第九章 森羅宮へ(3)
そこに座っていたのは、カミソリで顔の輪郭を削ぎ落としたような、濁りのないインクブルーの瞳の、鋭い目つきをした男だった。
ヴォルガッシュは、髪の毛はプラチナブロンドでオールバック、右眼には魔導片眼鏡を掛け、鼻筋は通り、唇は薄い。深い紺色のベルベットの法衣からは威圧感が滲む。
見ると机の上に、法衣と同じ紺色の魔道ペンが無造作に放り出されている。
「ほぉ……貴官が『神の校正者』とか呼ばれておる御仁か。噂はルビチェック首席監察官から聞いておる。言われていなければ、とてもそうは見えんな」
「は……恐縮です。エルン・エルンストと申します。首席書記官様におかれましては、ご機嫌うるわしく――」
「いや、特に機嫌が良いわけではないな。むしろ貴官と会って悪くなったとも言える。貴官、書記官ながらルビチェックとは大層親密だそうな。書記官と監察官の間柄でいかがなものか……」
「…………」
「なぜか陛下が貴官にご執心でな。そうでなければ吾輩自らが、わざわざ2級書記官ごときに会おうとは思わぬわ。まったく昇級と称号など……陛下は何を考えておられるのか、吾輩には毛ほども理解できぬ」
「は……」
「後ほど陛下との謁見が控えておる。それまでどこかでおとなしくしておれ。……もう下がってよいぞ」
ヴォルガッシュは一方的にそう言うと「下がれ」とでも言うように手を振り、エルンたちがもはや立ち去ったかのように書き物に戻った。
「では閣下、これにて失礼いたします」
シフォンが慇懃に礼をすると、エルンたちに目顔で合図をして、扉の外へと退出する。
バタン、と扉の閉まる音がすると同時に、エルンはそれまでの緊張感を緩めて「ほわぁ……」と声にならない声を吐き出した。
「ヴォルガッシュ閣下という人は、誰に対してもあんな感じで。エルンさん、あまり気にされませんように」
シフォンがエルンをフォローする。
ヴォルガッシュとの対面の後、シフォンはエルンやネネたちを回廊のようなところへと連れて行った。ここは皇帝陛下と謁見する人々が待機する場所らしい。
「いやシフォンさん、オレは別に気にしてませんよ。むしろ偉い人の態度としては、あれが正しいんじゃないかと思いますけどね」
それを聞いたシフォンは少々びっくりした。
「そうですか? それなら私としてはホッとしますけど。閣下がエルンさんに対してだいぶ失礼なことを言ってるなぁ……と横で見ていてハラハラしましたので」
「いや、シフォンさんが丁寧すぎるんですよ。特級書記官なんでしょ? なんで2級のオレにそんなに気を使うんですか。もっと雑な対応でも驚きませんよ」
「ははは……それがまあ、そうもいきませんでね」
シフォンは眉を寄せて困った顔をした。
「先ほどヴォルガッシュ閣下から昇級と称号の話が出ていたと思いますが、エルンさん覚えておられますか?」
「ああそんな話、してましたね。それが?」
「あれ、エルンさんへの昇級と称号授与の話なんですけど……エルンさん、それ、わかっておられます?」
「えっ?!」
エルンは絶句した。
「『えっ?!』て、エルンあんた気づいてなかったの? わたしアレ聞いて、その件について話したくて話したくて仕方なかったんだけど?!」
ネネが勢い込んで話に割り込んでくる。
「……やっぱそうかあ? エルンの様子がなーんも変わらんから、うちもなんかおかしい思とったんや。やっぱり自分のことと思とらんやったんやなー」
アンも苦笑している。
「ここだけの話、あの昇級と称号授与の件、実は皇帝陛下から直々に出ている話なんですよ」
「こ、皇帝陛下がオレに?! な、なんで?!」
「ちょ、エルンさん、声が大きい!」
シフォンは慌ててエルンに注意し、あたりを見回す。近くにいた立っていた人が一瞬怪訝な顔でこちらを見たが、こちらの話の内容に気づいた様子はない。
