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東京百鬼パレード 〜烏天狗アカリのお勤め日誌〜  作者: Studio_Anko


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第4話 恵比寿ゴーストヘイズ

 高尾山・烏天狗衆の里。

 夜気が刃のように冷えている。アカリは冬仕様の厚手の羽織に袖を通し、襟元を合わせてから、使い込んだ扇子を帯の間に差した。柄の漆が手の脂で少しだけ曇っている。鏡はちらと見るだけ。今夜は身だしなみの夜じゃない。

 里の入り口へ向かうと、下駄の音がぱたぱたと追いかけてくる。

「おねえちゃん、お勤め?」

 ユウキだ。義理の妹。寝巻きの上に半纏を引っかけた格好で、小さな息を白く吐いている。烏天狗には珍しい白い羽が、夜気の中でやけに柔らかく見えた。

「うん、ちょっと行ってくる」

「気をつけてね」

 アカリはひょいと手を挙げ、妹の頭を一度だけ、軽くポンと叩いた。その手の温度をすぐに引っ込めるように、身を翻して山を下る。

     *

 麓の駅。深夜の電車は本数が痩せていて、ホームに立つ人影もまばらだった。

 車内はほぼ空席。吊り革に片手をかけ、窓ガラスに反射する自分の顔をぼんやり眺める。蛍光灯の下では、羽織の藍が少し色褪せて見えた。ガタゴトと揺れる電車のリズムは、里から都心へ向かういつもの儀式のようで、少しだけ眠気を誘う。

 調布を過ぎたあたりで、車窓の山影が完全にビルの輪郭に呑み込まれた。街灯の光が掠れた線になって後方へ流れ、トンネルの暗転を挟むたびに、入り込んでくる空気の質が変わっていくのがわかる。里の、松と土と冬枯れの匂いが、排気ガスと洗剤とコンクリートの放熱に上書きされていく。

 都会の淀んだ空気の層が、もう鼻先まで来ていた。

     *

 恵比寿。

 改札を出た途端、深夜とは思えない量の情報が肌に触れた。街灯、派手なデジタルサイネージ、閉店後も消えないネオン。建物の隙間から吹き抜ける風には、居酒屋の換気扇から漏れた油煙と、タクシーの排気ガスが混じっている。五感をチクチクと刺す、都会特有の「脂っこさ」が首筋にまとわりつく。

「空が、少し脂っぽいな」

 街灯の死角から、クロマルの声がした。電線の上か、ビルの庇の裏か。姿は見えないが、気配はすぐ近くにいた。

「同感。……ま、早く終われば帰りに何か食べて帰れるしね。ほら、ちょっと付き合ってよ」

 アカリは首を一度回して関節を鳴らすと、深夜のアスファルトを蹴った。終電間際の焦燥感が地面に染みついていて、歩くたびに靴底から伝わってくるような錯覚がある。タクシー乗り場に並ぶ人々の背中は一様に丸く、誰ひとりとして顔を上げていなかった。

「このスカイウォーク、な。浄化してもすぐ戻る霧がある。烏天狗衆にも何度か依頼が来てた。立ったまま動けなくなる人が週に数件」

 クロマルの簡潔な報告。アカリの眉が片方だけ上がった。

「ふーん、しつこい系か。一番めんどくさいやつだ」

 アカリは無言で頷き、目的地へと加速した。

 JR恵比寿駅東口とガーデンプレイスを結ぶ動く歩道、恵比寿スカイウォーク。

 この脂ぎった煙霧とは正反対の、乾いた機械の駆動音だけが、通路に虚ろに響いていた。

 最初に異変を捉えたのは視覚ではなく、肌だった。空気の湿度が不自然に一段高い。生温い、人の体温と呼気が、換気の追いつかない空間に溜まって、薄い膜のようなものを形成している。

 動く歩道の上に、人が立っている。何人も。等間隔に、まるで彫像のように。

 スーツの深い皺、力なく垂れたビジネスバッグ、ヘッドフォンをしたまま微動だにしない若い女性。全員が、歩道の下流に向かってゆっくり運ばれているのに、誰一人として自分の足では動いていない。

