19.心機一転
あっと言う間に1ヶ月が経とうとしていた...。
僕が「退職届」を提出してから何度か加藤さんと飲みに行き、所長や他の所員の人とも"簡単な送別会"と称して飲み会を開いてくれた。
社長とは一度も行かなかったし、あれから特に話してもいない。あまり話した事もないし、何時もしかめっ面の社長とは全く反りが合わなかったので、それで良いと思う。
飲み会の席で僕の決心の固さと、次の就職先がすでに決まっている事を告げると、
「・・・まぁ、次の職場へ行っても、頑張れよ...」
それ以上の事は何も言われなかった。
「はい、頑張ります...」
と言ったものの、次の就職先が「アルバイト」になってしまう事は、親友の田川君しか打ち明けていない秘密である。田川君にも当然僕を引き留めるように何度も依頼されていた様子だったが、それを田川君は、
「本人が決めた事だから」
彼には珍しく拒んだようである。
出社最後の日――。11月28日も何時もと同じような作業を淡々とこなしていた。引き継ぐような難しい内容もなく、田川君への負担は多少掛かってくるとは思うがそれは仕方がない。
ラジオからは今ではすっかり板についたあのアナウンサーの明るい声が今日も流れて来る。
(...この声を聴かないと僕の一日が始まらない...。)
普段は何とも思わなかった"朝の一時"をもう永遠に聴く事はないだろうと思うと、何だか高校卒業の最後の日を思い出す...。
・・・中学生の時、卒業日は咲と咲の友達と一緒に帰ったが、高校の時は学校でそれほど目立つような活動もしておらず、友人達と進路の事とか話しながら、何事も無くその日一日が過ぎ去ろうとしていた。
卒業式を終え、その日も一人でぶらぶらと歩いていると、部活の後輩が帰り道になぜか僕を待っている...。
唐突に制服の第二ボタンが欲しいと言われ、意味も分からず渡した記憶がある...。
この習慣は、太平洋戦争時の兵士が想い人に形見として渡した話や、1960年の映画「紺碧の空遠く」のシーンが由来と言われている。「心臓に一番近い場所」という意味が込められているらしい。
今では母校もブレザーの洒落た制服を採用しているが、僕達の代くらいまではまだ旧式の何の特徴もない黒い詰襟の学ランだった。
僕は1つ上の部活の先輩と付き合っていたが、卒業の頃は既に別れており、それを彼女は知っている。
「有難う、・・・御座います...」
僕が何を言おうか迷っている内に僕の眼の前を全速力で走り去っていった...。
家に帰って、僕が何時もの場所に制服を掛けたのを見た母親が、
「あれ?ボタンなくなってるよ?」
と目敏く見つけたので、
「うん、無くした」
と軽く受け流す。母親は弟のお古としてとっておこうと思ったらしく、ぶつぶつ言っていたが、
(...弟もきっとお古ばかりいやだろう...。)
と僕は思い、それには何も答えなかった。
(...なんだろう、何でこんな甘酸っぱい記憶が蘇ってくるのだろう...。)
僕は、いつものWindows95の画面を見つめながら、
(...そう言えば昨日、JW_CADを立ち上げる時に何らかのバクで、黒い画面に
"しばらく、お待ちください。しばらく、お待ちください。しばらく、お待ちください・・・・。"
って「ESC」ボタンを押すまで、画面一杯にずっと流れていた事を思い出した。
(...このバクを使って、田川君に何かメッセージを送ろう...。)
いたずら心が湧いた僕は、机の整理や片付けをしながら、最後の30分、
(...何を書こうか?...。)
そればかり考えていた。
難しそうにしている僕の横顔が気になったのか所長が、
「次の会社が合わなかったら、何時でも戻ってきていいから」
と言ってくれて、
「有難う、御座います」
にっこりしながら、僕はパソコンに向かってある文字を打ち込む...。
"バイバイバイバイバイバイバイバイ・・・・・"
流石に語彙力が足りていない気もするが、まぁ田川君にはこれくらいのジョークの方がは良いと思う。
――吐く息が白い。
冬物のスーツに黒のダウンジャケット、首元にマフラーを巻いて12月1日、僕の記念すべき新たな人生の第一歩を歩みはじめた。
今日からお世話になる「Architect Studio 一級建築士事務所」通称:アーキスタジオは、本町駅が最寄りの駅である。
地下鉄の本町駅は実は、御堂筋線の本町駅、中央線の本町駅、四つ橋線の本町駅が存在し、中央線の本町駅の隣の駅にも「堺筋本町駅」という駅がある為、初めて関西を訪れた人を悩ます事になる。
それぞれ、赤色、緑色、青色を基調としており、基本的に「色で見分ける」事で、その混乱を避ける事ができる。
その中でも一番混んでいるのは赤色を基調とした御堂筋線である。
混んでいる、つまり人気がある、便利なのだ。
昔から特撮アニメの「秘密戦隊ゴレンジャー」でも主役はずっと赤レンジャーである。決して緑ではない。
僕も今日からこの赤い地下鉄「御堂筋線」に乗って通勤する事になんとなく誇らしくなる...。
因みに御堂筋線を梅田を超えてずっと北に進むと地下からいつの間にか地上を走り出す。
"地上を走る地下鉄...。御堂筋線で通勤してるが実はアルバイト...。"
何となく親近感を思えつつも、僕は満員電車に身を縮めながら、身体を預けていった...。




