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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第一章 辺境の開業医(第1〜10話)

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第6話 死の地図 ― データは井戸を指す


【今回の謎】南の井戸を使う世帯の罹患率44.7%、北の泉は3.2%。

 ――この数字だけで、領主は動くか? 答えは「否」である。ではどうするか。



 データは、真実を教えてくれる。


 だがデータは、人を動かしてはくれない。


 人を動かすのは、いつだって「その人にとっての損得」だ。


 地図を描くのに、三日かかった。


 村に地図などない。だから俺は、歩いて測った。歩幅で距離を刻み、家の数を数え、井戸の位置を記し、どの家がどの水を飲んでいるかを一軒ずつ聞いて回った。


 靴が二足、だめになった。


────────────────


【アナリティクス】流行性疾患 症例マップ n=61


症状:米のとぎ汁様下痢、嘔吐、急速な脱水 → 推定:コレラ様疾患


空間解析:症例の78%が「南の共同井戸」利用世帯に集中

 〈空間解析=患者の家を地図に打ち、偏りを探すこと〉

対照群:北の泉利用世帯の罹患率 3.2% vs 南井戸世帯 44.7%

 〈対照群=比べるための「そうでない人たち」。北の泉の家では、ほとんど病人が出ていない〉

結論:感染源=南の井戸(オッズ比 21.4)

 〈オッズ比=関わりの強さを表す数字。1なら無関係。21.4は「まず偶然ではない」水準〉


────────────────


 (……ジョン・スノウ。十九世紀ロンドン、ブロード街の井戸。まさか異世界で同じ地図を描くことになるとはな)


 俺はその足で領主館に乗り込んだ。


 フロンティア辺境伯グレアム。五十がらみの、歴戦の武人だ。玉座代わりの椅子で、俺の話を腕組みして聞いていた。


「──南の井戸を、今日この瞬間から閉鎖していただきたい。あれが疫病の源です」


「話にならん」辺境伯は吐き捨てた。「あの井戸は村の水の半分を賄っておる。閉じれば民は水汲みに倍の時間を取られ、畑は乾く。祈祷師どもは『井戸に罪はない、悪霊の仕業だ』と言うぞ。よそ者の言葉ひとつでか?」


 (正論だ。現場の意思決定者は、常にトレードオフの中にいる。ならば──言葉を変える。経営者の言葉に)


「では閣下、数字の話をしましょう」


 俺は「帳簿」を基に、板の上に炭で数字を書き並べた。


「現在の死者、週に9人。働き手を一人失う損失は、年間の税収換算で金貨2枚。このままの流行曲線なら、冬までに死者200人超、税収の損失は金貨400枚。対して井戸の閉鎖と、北の泉からの水路整備の費用は──金貨35枚。人手は俺が段取りします」


「………」


「400を失うか、35を投じるか。閣下、これは信仰の問題ではありません。領地経営の問題です。それと──」


 俺は最後の一枚の札を切った。


「祈祷師殿の顔も立てましょう。『悪霊が井戸に宿ったため、聖別のあいだ閉鎖する』。そう布告すれば、民は混乱しない。手柄は祈祷師と閣下のものだ。俺の名前は、どこにも要りません」


 辺境伯は長いこと俺を睨み、それから──喉の奥で、低く笑った。


「……面白い男だ。王都は、とんでもない物を捨てたらしいな」


 井戸は閉鎖された。俺は並行して、経口補水液(水+塩+糖蜜の比率を「解析」で最適化したもの)の作り方を、例のトトの母親たち──今や俺の"最初の看護チーム"だ──に叩き込み、村中に配った。


 二週間後。


────────────────


【アナリティクス】新規症例数:週31件 → 週2件


死亡者数:週9人 → 0人


────────────────


 ――井戸の綱を切る日、村は静まり返っていた。


 水は、命だ。それを断てと言う異国の男を、誰も心から信じたわけではない。


 最初に斧を握ったのは、トトの母親だった。夫を、その井戸の水で亡くしていた女だ。


「……あんたの言うことが嘘なら」彼女は俺を見ずに言った。「あたしを、恨んでいい」


 綱は、三度目で切れた。落ちた桶が井戸の底に当たる音が、村中に響いた。


 村人たちは、もう俺に石を投げなかった。


 病で夫を失った老女は、診療所の戸口に黙って卵を二つ置いた。


 統計表の「死亡者ゼロ」は一行で済む。だが、その一行の中には、名も顔もある暮らしが六十一人分、確かに戻っていた。


 代わりに診療所の前には、卵や薪や、編んだ靴下が置かれるようになった。


 もう一つ、引っかかっていることがあった。


 流行が収まった頃、村を回っていた行商人が、やけに安い薬草を置いていったという。市価の、三分の一。


「東の海の向こうから来た品だとさ」と村長は言った。


 安すぎる薬には、安い理由がある。俺は帳面の隅に、その一行だけを書き留めておいた。


 ――この一行が、いつか大陸を救うことになる。もちろん、この時の俺は何も知らない。


──そんなある日。診療所の扉が乱暴に開き、鎧姿の兵士が転がり込んできた。


「先生! 大変だ、騎士団長が……演習中に突然、腹を抱えて倒れた! だが従軍神官は『触っても大して痛がらない、大袈裟に騒いでいるだけだ』と……!」


 腹の激痛。なのに、所見が乏しい。


 その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。


 (──pain out of proportion。痛みと所見の乖離。それは、教科書が警告する最悪のサインだ)


「案内しろ。走るぞ」



【今回のカルテ】


疫学マップ:患者が「どこで」発生したかを地図化し、原因を探る。


【たとえるなら】疫学マップは、事件現場に点を打っていく刑事の地図。点が集まる場所に、犯人がいる。


【次回】第7話「痛みは嘘をつかない ― 見えない死神」

 「腹を押しても、大して痛がらない」――その一言が、この世界で最も危険な兆候だった。


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