10.あなたのもとに(その1)
もうどれくらい経っただろう・・・。
最近は運動らしい運動をしていない僕のふくらはぎは疾うに限界に達し、疲労と朝から何も食べていない空腹感で意識が飛びそうな程疲れていた。それでも前を行く中西は休もうとはしない...。
――2号線はどこまで行っても満員電車のように渋滞していたが、僕達は縫うように細い脇道を抜けて漕いだ。
"6人生埋救出願う"と張られたマンションの倒壊現場。避難所となっている小学校の校門に張られた無数の被災者の伝言メモ。焼け落ちた住居跡で粗末な板張りに手作りの墓標を立てて親族を弔う人々...。
――60度くらいに傾いて今にも崩れそうな家屋の横を滑り漕ぎ、僕達も必死に神戸を目指した。
(...岩本先生...。)
"明けまして、おめでとうございます。本年も宜しくお願致します・・・"
お決まりの定型文の後に近況を少し書き添えて、最後に、
"何かの折にまた御逢いしたいです。"
卒業しても毎年のように年賀状のやり取りは続いていた。住所は知っている...。
それがまさかこんな形で年賀状を活用するとは思いもしなかった。
個人情報と言う言葉がまだあまり煩くない時分、自宅の電話番号もクラス全員に配布されている。しかし、電気が復旧しても震災の激震地神戸に自宅のある先生に直接電話をする勇気、何か自主的に行動しようという気持ちは僕にはなかった...。
・・・自宅を出る時、中西と約束していた事がある。
"もしも先生に会えなくても、その時はその近くの避難所を訪れて、この救援物資を渡そう。"
そう決めていた...。
(...もしも先生が住んでいるマンションが倒壊していたら...。)
それはお互い思っていたが、口には出さない。
――尼崎を出てから3時間、遂に僕達は神戸に辿り着いた。
先生の自宅は六甲山の中腹くらいの処にある。六甲山は931mのそれほど高い山ではない。山頂には"六甲山スノーパーク"という小さいがスキー場もある。雪質はパウダースノーではなくアイスバーンで、お世辞にも良いとは言えない。しかし、そのおかげで利便性が良いのにあまり混まない。
正月の三が日、どこに行っても混在しているシーズンでも快適に滑べれる都会の穴場的スポットである。
先生の母校、神戸大学もそこにあった。
僕は高校の演劇部に所属している時から神戸大学演劇研究会、通称「ハチの巣座」の新劇が好きで、勝手に大学に忍び込んで演劇を観ていた...。
最初は演劇など全く興味がなかったが、中学1年生の時、僕は父の仕事の都合で住み慣れた関西から千葉へ転校した。
当時の自宅は昭和の時代に建てられた木造2階建ての長屋で、壁は土壁である...。
あまり手が良くない隣家の大工が建てたらしく、天井裏で隣同士4軒共繋がっており、プライバシーはかなり低い。
僕の家は2階の左から2つ目に住んでいた――。
洗濯機は外の共用廊下部分に設置し、洗濯機の前の狭い廊下部分に洗濯物を干している。扉の鍵は掛けた事はなく、偶に留守にする時は扉の右側にある牛乳箱入れの中に鍵を入れるだけだ。
夏場は何時も扉を開けっ放しにして閉まらないように紐で洗濯機に括り付けていた、自然の扇風機である。
扉の左側には大きな盥があって田んぼで汲んできた泥水を入れた。捕まえたザリガニをうじゃうじゃ飼っており、時々盥から外へ脱走する奴もいる。
その上にバッタやカマキリ、コウロギを入れた網籠を窓の雨水で酸化して赤茶けた鉄格子に無造作に括り付けていた。それでも飽き足らず、玄関の内側、入って右側にも兜虫とクワガタの虫籠、その下に蟻の巣籠、一番下にオタマジャクシが泳いでいる四角い水槽を積み重ねていた。その隣はセキセイインコの鳥籠もあった。
そして、玄関から一番見える真正面の鴨居の上に、この家に全く似つかわしくない、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」の"ドラ・マールの肖像"の、偽物の絵が掲げられていた...。




