幕間IV 社代康介の稟議書 ― もう一人の日本人
【この話について】もう一人の転生者・社代康介が、前の世界で何を失ったのか。
本編第34話〜第35話の、その前の話です。
俺が異世界に来る前、最後にやった仕事は、企画書を一枚、シュレッダーにかけることだった。
製薬会社の事業開発部。三十九歳。課長代理。
俺が四年かけて通そうとしていたのは、途上国向けの抗菌薬アクセス改善プログラムだった。
薬はある。特許も切れている。作れる工場もある。
足りないのは、流通と、価格と、稟議の判子だけだった。
四年で、俺は十七回、企画書を書き直した。
役員会に上げたのが三回。差し戻しが三回。
最後の差し戻しの理由は、たった一行だった。
――「収益性が説明できない」。
説明はできた。ただ、五年後の話だっただけだ。
その年の決算で、うちの会社は過去最高益を出した。
俺は自分の企画書をシュレッダーにかけて、その夜、駅の階段で足を踏み外した。
――気がついたら、異世界にいた。
最初にやったことは、笑い出したことだ。
誰も稟議を回さない。誰も差し戻さない。誰も「収益性が」と言わない。
俺の頭の中には、前の世界の知識が全部入っている。
――やっと、やれる。
俺はそう思った。心の底から、善意で、そう思ったのだ。
白い粉を作った。売った。飛ぶように売れた。
貴族が並んだ。民が並んだ。神官までが並んだ。
俺は、初めて感謝された。
四年間、誰にも認められなかった俺の知識が、この世界では毎日、人の命を助けていた。
――だから、止められなかった。
「効きすぎている」という報告が上がってきた時も。
「同じ薬を三度飲んだ患者が治らない」という報告が来た時も。
俺は稟議書を書かなかった。書く相手がいなかったからだ。
誰も俺を止めなかった。それが、この世界の最大の欠陥だった。
剣崎アラタが俺の前に座った時、俺は殴られると思った。
殴られる覚悟はできていた。むしろ、殴ってほしかった。
そうすれば、俺は被害者になれる。
あの男は、殴らなかった。
紙を広げて、炭を置いて、こう言った。
「あんたの問題提起は、正しい」
――四年ぶりだった。
俺の企画の"前提"を、正しいと言われたのは。
その次に、彼はこう続けた。
「だが、あんたの答えは、間違っている」
俺は反論した。三時間、反論し続けた。
彼は一度も席を立たなかった。
夜が明ける頃、俺は気づいた。
――ああ。俺が本当に欲しかったのは、判子じゃない。
こうやって、最後まで座って議論してくれる相手だったんだ、と。
港町ミレナで、俺は四十三人を看取った。
俺の粉が、効かない菌を選び残した。俺が撒いた一年が、四十三人を殺した。
剣崎は、俺に記録簿を押しつけて言った。
「新しい薬を作る時、必ず問え。『この薬は、どう間違って使われうるか』と」
――今、俺は大陸医療同盟・医薬開発局の初代局長をしている。
仕事の半分は、新しい薬の開発だ。
そして残りの半分は、稟議を差し戻すことだ。
俺は、部下の企画書に赤を入れながら、いつも同じことを書く。
〈収益性は説明しなくていい。この薬が、どう間違って使われうるかを書け〉
四十三人の名前は、局長室の壁に貼ってある。
毎朝、それを見てから、判子を握る。
【今回のカルテ】
善意は、止める仕組みがなければ暴走する。開発者にとって最大の安全装置は、対等に反論してくれる他者である。
【たとえるなら】薬の開発は、刃物を鍛えること。よく切れる刃を作ることと、鞘を作ることは、必ずセットでなければならない。
【次回】エピローグ「百年後のカルテ」
百年後。大陸で最も古い医学校の資料室に、一冊の色褪せた記録簿が残されています。




