02.試される地エッゾの狂犬
エッゾ皇国は、ゲータ・ニィガ王国の北方に位置する国である。
かつて、この地はゲータ・ニィガの一部であった。しかし、一部の有力者たちが反乱を起こし、独立国家を樹立したという歴史を持つ。
エッゾは魔道具の技術こそさほど発達していないが、国民たちは皆、強靭な力を持っていた。
加護には明確なランクが存在するが、この国の民は総じて上位ランクの加護を保有しているのである。
ゆえに、大国であるゲータ・ニィガであっても、おいそれとエッゾに攻め込むことはできずにいた。
両国間には過去の遺恨が深く根付いている。だが、エッゾの側にも、ゲータ・ニィガなどにかまけている余裕はなかった。
ここは通称『試される地、エッゾ』。
気温は極低温にまで下がり、猛烈な吹雪が舞うことも日常茶飯事である。その過酷な寒さゆえに、収穫できる作物も限られていた。
さらに、エッゾにはこの厳しい環境に適応し、独自の進化を遂げた強力な魔物たちが生息している。
エッゾの軍は、そうした魔物の討伐に常に追われているのだ。だからこそ、ゲータ・ニィガというポンコツ集団を放置しているに過ぎない。
……そんな過酷極まる『試される地』に、レティシアはたった一人で放り出されたのである。
膝上まで積もった雪を掻き分けながら、一人歩を進めていく。背負った背嚢に入っているのは、わずかな食料と調理道具一式、そして簡単な着替え。それだけである。
どうやら、実家である公爵家もレティシアをひどく疎ましく思っていたらしく、婚約破棄の報告をしたその日のうちに「荷物をまとめて出て行け」と言い放ったのだ。
かくしてレティシアは必要最低限の荷物だけを持ち、エッゾへと出発した。そして、現在に至るわけである。
「エッゾって、遠いわねぇ……」
視界を埋め尽くすのは、果てしなく続く白銀の雪景色。普通の人間であれば、四方八方が真っ白なこの空間で、あっという間に方向感覚を失い迷子になってしまうだろう。
だが……レティシアには、【視えていた】。
青くキラキラと輝きながら、宙にふわりと浮かぶ……小さな存在たちが。
それは、二頭身の愛らしい姿をしていた。背中からは、きらきらと光の粉をこぼす薄羽が生えている。
彼らこそが――精霊。
確かな意志を持つ、純粋な魔力の塊である。
強大な力を秘め、人間たちに魔法の力を授け、時に絶大な力を与えて英雄へと導く存在……。
精霊は、人知を超えた奇跡の力を有している。
精霊に気に入られさえすれば、人生は勝ち組。そう断言する者がいるほどに……人間にとって精霊とは、至上の価値を持つ存在なのだ。
しかし、精霊が決して人と交わることはない。
そもそも人間の言葉を話さないうえに、精霊の姿を視認できる者など、極めて稀だからだ。
当然である。
精霊とは、意志を持つ魔力の塊なのだ。
通常、人間は視覚で魔力を捉えることなどできない。血の滲むような鍛錬を積んだ高位の魔法使いが、ようやくぼんやりと知覚できる……その程度の代物なのだ。
しかし、例外が存在する。
レティシアである。
彼女は魔力を全く持たない、正真正銘の「魔力ゼロ」の人間だ。
魔力がゼロということは、魔法も使えなければ、スキルを行使することもできない。
この剣と魔法の世界において、加護なしの魔力ゼロの人間など、到底生きてはいけない……誰もがそう信じて疑わなかった。
だが、魔力を持っていないがゆえに、彼女は特別な『体質』を宿していた。
天からの贈り物とでも呼ぶべき、特異体質を。
「ここまでの道案内、ありがとうね、みんな」
レティシアは、周囲を飛ぶ精霊たちに向かってはっきりとそう告げた。
魔力を持たずに生まれた者は、その代償として魔力に対する特別な感受性を獲得することがある。
自身の内に魔力を持たない代わりに、他者の魔力を視覚として捉えることができるという、特殊な『眼』を持つのである。
ゆえに、純粋な魔力の塊である精霊の姿を、レティシアは生まれつき視ることができたのだ。
精霊たちは人間と異なり、様々な自然の力や、独自の知識を有している。
方向すらわからなくなるこの真っ白な世界の中で、精霊たちだけが正しい道筋を見極め、レティシアをここまで案内してきてくれたのだ。
しかし、無論それは無償の奉仕ではない。
「はいはい。ご飯の時間ね」
レティシアが背嚢を下ろし、中に入っているお弁当を取り出そうとした……その時であった。
『——————!!!!!』
精霊の一匹が、鋭い警戒の声を上げてレティシアに危機を知らせた。
「魔物……?」
レティシアは瞬時に身構えた。ここは街の外、荒野の只中である。
魔物が徘徊していても何ら不思議ではない。
精霊はレティシアに対し、魔物が猛烈なスピードで接近していることを伝えていた。
「角兎ね……」
レティシアにも知識はある。角兎とは、おおよそ小型犬ほどの大きさをした、鋭い角を持つ兎の魔物である。
……それくらいであれば、精霊に愛護されている小娘一人でも、なんとか対処できるだろう。
……それが、通常の角兎であれば、の話だが。
「お、大きすぎるわ……」
眼前に姿を現した角兎は、なんと見事な二足歩行をしており、身長は優に二メートル近くに達していたのだ。
「さすがは……『試される地エッゾ』ね……。極寒の環境を耐え抜いたことで、あそこまで独自に巨大化したというわけ……」
『——————————!!!!』
精霊たちが、必死の形相でぐいぐいとレティシアの髪の毛を引っ張る。悠長に感心している場合ではない、一刻も早く逃げろと警告しているのだ。
レティシアは、背嚢の中から布に包まれた「ある物」を取り出した。
「逃げないわ……背を向ければ、そのまま襲われて殺されるだけだし……」
意を決して立ち向かおうとした、まさにその瞬間だった。
ドサッ!
