第十一章 伝説の校正官(3)
「侵攻してくる敵の校正官が、ネネの父親?!」
あまりに予想外の告白に、エルンの頭は真っ白になった。何か言おうと口を微かに開いたものの、適切な言葉が出て来ず、ただ金魚のようにパクパクするだけだ。
「父親とまでは思わんかったが……レッドライン一族がロゴスの校正官の地位を占める者だ、と聞いてから、ネネとの関わりはあると思とった。するとシフォンがネネの名前を間違えたのは、やはりおまえの仕業やな?」
「さすがですわね、アン。ええ、皇帝陛下と謁見するのにネネのファミリーネームが『レッドライン』ではさすがに差し支えがある。だから森羅宮では『ネネ・デッドライン』という名前にさせてもらいましたわ」
アンの問いかけにリリアがにんまり答える。
「……父と言っても、もうだいぶ長い間会っていません。わたしは小さい頃に、母といっしょに父の元を離れたから」
ネネは目を伏せたまま、事情を話し始める。
「ものごころついた頃、すでにわたしは母とふたりでロゴスの片田舎に住んでいました。父の素性を知ったのは、母が亡くなる直前のことでした」
母子ふたりの田舎暮らし。藁葺き屋根の小さな家。
無駄な物のない簡素な部屋のベッドのうえに横たわり、優しく微笑んでいるネネの母親。
「今際の際に母は、わたしひとりを残して逝ってしまうのが唯一の心残りだ、と言いました。そして困ったら父を頼れと。必ず父はわたしの力になってくれるからと。『ひとりはイヤ』と延々泣くわたしに、母はそう言ったの」
ふと顔を上げて、遠くのほうを見つめるネネ。その目にはきっと、いま目の前の景色は映っていない。
「父は家族を支えようと必死で働く人だったそうです。でもそのせいで家族との時間はどんどん減っていった。父は仕事のため、娘であるわたしとの大切な約束を何度も破った。母は『これでは家族でいられない』と思った」
「…………」
「家を出たあと、何度も父はわたしたちを探したようです。ただ母はその探索から隠れ、父の希望に応じることはありませんでした。だからわたしには父の記憶はほとんどありません」
それからネネは、ふっ、と幸せそうな表情を浮かべた。
「なんとか覚えているのは、父に肩車をしてもらっている光景でしょうか。顔はわからないけど、すごく高い肩車なんです。誰よりも高くて高くてすっごく怖いのに、でも面白くて、嬉しくて、温かくて……そんな思い出なんです」
聞いていた者はみな、しばらくの間、黙り込む。
やがてエルンが口を開いた。
「お母さんが亡くなった後、お父さんを頼らず、どうしてまったく縁のない帝国なんかに来たんだい?」
「その頃、お父さんはもう校正官としてかなり有名で偉くなってた。たまたま近くに来た時に会いに行ったけど、たくさんの人に囲まれてて。表情も厳しくて怖くて……わたしの思ってたお父さんとは、違ってた」
「…………」
「それで、もういいかなって思って。自由に生きてやろうと思ってアテのない旅に出たんだ。そしてレガリアス帝国に流れついて、偶然エルンと出会ったわけ」
「そうだったのか……」
「それがこんなところでお父さんとの関わりが出て来るなんて。親子って不思議ね。切っても切れない絆みたいなものがあるのかしら……」
ネネはそう言うと、ふふっ、と軽く笑い、少しスッキリした顔つきでリリアに向き直った。
「じゃあ行きましょうか、ルビチェック監察官。どこに行けばいいんでしょうか? ……じゃあね、エルン。元気でいてね……大好き」
「え……」
そう言って振り向かずに応接間を出て行くネネ。呆然とするエルン。
「あ……ちょ、ちょっと待ちなさい。それじゃまた来るわね」
慌ててリリアが後からネネを追いかける。
残されたエルンはただ立ちすくむだけだった。
「……エルン、まだ起きとるか?」
ネネが寝転がっていた天蓋付きのベッドの上から、アンが話しかける。
「ああ……。起きてるよ」
隣のベッドに入っていたエルンは、アンの呼びかけにすぐ反応した。
「そうか」
アンはそう言ったきり、口をつぐむ。
何か用事があって声を掛けたわけではなかった。内なる心の圧力が高まり、結果としてそれが口から溢れ出たに過ぎなかったのだ。
(うちも長く生きてきたが、この気持ちというのか、心持ちというのか……これをどう整理したらいいものかわからん。心の働きというんは、実に不思議なもんやな……)
「……オレがまだ学生の頃さ」
急にエルンが語り始める。
「当時オレは書記官の初期教育課程でさ。歴史を正しく記録するというテーマで、古代遺跡のフィールドワークをやってたことがあるんだ」
(これは……)
アンはエルンの話を聞きながら考える。
(たぶんうちといっしょや……エルンはうちに対して語りたいわけやない。エルンにとって、聞き手なんて誰でもいいんや……)
アンは黙って聴いてやることにした。
「オレがある古代遺跡の壁の文字を夢中で書き写してるとき、そこに薄汚いガキが迷い込んできた。オレは書き写すのにとにかく必死でさ。次のヤツを書き写そうと一歩踏み出したとき、急に足元の石段が崩れたんだ」
エルンはふふ、と思い出し笑いをする。
「その時そのガキどうしたと思う? よせばいいのに崩れた石段のほうに飛び出してさ。自分の身体を投げ出して、見ず知らずのオレの腕を必死に掴んで引き戻したんだよ。おまえの方が危ないっての。ほんとバカだろ?」
「…………」
「おまけにそいつ、尻餅をついたオレの胸ぐらを掴むと激しく揺さぶって大声で怒鳴りやがんの。『壁の文字なんて、ただの記録でしょ?! なんでそんなもののために、命を捨てるようなことするのよっ!』てな」
エルンの声に、わずかに湿り気が混じった気がした。
「他人のことなのに、そいつボロボロボロボロ、人の胸のうえに涙こぼしやがってさ……真っ黒な顔が涙でキレイになったら、そのガキ……可愛い女の子だったんだよ。まったく……笑っちゃうよな……」
「エルン……」
「なあアン、ネネは危険を顧みずそんなバカなことするヤツなんだよ。今回の戦いのターゲットがオレなら、ネネは絶対オレといっしょにいないほうがいい。リリアなら確実にアイツを守ってくれる。よかったよなぁ……」
「…………」
アンにはエルンに掛ける言葉が、なかった。
その時、寝室の扉を何度も強くノックする音がして、宮廷使用人の叫び声が響いてくる。
「聖書記官さま、お休み中恐れいります! 大至急、謁見の間にお越しください! 皇帝陛下の緊急のお召しでございます!」




