃除だろ。……俺たちに任せろ」
ブリキの消防車が、誇らしげに車輪を鳴らした。
片目の取れた猫のぬいぐるみも、棚から飛び降り、散乱したガラクタをせっせと隅へ寄せ始める。
「全部見てた。あんたが悪いヤツじゃないことも、中野のヤツじゃないこともな」
「中野のことは、中野で片付ける。それがここのルールだ」
古いラジカセの声が、暗闇の中で響いた。
アカリは少しだけ目を丸くした後、ふっと口元を緩める。
「……そっか。じゃあ、お願いしちゃおうかな」
クロマルが、アカリの肩に降り立ち羽を整えた。
「そうか」
「あ、クロマル見てたなら手伝えって……」
「……うん。街のことは、街に任せるわ。ふわぁ……」
大きなあくびがひとつ。
アカリは最後に一度だけ、その影絵のような情景を振り返り、静かにその場を後にした。
*
翌朝。
始発の中央線。オレンジ色の朝日が差し込む車内で、アカリは眠そうに窓へ額を預けていた。
東京の夜は、朝の光に追い越されると、何事もなかったかのような顔で日常へと引き継がれていく。
車内モニターが、淡々とニュースを読み上げた。
『昨夜、中野ブロードウェイ周辺で局地的な突風が発生し、ショーウィンドウが損壊する被害がありました。負傷者は――』
アカリは、半分閉じた目のままその文字を追った。
「突風、ね。……まあ、そうなるか」
「概ね事実だろう。嘘は吐いていない」
クロマルが、向かいの席で皮肉っぽく答える。
ニュースはすぐに次の天気予報へと切り替わった。
中野の闇で起きたことなど、巨大な東京にとっては砂粒ほどの出来事でしかない。朝になればすべて、現実の言葉で上書きされ、流されていく。
それでもアカリの手のひらには、あの付喪神たちの意志の重さがまだ残っていた。
人と妖の境界は、線を引くだけでは足りない。どこまで歩み寄り、どこで異物を断つか。その「お勤め」の輪郭が、今夜また少しだけ鮮明になった気がした。
走り出した列車の窓の向こうで、眠りから覚めた東京が、何もなかった顔で動き始めていた。




