第十五章 一括全消去(デリート)(1)
やがて乱れていた『歪んだ空間』の映像が安定し、その向こうには異相の人物が映し出される。
丸いレンズのサングラスをかけ、眉間にはカタカナの「メ」の文字に似たシワ。細い白と黒のストライプの外套に身を包み、まるで定規を飲み込んだような直線的な身体。
「エルン・エルンスト書記官か。初めてお目にかかる。俺は理法共和国ロゴスの校正官、ゼブラ・レッドラインという者だ」
「こちらこそ初めてお目にかかります。レガリアス帝国軍で、今回の戦闘では軍団魔道書記官長を仰せつかっているエルン・エルンストです。高名な『伝説の校正官』にお会いできて光栄です」
「今次の貴官の奮戦に心から敬意を表する。多勢に無勢、また経験も浅かろうに、よくぞここまで健闘されたな」
それを聞いたエルンは、後ろに控えるアンとリリアを振り返った。
「支えてくれた仲間たちのおかげです。辞書精霊のアン、首席監察官のリリア……それに、ここにはいませんがオレの専属秘書官のネネ……あなたの娘さんです。誰ひとり欠けても、ここまで戦えませんでした」
「ネネには先ほど会った。大きくなっていたな。きっと貴官には世話になったのだろう。心から感謝する。彼女は先ほど解放し、できるだけ遠くに逃げるように言っておいたぞ」
「解放してくださったのですね? ありがとうございます。シフォンに拉致されたと聞いていたので、心配していました……『できるだけ遠くに逃げるように手配』ですか? こちらへ返すのではなく?」
不審な顔をするエルンに、ゼブラは苦笑する。
「ああ、そうだ……もうわかっているのだろう? 俺はこれから『一括全消去』を発動する。この戦闘は、貴官と俺の消滅をもって終了する。後のことは知らぬ」
「なぜそんなことを? このままいけば、この戦いはまもなく終わります。あえて『一括全消去』を発動するまでもない。『後のことは知らぬ』と言われるなら、国家の勝敗も関係ないではありませんか?!」
「たしかに貴官の言うとおりかもしれぬ。だが……」
ゼブラは一呼吸入れて、続ける。
「俺はやり過ぎた。殺し過ぎ、壊し過ぎたのだよエルン。俺の手は他人の血にまみれている。俺だけ生き残るなど、死んでいった者たちに申し訳が立たぬ。せめて貴官を道連れにして、彼らへのはなむけにしようと思ってな」
「本当に、それでいいんですか? ネネが――」
「エルン。時間稼ぎは無駄だよ……最後に貴官と話せて良かった。貴官はヴァルハラとやらへ行くのかもしれんが、もしあの世で会えたら、今度はゆっくり語り合いたいものだ……さらばだ」
ゼブラは一方的に言い切ると、最後にサングラスを取ってエルンに微笑んだ。可愛らしく邪気のない、誰かにそっくりの微笑みであった。そのまますぐに『歪んだ空間』の接続が切れ、空中に何もない状態に戻る。
「ヤバい! ヤバいヤバいヤバい! ゼブラさんを止められなかったよ! 『一括全消去』が発動しちゃうよ! いったい、どうしよう?!」
それまで真っ当にゼブラと会話していたエルンが、突然ガタガタと震え出した。
「おまえエルン、さっきまでの態度はどこ行った? どうしてそんな、今さらビビりまくっとんねん?」
「だって、何とかネネの話とかで涙を誘って、最終奥義の発動をやめさせようと思ったんだよ! それが一方的に話を切られちゃ、どうにもならないよー!!」
エルンはガタガタ震え、たちまち涙どばどば、鼻水じゅるじゅるの状態と化している。
「おい、ルビチェック! なんとかしてくれ! エルンがこれじゃ『一括全消去』を止められんぞ!」
「ゼブラ様、『一括全消去』発動のための準備が整いました。ご命令があれば、いつでも発動できます」
「わかった……発動と同時にマダムは効果領域から全速で離脱せよ。なお俺のために絶対に無理はせぬこと。改めて申し渡しておくぞ。俺に対する命令違反は決して許さぬ」
「ゼブラ様……」
「マダム・グロサリア、命令を復唱せよ」
「……はい。『一括全消去』発動後、わたくしは効果領域から全速離脱……ゼブラ様のために絶対無理な行動はいたしません」
「よろしい。……それでは校正最終奥義『一括全消去』発動!」
その瞬間、戦場上空はそれまでの青色一色から、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色が複雑に混じり合う異様な空の色となった。
その空の真ん中に巨大な光のリングがぐるぐると回転している。
「な、なんだ、ありゃ……」
地上の敵味方は戦いを忘れて、思わず異様なその空を見上げる。
燃え上がっている火の粉が、まるでドット絵のように角ばり、鎧の輝きや色味がテクスチャ剥がれのように透明になる。風の吹く音が不快な電子音のようになり、背景の山々も左右反転する。
この領域の崩壊が始まりかけていた。
慌てて天幕の外へ出たエルンたちも、上空の異様さに目を見張る。
「な、なんやこれは……」
長年生きてきたアンでさえ、愕然とする異様な景色。
「こ、これが『一括全消去』の効果なの?……どうやったら止められるの……?」
リリアも茫然と立ちすくんでいる。
「まだや……うちはまだ諦めん……ルビチェック、これまでに書き加えた羊皮紙を……『戦死者報告書』を、『軍備補充申請書』を、『戦闘報告書』を……全部もういっぺん見せてくれ!」
「あ……ああ、羊皮紙ね……報告書は……これよ」
リリアも心ここにあらずながら、魔道ペンを振って魔道書庫から羊皮紙の束を取り出す。
「エルン、これはおまえが持ってくれ! うちが胸ポケットからよく見えるように、支えて見せてくれ!」
「あ……ああ……」
涙と鼻水とよだれと血と……さまざまなものが入り混じったものに触れ、ひどく汚れてしまったエルンの手が、羊皮紙を受け取る。
(あの光のリングは『一括全消去』が発動した証拠や……たぶんあのリングが回っとる間は、消去は始まらん。逆に言うとあれが消えたとき、消去は始まってまう)
アンは羊皮紙の束にも目を走らせながら、必死に思考を巡らせる。
(……まてよ、あの光の回転は何を意味しとる? なぜ発動後すぐに、消去は発動せんのや?)
「ルビチェック、教えてくれい。なんで『一括全消去』はすぐに発動せんのや? あの光がずっとグルグル回っとるのはなんでや?」
「えっ?!……」
(あの、アン・アンサーが質問?! 魔道のことで? 私に?)
リリアは驚いた。
(いえ、そんなことに驚いている場合じゃない。エルンと一心同体のアンが、私に質問するくらい必死に考えてる。私も最大限、協力しなきゃ!)
「あの、専門外でよくわからないけど……発動までに時間がかかるのは、過去の情報を再読み込みしているんじゃないかしら?」
「再読み込みやと? 単に消すだけなのに、なんで過去情報を再読み込みする必要があるんや?」
「『一括全消去』は、ある一定範囲の情報を消しに行く。でも範囲外の情報に紐づいている情報もあるから、消すときは境界線でスッパリ切らないといけない。その見極めのため、過去情報をリブートする必要があるとか?」
「……なるほど。だとしたら、もし過去情報の再読み込みが出来んかったらどないなるんや?」
「普通はエラーになりそうだけど……つまり実行不能になるんじゃないの?」
「それや!!!」
アンが身体に似合わぬような、大きな声で叫んだ!
「その答えが欲しかったんや! ありがとうな、ルビチェック!」