 だが――よく見ると、それぞれが別の「匂い」に包まれていた。

 一人の男はタバコの煙のような古い匂い。すぐ隣の女性は甘いパフェのような砂糖と生クリームの香り。その奥の老人は古い畳の、い草と日焼けした木材の匂い。それぞれが、自分だけの「快の記憶」に個別に囲まれ、外の世界から隔絶されている。

 アカリが一人の女性に近づくと、女性の周囲に油膜のような薄い層が見えた。光が微かに屈折する、プリズムのように。触れようとすると指が滑る。物理的な膜だ。

「……個別包装か。厄介」

 アカリの呟きは、いま、自分の耳にも届いていないほど静かだった。そしてその瞬間だった。

 霧が、アカリの声を拾った。

 彼女自身の声で、囁き返す。

『早く終われば何か食べて帰れるしね、とか言ってた。帰りたいんだ。疲れたんだ。ここから……出たいんだ』

 里の松の匂い。ユウキの作った味噌汁の匂い。帰宅と安息への欲望が、霧に乗ってアカリの周囲に立ち込める。膝が揺らぐ。一瞬、本当に一瞬だけ、帰りたい、と思ってしまう。

「……!」

 アカリは歯を食いしばり、一歩を踏み出した。

 その時、動く歩道の終点で、一人の酔客がふらついた。足がもつれ、前方へ大きく傾ぐ。その先には、虚空を見つめて立ち尽くす女性がいる。衝突すれば、二人とも段差で弾き飛ばされる。

 反応は一瞬。アカリは酔客の襟首を掴んで安全圏へ引き戻した。男は何が起きたかも理解せず、壁に寄りかかって眠り続ける。

「まずい。こいつら、被害が増える」

 アカリは胸元から扇子を引き出した。柄の漆が冷たく、指に食い込む。

「いくよ――芭蕉」

 扇の一振り。指向性の竜巻が、滞留していた霧を吹き散らそうとした。風に乗って、霧が広がる。

 だが――散らない。

 吹けば吹くほど、油脂の粘性で霧は再凝集しながら、通路全体に薄く広がっていく。風に乗ってむしろ拡散し、被害者がさらに増える。

「散らない……風で散らない霧なんて初めてだ」

 アカリの焦りが声に滲む。霧が再び彼女の耳元で囁き始める。

『風で散らせない。散らしても増える。どうするんだい。……ここまで来ちゃったら、帰るのも難しいかな』

 快の記憶の匂いが濃くなる。里の松。味噌汁。すべてが本物に近づいていく。

「……違う。本物じゃない。わかってる。でも、匂いは――」

 膝が揺らぐ。霧の膜がアカリの周囲に厚くなり始める。

 油煙の膜がアカリの周囲を包み込む。外の音が、突然、遠くなった。動く歩道の音も、人々の息遣いも、クロマルの気配も。すべてが薄い壁の向こう側に押し遣られる。物理的には1メートル先で人々が立ち尽くしているのに、心理的には完全に「一人」だ。

 膜の内側で、里の匂いが濃くなる。松と土。古い家の香り。そして――ユウキの声。

『おねえちゃん、もう帰ってきなよ』

 本人の声じゃない。わかってる。だから耳ふさぎながら膜を押そうとするが、指が滑るだけ。油脂の表面張力が完全に、外と内の境界を固めている。

「……本物じゃない。わかってる。でも、匂いは本物と同じだ」

 体が動かない。膜の外では、被害者がさらに増えている気配だけが、微かな震動として伝わる。何人も。何十人も。スカイウォーク全体が、虚空を見つめる彫像で満たされていく。

 アカリは膜の内側で、深く息を吸った。肺の奥に侵入する快の匂い。帰宅。安息。すべての欲望が、ここに詰まっている。

「……なるほど。こいつ、欲望の残滓で造られてる」

 呼吸を止める。膜を観察する。油脂を含んだ霧だから風では散らない。対流がないと自重で沈降する性質を持つはずだ。なら――。

「風を殺す。それしかない」

 判断は一瞬。アカリの意識が、膜の内側の「凪」へ向かった。

 『凪』。

 

