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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第一章 辺境の開業医(第1〜10話)

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第5話 辺境開業、初日の患者はゼロ人


【今回の症例】村人が次々に死んでいく。神官は「疫病神の祟り」と言う。

 アラタが最初に診たのは、患者ではなく――地図だった。



 開業初日の患者数、ゼロ。


 だが俺は落胆しなかった。信用ゼロの新規事業に客が来ないのは、失敗ではなく前提である。


 問題は、この村で「信用」をどうやって仕入れるか、だ。


 村の入口で、まず匂いに気づいた。


 石灰。糞尿。焚かれた香。そして、その全部の下に沈んでいる、饐えた甘い匂い。


 ――人が、片付けられずにいる匂いだ。


 道の脇に、布をかけられた荷車が停まっていた。布の下の形は、明らかに人だった。数えて、四つ。


 フロンティアの村は、想像より酷かった。


 道端に薄く撒かれた石灰。閉ざされた家々。そして村の広場では、神官が香を焚き、「疫病神祓い」の祈祷を上げている。集まった村人は皆、憔悴しきっていた。


 俺は空き家だった元・鍛冶小屋を銀貨五枚で借り、扉に木の看板を掲げた。


〈フロンティア診療所 診察無料(当面)〉


──初日の患者、ゼロ人。


──二日目、ゼロ人。


──三日目、石を投げられた。「王都を追われた呪い師が来た」と。


 石は俺ではなく、木の看板に当たった。〈診察無料〉の「無料」の二文字が欠けた。


 腹は立たなかった。怖いのだ。知らない医術に家族を預けるくらいなら、慣れた祈りに縋りたい。その恐怖を責めても、患者は来ない。必要なのは正しさの演説ではなく、最初の一人を無事に家へ帰すことだった。


 (想定内だ。新規参入で信用ゼロ。ならば、マーケティングの基本に立ち返る。最初の一人──アーリーアダプターを掴め)


 四日目の夜。診療所の扉が、遠慮がちに叩かれた。


 立っていたのは、青ざめた顔の若い母親。腕の中では、五歳くらいの男の子が、肩で息をしていた。ヒュー、ヒュー、と笛のような音。


「よ、夜中にすみません……この子、咳が止まらなくて……神官様は『祈祷は朝から』って……お代は、払えないんですけど……」


「金の話は後だ。入れ。──坊主、名前は?」


「……トト」


────────────────


【VINDICATE】対象:トト(5)


呼吸数42 〈この年齢の倍近い。息を吸うだけで精一杯の状態〉

血中酸素 89% 〈健康なら96%以上。体に酸素が足りていない〉

呼気性喘鳴(+) 〈息を吐く時にヒューと鳴る。空気の通り道が狭い証拠〉

陥没呼吸(+) 〈息を吸うたび、鎖骨の上や肋骨の間がへこむ。危険な兆候〉


最有力:気管支喘息 中発作 〈空気の通り道が縮んで、息が吐き出せなくなる発作〉

増悪因子:住環境の粉塵曝露疑い 〈寝床の埃が、発作の引き金になっている疑い〉


────────────────


 (喘息か。この世界に気管支拡張薬はない。だが──)


 俺は薬草棚から、この三日で村の周辺から採集し、成分を「解析」で当たりをつけておいた乾燥葉を取り出した。マオウに近い成分を含む灌木。エフェドリン様物質だ。煎じて、蒸気ごと吸わせる。


「母さん、あんたも手伝え。坊主を膝に乗せて、背中を起こして抱いてやれ。──いいか、これから俺がやることを説明する。分からなかったら、分からないと言ってくれ」


 湯気を立てる薬湯。ゆっくりと、少年の呼吸が楽になっていく。ヒューという音が消え、頬に赤みが戻る。


 母親が泣き崩れた。俺は、彼女の目線までしゃがんで言った。


「よく夜中に決断した。あんたがこの子を救ったんだ。──最後に一つだけ。家に帰ってから今夜やること、あんたの言葉で、俺に説明してみてくれるか?」


「え、えっと……湯気のお薬を、朝もう一回……寝るときは、体を起こし気味に……あと、寝床の藁を、外で乾かす……」


 母親は俺の説明の間じゅう、指の関節が白くなるほど両手を握り合わせていた。分かるまでは頷かない、という顔をしていた。


 俺は三度、言い方を変えた。四度目に、ようやく彼女の目の焦点が合った。


「完璧だ」


 これが、前世の医療コミュニケーションで叩き込まれたティーチバック。説明したかどうかではなく、伝わったかどうかが全て。


 翌朝、母親は村中に触れ回った。「あの先生は、呪いじゃなく、分かる言葉で治してくれる」と。


 五日目の患者、三人。


 六日目、七人。


 七日目──俺は診療の傍ら、全患者の記録を「アナリティクス」に刻み始めた。年齢、症状、住区、井戸、発症日。


 そしてデータは、一週間で不気味なパターンを描き出した。


 村を蝕む「流行り病」──激しい下痢と嘔吐、そして死。


 その患者の点は、地図上のある一点を中心に、綺麗な同心円を描いていたのだ。


 円の中心には、何があるのか。


 俺は村の見取り図に、一つの記号を書き込んだ。


 ――井戸。



【今回のカルテ】


ティーチバック:説明後、患者自身の言葉で理解を確かめる方法。


【たとえるなら】ティーチバックとは、道を教えたあとに「いま言った道順、もう一度言ってみて」と確かめること。"分かったつもり"を潰すための作業である。


【次回】第6話「死の地図 ― データは井戸を指す」

 十九世紀ロンドンで、ジョン・スノウがコレラを止めた武器。アラタはそれを、異世界で再現する。


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