「……あれ?」
あろうことか、巨大な角兎がレティシアの目の前で、うつ伏せに倒れ伏したのである。
「……貴様、誰だ?」
……倒れた魔物の向こう側、レティシアの眼前には、赤髪の巨漢が立っていた。
射抜くような鋭い目つき。燃え盛る炎のような、長い真紅の髪。
その手には、血濡れた長剣が握られている。
どうやら、この赤髪の青年が、あの巨大な角兎を一撃の元に切り伏せたようであった。
そして……。
「危ないところ助けていただき、誠に感謝いたします。私はレティシアと申します。お会いできて光栄ですわ、ルーク第三皇子殿下」
◇
……その時、ルークは二つの事実に対して、深い驚愕を抱いていた。
まず、一つ。
この極寒の地を訪れた得体の知れないよそ者が、自分の名前を知りながらも、一切逃げようとしなかったことだ。
ルークは、己につけられた不名誉なあだ名を熟知している。『狂犬皇子』。
一度暴れ出せば手のつけようがない狂犬であり、出会ったが最後、無惨に噛み殺される。
……世間からは、そのように思われているらしい。だからこそ、ルークに出くわした連中は皆、たとえ彼に命を救われたとしても、感謝の言葉一つ残さずに逃げ出していくのが常だった。
だが、目の前にいる女――レティシアは違った。
「危ないところをお助けくださり、ありがとうございます。ルーク殿下」
「…………」
(なんだ、こいつは……。逃げないどころか、俺に感謝までしてきやがった、だと……。こんなことは初めてだ。だが……)
そして、彼を驚かせたことの二つ目。
それは……。
(こいつ【も】、魔力を持っていやがらない……。まさか、俺と同じ境遇の人間が、他にもいるなんて……)
そう、ルークもまた、レティシアと同じく『加護なし』の人間なのである。
彼自身も魔力を持たないがゆえに、レティシアと同じように他者の魔力を視認することができるのだ。
だが、目の前に立つレティシアからは、魔力の波動が一切感じられなかった。
「…………」
(俺の妻になるという女が、今日あたり到着すると聞いてはいたが……。確か、レティシアという名だったか。そうか、こいつが……こいつ【も】……)
ルークは無言のまま、ゆっくりと長剣を鞘に収めた。
「……ああ。城まで案内してやる」
「あら、お優しいのですね」
「……ふん。勘違いするな。兄上から、お前を城まで送り届けるよう【命令】されているだけだ」
そう、これは命令なのだ。お願いではない。次期皇帝からの至上命令であり、いかに狂犬とて無視するわけにはいかない。
だが、命令はあくまで「送り届けること」であった。つまり、途中で見つからなかったと報告してしまえば、送り届けるという任務は完了しなかったことにできる。
いつもであれば、ルークは他人に微塵も興味を示さなかった。たとえ命令されたとしても、素直に従うことなど百パーセントあり得なかったのだ。だが……。
(こいつは……同じだからな。俺【たち】と)
「もし、殿下」
「なんだ?」
「その角兎は、どうなさるおつもりですか?」
「どう……だと? 放っておけば、すぐに他の魔物が群がって食い尽くすだろうが」
すると、レティシアは「そんな……! もったいないですわ!」と、信じられないものを見るように声を張り上げた。
「もったいない……だと?」
「ええっ。こんなに素晴らしい食材を、そのまま放置して帰るだなんて! もったいないにも程がありますわ!」
「……馬鹿か、お前は」
はぁ、とルークは心底呆れたように深いため息をついた。
「貴様は知らないようだがな、角兎の肉など不味くて食えた代物じゃない。酷く筋張っているし、牛や豚と比べても脂肪が全くついていない。焼こうが煮ようが、どう足掻いても美味くなどならないぞ」
だからこそ、わざわざ角兎を倒したところで、誰もその肉を持ち帰ろうなどとはしないのである。
「それは、単にきちんと調理をなさっていないからではありませんか?」
「調理……だと?」
「ええ。もし殿下がご不要とおっしゃるのでしたら、私にこの角兎を譲ってはいただけないでしょうかっ」
ぐぅうう……と、ちょうどその時、間の抜けた音がルークの腹から鳴り響いた。
「ちょうど良いタイミングですわ。では、今この角兎のお肉を使って、とびきり美味しいお料理を作ってごらんにいれます! それを召し上がっていただいて、もし『美味しい』と思っていただけましたら、この食材、私に譲ってはいただけませんか?」
ルークは少しの間考え込み……やがて「……まあ、やってみるがいい」とだけ答えた。
彼の中にも、純粋な興味が湧いていたのだ。
【あの人】と同じ、加護を持たない人間が、一体どんな料理を作ってみせるというのか……と。




