第十五章 一括全消去(デリート)(3)
『校正評議会』の天幕では、ゼブラが異変を察知していた。
それまでは『一括全消去』が進行していることを示す光輪の規則的な回転が見られたのだが、その回転がいまや止まってしまっているのだ。
マダム・グロサリアがいれば調べさせるところだが、グロサリアは『一括全消去』の発動と同時に天幕を去っていた。
ゼブラは自ら状況の確認に着手し、いろいろ調べた結果、一つの結論に達した。
「複数のデータが読み込めない状態になっておるな……これでは全消去は実行できぬ」
理由はわからないが『一括全消去』の発動時と現在で、複数の羊皮紙の記載内容が変わったとしか思えない。
そんなアンマッチ状態をあえて作って妨害を企てそうなのは、ゼブラの知る限り、たったひとりだけだ。
「はっ! エルンストよ。最後の最後まで楽しませてくれる。だが、真の勝利者はこの俺なのだ。見ておれ!」
ゼブラは考えた末に、発動時と異なるデータを魔道ペン『ジャスティス・レイ』で吸い出し、ゼブラの心的宇宙の中で適正化して元に戻す、という手段を採ることにした。最も簡易で、対処のスピードが速いからだ。
ただこの方法は精神汚染をもたらし、酷い場合には人格破壊を引き起こす可能性があるとされている。だがゼブラは歴戦の経験をもつ校正官であり、自らの経験に照らしてその危険は低いと判断した。
「ではやるぞ……ジャスティス・レイ、稼働」
赤い巨大な魔道ペンに赤い光が灯り、明滅を始める。最初はゆっくり、やがて明滅の速度が上がり、スタックしているデータを吸い上げていく。
ゼブラの内宇宙に、大量の記録データが流れ込んでくる。
「な……ッ、何だこれは……!? 読めない、解析できない……! エルンストめ……貴様、羊皮紙の記録に何をした?!」
理法共和国ロゴスが誇る伝説の校正官は、血走った眼で流れ込んで来るデータを凝視し、その中味を見て戦慄していた。
彼にとって、世界は正しく美しい文字列で記述されるべきもの。しかし、今ゼブラの手元にあるのは、エルンの中の複雑に絡み合った想いと、恐怖による震えと涙と鼻水とよだれ、そして血が混ざり合った、黒いカオスの塊だった。
「おお……おおお……がががが……ぐぐぐ……ゲ、ギェーッ!」
ゼブラは生まれて初めて、心の底から恐怖した。
次の瞬間、グググ、グギィ……!と屋台骨がきしむような異音が響く。黒いカオスの塊がゼブラの内宇宙の限界を突破し、校正官の周囲の現実を侵食し始めたのだ。
「ぐ、あああっ!? な、なんだ、俺の脚が……『脚(Ashi)』の文字が、『芦(Ashi)』に書き換わっている……!? 俺の脚が植物の『アシ』になって根を張って動けないッ!!」
完璧な校正を旨とする彼にとって、自分自身の存在に誤字が発生することこそが最大の苦痛だったのだ。その苦痛にゼブラは天幕の中で煩悶した。
そこに『ジャスティス・レイ』から逆流する形で、過負荷を起こしたデータが校正官の脳内に直接大量に流れ込む。その流入量はゼブラの精神を焼き切るのには十分な量であった。
「ぐ、ぐはっ! ぐあああああーーーーっ!!!」
ゼブラが放った校正奥義『一括全消去』の術式は、ここに砕け散った。
ようやく動きが止まった上空の光のリングを祈るように見つめていたエルンとアンとリリア。
すると今度は、上空の光の輪が広がるように明るさを増したかと思うと、やがてその光が空全体に、パシッ!という音とともに広がった。
全体に広がった光の眩しさが収まったとき、空は元どおりの青さを取り戻していた。
火の粉も普通に戻ったし、鎧のテクスチャも景色も、元に戻っている。
「これは……どうなっとるんや……?」
「元に戻ったのよ、ね? たぶん。校正技の発動している形跡は……私には感じられないわ」
「……これは……夢?」
目が覚めたように、エルンがポツリと漏らす。
「エルン、これは現実や。こんなん夢であってたまるかい! エルン、おまえはよう耐えた。耐え切ってよう生き残った。うちらは……うちらは生き残ったんや!」
遠くのほうで「うわーっ!」という歓声が聞こえる。
「敵が……理法共和国軍が降伏したぞ!」
「降伏だ! われわれが勝ったんだ! うおーっ!」
「やったー! 俺たちの勝ちだ! なんとか生き延びたぞー! やったー!」
「帝国軍バンザーイ! バルガス閣下バンザーイ!」
「エルンスト書記官長殿、ばんざーい、ばんざーい!」
「エルン様、命を助けてくれて、ありがとうございます!!」
周囲に歓呼がこだまする。そして喜びの輪が広がる。
「エルーン! エルーン!」
はるか前方、敵の司令部のほうから、聞き覚えのある懐かしい声が聞こえてくる。
「あ、あれは……」
「おう……あいつの声やな」
「無事だったのね……本当によかった……もしそのままだったら、私のせいに……なってしまう、ところでしたわ」
息を切らし、脚をもつれさせながら、転びそうになりながら駆け続け、ようやくその声はエルンの胸の中に飛び込んだ!
「エルン!」
「……おかえり。ネネ」




