43、希望より絶望
最上階にたどり着き、エレベーターをこじ開けて走り出す。なんだよ、もう。最近全然ツイてない。イライラする。なんなの、なんなの、なんなの!!
秘密基地のドアは開いていた。息を軽く整えると、心臓の音が痛いほど耳の近くで鳴っている。中里の時とは違う…。手が、震える。
(誰………)
開いた入口に足を踏み入れる。この時間、生徒のほとんどは自主勉か帰宅。そしてマイロニーでも、中里でもないってことは………
「……………きょう、じゅ」
「クリスティンさん。…今の時間帯ならまだこんにちは、かな?」
いちばん見られてはいけない人……最悪だ。
以前話したことを覚えているだろうか。この学校の創立者、佐久間太一郎。そして、彼を敬い、学校の方針を油絵のみに絞ったという話を。
教授の多くは彼を信仰しているし、ほとんどが油絵画家の人だ。言わずもがな、私は肩身の狭い思いをしてきた。
「これは何ですか?…なんて、見れば分かるんですがね。」
ひらりと翻される一枚の紙。教授の後ろを見やると、ああやっぱり、ロッカーの鍵が開いていた。
「鍵を盗むような真似をしたことは謝ります。ただ最近…いや、フィレール先生がいらっしゃってから貴方の様子が目に付くようになりまして。貴方が美術室で席を離れた時に、鍵を取らせていただきました。」
部屋こそは荒らされていない。ピンチなのは、あの絵だけ。私が描いた……白馬の……
「頭が悪い貴方ではないでしょう。一度しか言いません。もう、こんなモノを描くのはやめなさい。」
ビリ、紙の破ける音。教授の手から、ただの紙くずと化した画用紙が落ちる。はぁ。息が出る。なんというか、久しぶりに聞いた。水彩画をこんなモノ扱いする人も。
いやきっと、幸せすぎて聞こえていなかったんだ。学校は、私が知らなかっただけで、いつも通りだったはずだ。
思わず俯く。どうして今になって、私をこの道から外そうとするの。マイロニーなんて、認めてくれたじゃない。あの中里でさえ、私を認めてくれたじゃないですか。あなたは…
「…あなたは認めてくれないんですか…」
「何ですか?」
「……………いやです。」
「はい?」
「いやです。いやです!嫌!!」
嫌だよ。だって私、水彩画が好きなんだ。なんでやめなきゃいけないの。どうして、どうして。
「…クリスティンさん。貴方の気持ちはわかります。しかし、貴方には油彩画の才能がある。そして油彩画には需要がある。水彩画では、厳しい現実なんですよ。先生とて心苦しいですが、貴方には皆も期待している。だから…」
「お言葉ですが」
睨みつける。これ以上勝手なことは言わせない。これ以上、私を知ったふうな口をきかせない。
「私はしっかりとした希望も持たずこの学校に入学しました。期待を背負う資格も覚悟もありません。そんな私にも、教授は期待をなさるのですか。」
教授は目を見開く。わずかに、一瞬だけ、蔑むような視線を私に向けた。
ねえ…助けてよ。
「ですが、それは」
「私はっ!」
何も言われたくない。私の何も知らないくせに。なのにどうしようもないこの心細さを、どうすればいい。
どうして来てくれないの。いつもならこういう時助けてくれるのに。
「教授たちに期待されるくらいなら、絶望された方がマシです…!」
教授はゆっくりとため息をつく。人の良い教師の顔はもう終わり。その目は、侮蔑に満ちていた。
「…わかりました。では、貴方はここにいる資格も持ち合わせていません。出ていきなさい。クリスティン・夢子。貴女を退学処分とします。」
「………っ」
その次の瞬間、廊下に響く足音が走ってきた。間もなくしてその足音の正体が姿を現した。息を切らしてドアに手を当て、腰を曲げて短い呼吸を繰り返すのは、先程まで美術室にいた中里だった。
「はぁっはぁっ、あれ…何で、教授……はぁ………いや、そんな事より」
中里は教授を見て、一瞬迷ったように私を見やり、視線を教授に戻した。
目が合った瞬間、中里の顔に張り付いた緊張が、私の心臓を掴んだ。
息を整えるよりも先に、中里は口にした。
「帰路の高速道路で、フィレール先生が……………衝突事故に巻き込まれました。」
ねえ、助けに来てよ。どうして助けてくれないの。今助けてくれないと、アンタが憧れた白馬の王子様になんか、なれやしないんだよ。