「陛下からはエルンさんを特級に昇級させて称号も与えるように、というご指示なんです。そんな前例ないので、閣下も困惑されてるってワケですよ」
「!!!」
「昇級すればエルンさんも私と同じ特級。だから対応だって丁寧に……って、エルンさん? だ、大丈夫ですか、えらく震えてるじゃないですか? しっかりしてください、エルンさん!」
「ネネ、ちょっとそこらにエルンを座らせて面倒みとき。何かで扇いで、少し風でも送ってやってや」
「わ、わかったわ……」
アンはエルンの肩からシフォンの肩へと飛び移った。
「あー、シフォン殿、エルンはいつもこんな感じや。あんまり気にせんといてや。あとはこっちでフォローするから」
「はあ……経験豊かなアン殿がそう言われるなら、まあ……はい」
「しかし、陛下も思い切ったことされるもんやなー。なんか狙いがあるんやろか。こんなポッと出の新米書記官に……シフォン殿、何か知っとることあるんやないか?」
アンが例の越後屋ばりの悪党ヅラで、シフォンの耳元に話しかけながらニヤリと笑う。
それを受けたシフォンは眉を顰め、キョロキョロと周りの様子を伺うと、声を落としてひとりごとのようにアンに話しかけた。
「ギルガメス皇帝陛下におかれては、このところ森羅宮の内部対立について極めて憂慮されている、という噂がございます」
「……内部対立?」
「はい。魔道書記官と記録監察官との対立関係です。ご存知かと思いますが、帝国の魔道記録は昔からルビチェック一族が牛耳っています。ただ、現在の首席魔道書記官であるヴォルガッシュ家はその分家に過ぎません」
「ほう。ヴォルガッシュはルビチェック一門やったんか。それは知らんかったな」
「アン・アンサー殿でも、ご存知ないことがあるとは……意外です」
「ま、ここしばらくは田舎に引きこもりやったからな。それで?」
「本来なら本家筋であるルビチェック家が本流の記録畑を継承するのが普通でしょうが、お家騒動がありまして。有力家門のヴォルガッシュ家が取って代わったのが今の状態ってことですね」
「なるほど。ヴォルガッシュは魔道記録界からルビチェックを一掃したい、ルビチェック本家は本流の立場を取り戻したい。それで『生ける断罪』はヴォルガッシュ派の書記官を即決処刑で排除しまくっとるワケやな?」
「さすがはアン殿。ご明察です」
そこまで一気に話したアンは、ちょっと考える。
「……さて、わからんことがふたつある。ひとつは皇帝陛下はこの状況で、エルンをどう使って何をするつもりなのか。もうひとつは……」
アンは黙り、それからしばしシフォンを見つめてから、再度口を開く。
「もうひとつはシフォン・メル・ドロワ、あんたは何モンや? なんの目的でここにおる?」
シフォンは人当たりのよいニコニコ顔をまったく変えずに肩の上のアンを見ている。
「やだなあアン殿。私は皇帝陛下じゃないですから、陛下のお考えはよくわかりませんよー(棒)。そして私は私。紋章院にこき使われる、ただの勤め人ですよー」
「……ただの勤め人、か。まあええ。今日のところはそういうコトにしとこか」
「ご理解ありがとうございますアン殿。あなたとはこれから末永く、うまくやって行けそうです!」
(この男、シフォン・メル・ドロワ……若いのに食えん男や。何を考えとるのか、誰の息が掛かっとるのかわからん)
虫も殺さぬようなニコニコ顔のシフォンを見て、アンはかえって警戒感を新たにする。
(それにコイツ、特級書記官のくせに辞書精霊の気配がない。魔道インクの臭いもせん……胡散臭いやっちゃ。差し当たり、用心しながら是々非々で付き合っていくほか無さそうやな)
アンはシフォンを見ながら「油断して足元掬われんようにせんとな……」と口の中で呟いた。