 風を殺す術。膜の内側に完全な無風状態を作る。油煙は対流がないと自重で沈降する性質を持つ。膜が薄くなる。外の音が戻る。

 アカリの身体が、術の中心になる。両腕を広げ、扇子を天地に立てる。肺から息を吐き出すのではなく、逆に周囲の空気を引き取る。風の流れを、すべて自分に集約する。

 膜が薄くなった。

 外の蛍光灯の光が、もう見える。スカイウォークの空気が、ゆっくりと戻ってくる。膜の内側で、油煙が天井へ沈降し始める。

 そこだ。

 最も油脂濃度が高い一点――天井の換気口の縁に張りつく「核」。それを、今なら切り離せる。

「――風刃・断」

 扇子の親骨から、単発の鋭い風刃が走った。中骨の隙間を滑るように凝縮された一撃。

 核が、張りついた換気口から剥がれた。ぼたり、と音がして、白い繭のような霧の粒が、スカイウォークの中央に落ちる。

 だが、それでは封じられない。落ちたものは、まだ蠢いている。

「――籠」

 両手で扇を構える。だが、通常の六角形の編み目ではない。アカリが扇を動かす角度は、三角形。網目をより細かく。油脂を含んだ霧だからこそ、細密編みが必要なのだ。

 風の檻が、落ちた核を外側から包み込む。編み目の一つ一つが締まるたびに、内側で蠢く霧の「意志」が小さくなっていく。快の記憶も、欲望の残滓も、本人の声の模倣も。すべてが圧縮され、あるいは破壊され、核は段々と透明に近づいていく。

 やがて、風の檻の中で、ほんのり透明な玉のような形になった。アカリが符で固定し、懐に仕舞う。持ち帰り用に、小さな布で包み、完全に封をする。

 その時だった。

 膜が完全に消えた。音が、一気に戻ってくる。

 蛍光灯が、通路を元の白さで照らし出した。

 人々は「あれ、寝てたかな」と大きな欠伸をしてまた歩き出す。何事もなかったようにヒールの音を響かせて去っていく人々。タクシーのエンジン音。遠くを走る列車の振動。当たり前の夜の音が、一つずつ戻ってくる。

 アカリは一人、静かになった動く歩道の脇に立った。懐の核を触る。そこからはほのかに、焼肉の匂いがしていた。

「……こいつ、まだ焼肉の匂いがするのか」

 独り言は、自分にだけ聞こえるほど静かだった。アカリは袖についた灰色の粉を払い、ゆっくりと通路を離れた。

     *

 烏天狗衆の里。

 空が白みはじめる直前の、一番暗い時間帯。冬の冷気が肺に沁みて、呼吸するたびに体の内側が洗われるようだった。

「お、いたいた。おねえちゃん、おかえり」

 ユウキが里の入り口で待っていた。半纏の上に毛布を一枚追加した格好で、手には湯呑み。

「ただいま。……って、いきなり鼻ひくひくさせないでよ」

 ユウキは足を止めると、不思議そうに鼻を寄せた。

「ねぇ、おねえちゃん。焼肉?」

「……え、わかる? 結構気をつけてたんだけどな」

 アカリは狼狽えたように自分の肩口に鼻を寄せた。羽織の生地に、恵比寿の空気が染みていた。換気扇の油煙、排気ガス、人の密集した空間の残り香。都会の脂を里まで持ち帰ったことが、ちょっとだけ恥ずかしい。

 だが、その瞬間、アカリは里の匂いをもう一度、深く吸い込んだ。松と土。古い家の香り。本物だ。偽物の匂いで揺さぶられたからこそ、今この瞬間、本物がくっきり見える。

 ユウキはそんな姉の様子を見て、くすくすと笑った。

「ねぇ、今度おねえちゃんと『五七』の焼肉、行きたいな」

 里にある、馴染みの焼肉屋の名前。

 何の変哲もないその一言が、都会で張りつめていたものをほどいていく。お勤めの成否でも、技の精度でもなく、「今度いつ焼肉に行くか」。その一貫した日常の磁力に、アカリの肩からふっと力が抜けた。

「……そうだね。近いうちに、絶対ね」

 夜明け前の静けさ。

 二人の歩調が重なり、里の奥へと消えていった。

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