第9話 王都の土下座 ― されど患者に貴賤なし
【今回の症例】十日前、手足が動かなくなり、半刻で治った。三日前に再発。昨日から意識混濁。
――「治った」ことこそが、最大の警告だった。
一度治った症状ほど、恐ろしいものはない。
治ったのではない。予告されたのだ。
王都は、変わっていなかった。
石畳も、鐘の音も、俺を追放した日と同じだ。
違うのは、通りを歩く人の目つきだけだった。王が倒れた街の空気は、どの世界でも同じ匂いがする。――先の見えない、生ぬるい不安の匂いだ。
使者の話は、こうだった。
十日前、国王が晩餐の席で突然倒れた。右の手足が動かず、言葉がもつれた。だが半刻ほどで、嘘のように元に戻った。宮廷は「悪霊の悪戯」と安堵し、祈祷を上げて済ませた。
ところが三日前、二度目の発作。今度は戻りが遅く、昨日から意識が混濁している──。
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【アナリティクス】遠隔推論(伝聞情報ベース)
第1エピソード:一過性の片麻痺・構音障害、完全回復
〈片側の手足が動かず、言葉がもつれ、やがて元に戻った〉
→ TIA(一過性脳虚血発作)
〈脳の血管が一時的に詰まり、自然に流れが戻った状態〉
※TIAは「治った」のではない。本発作の最終警告である
第2エピソード:脳梗塞 本発作の可能性・大
発症からの経過時間を考慮 → 救命可能性:あり/後遺症リスク:高
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(……最初の発作の時点で警告サインを拾えていれば。安静と、水分と、血をサラサラにする処置で、二発目は防げたかもしれん。『治ったから大丈夫』──前世でも数え切れないほど聞いた、一番危険な言葉だ)
エリスが俺の横顔を見つめていた。
「……行くのですか。貴方を罪人として捨てた国に」
問いながら、エリスは既に自分の鞄へ清潔な布と薬草を詰めていた。答えを知っている顔だった。
俺を追放したのは王国という仕組みである。寝台で苦しんでいる一人の老人ではない。医者が報復する相手を取り違えれば、刃より簡単に人を殺す。
「ああ」
「悔しくは、ないのですか」
俺は外套を羽織りながら、少し考えて、答えた。
「悔しいさ。だから最高の形で吠え面をかかせる。──患者を救ってな。俺たちの流儀では、それを『ざまあみろ』と言うんだ」
「……ふふ。性格が悪い」
「経営者は皆そうだ。行くぞ、相棒。あんたの光が要る」
王都までの五日間、馬車の中で俺は使者を質問攻めにし、王のバイタル、投薬、食事、排泄──あらゆる情報を「アナリティクス」に流し込み続けた。
そして王宮。玉座の間ではなく、病室の前で、あの神官長が待っていた。憎悪と屈辱に顔を歪めながら、それでも彼は絞り出した。
「……教会の全ての祈祷が、尽きた。回復魔法は、陛下の……その、『中』には届かぬと、聖女エリス様が仰るなら……」
「話が早くて助かる」
俺は病室に入った。ベッドの上の国王は、荒い息をつき、右半身が力なく沈み込んでいる。
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【VINDICATE】対象:グランツ国王(61)
意識レベル:混濁 〈呼びかけへの反応が鈍い〉
右片麻痺 〈体の右半分が動かない〉
血圧 極高値/脈:心房細動 〈心臓が不規則に震え、血の塊ができやすい状態〉
最有力:心原性脳塞栓症 〈心臓でできた血の塊が、脳の血管を塞いだ〉
併発:頭蓋内圧亢進 〈脳がむくみ、頭蓋骨の内側の圧が上がっている〉
嚥下障害による脱水・誤嚥性肺炎 〈飲み込めず、水が足りず、唾が肺に落ちて肺炎を起こす〉
状態:重篤。ただし──介入の余地、あり
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(脳の血管の詰まりそのものは、この世界では溶かせない。だが、殺しに来ているのは梗塞じゃない。脱水と、肺炎と、管理の欠如だ。そこは、戦える)
俺は振り返り、青ざめる侍医団と神官たちに宣言した。
「今から、この部屋は俺の集中治療室だ。全員、俺の指示以外で陛下に触れるな。──エリス、頭側を三十度上げる。水分は俺が調合した補水液を、匙で少量ずつ。誤嚥したら終わりだ、体位はこう保て。それと誰か、羊腸の細い管と蜂蜜と塩を持ってこい。……さあ、始めよう」
昼夜のない七十二時間が、始まった。
(言っておくが、俺はこの人を「王だから」救うんじゃない)
(目の前で死にかけているからだ。医者には、それ以外の理由は要らない)
その日の終わり、俺は侍医の一人に、王都の死亡記録を出させた。
四千件。埃をかぶった羊皮紙の束が、卓の上に山を作った。誰も、数えたことがないという。
(……四千人が死んだ。そして誰も、なぜ死んだのかを知らない)
俺は蝋燭を一本立て、一行目から数え始めた。
【今回のカルテ】
TIA:一度治ったように見えても、脳梗塞の重大な警告となる発作。
【たとえるなら】一度治った麻痺は、火事の前に一度だけ鳴った煙探知機。鳴り止んだから安全、ではない。
【次回】第10話「王の目覚め、外科医の開戦宣言」
目を覚ました王に、アラタが要求したもの。それは金でも、爵位でも、名誉回復でもなかった。




