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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

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第40話 湖のほとりで ― そして地図は埋まる


【最終話】ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 ――そして本編のあとに、百年後のエピローグが続きます。




 二度目の人生の終わり方について、俺には一つだけ希望があった。


 誰にも看取られなくていい。その代わり、誰かが俺の記録を読み続けてくれればいい。


 ……そう思っていたのだが。


 湖の水は、痛いほど冷たかった。


 手を浸すと、指先から順に感覚が消えていく。


 ――生きている、という感覚は、たいていこういう小さな痛みでできている。


 三ヶ月後。


 俺は、湖のほとりに立っていた。


 フロンティアの北にある、雪解け水の澄んだ湖。春の陽射しが、水面を金色に砕いている。


「──約束、覚えていましたね」


 隣で、エリスが微笑んだ。今日の彼女は、学長の法衣ではなく、質素な旅装だった。


「ああ。記録も、統計も、制度も、無しの日だ」


 数字を手放すと、世界は思ったより静かだった。


 救った人数も、学校の規模も、残された寿命も、今日は数えない。隣でエリスが呼吸している。それだけを確かめる一日は、俺にとって最も難しく、最も必要な治療だった。


「本当に?」


「……」


 俺は、無意識に開きかけていた「帳簿」を、慌てて閉じた。エリスが、声を上げて笑った。


 俺たちは、湖のほとりに座った。しばらく、何も話さなかった。ただ、水の音と、風の音と、遠くの鳥の声を聞いていた。


 前世の俺は、こんな時間を、一度も持たなかった。


「……アラタ」やがて、エリスが言った。「これから、どうしますか」


「そうだな」


 俺は、湖の向こうを見た。


「地図は、だいぶ埋まった」


 大陸医療同盟は、今や五カ国に広がっている。北のイルガの民とは、彼らの掟を尊重した形での協力関係が結ばれた(記録は名前ではなく、彼ら自身が管理する符号で行われている)。東方ヤマトには医学校の分校ができ、玄斎が院長として渡った。社代の医薬開発局は、既に三つ目の新薬の開発報奨を出している。


 医学校の卒業生は、四百名を超えた。トトは、フロンティア医学校の第三代学長に内定している。ミカゲの依存症治療体系は、大陸標準になった。


────────────────


【アナリティクス】大陸医療同盟 総括(設立5年)


加盟:5カ国/記録カバー人口:約620万人


推定回避可能死亡:設立前比 −54%

 〈防げたはずの死が、五年で半分以下になったということ〉


乳児死亡率:設立前の3分の1


医師・医療従事者:1,847名


特記:この5年間、剣崎アラタの直接診療によって救われた患者の割合──0.02%


────────────────


「……0.02%」俺は、その数字を見て、笑った。


「どうしました?」


「いや」俺は、首を振った。「最高の成績表だな、と思って」


 (俺の腕で救った命は、全体の万分の二。──残り全部は、仕組みと、人が救った)


 前世の俺が、喉から手が出るほど欲しかった数字が、そこにあった。


「エリス」俺は、湖を見たまま言った。「俺は、前の世界で、四十五歳で死んだ。明日から新しいキャリアを始めるっていう、その前の晩に」


「ええ」


「あの時、俺は思ったんだ。やり残した、って。個人の限界を超えたかった。仕組みで人を救いたかった。……で、それは、やった」


 俺は、彼女を見た。


「だから今度は、やり残したことの、二番目をやろうと思う」


「二番目?」


「普通に、生きる」


 エリスが、目を丸くした。


「俺は、医者としては優秀だったが、人としては最低だった。友達もいない。家族も作らなかった。趣味もない。飯は病院のコンビニ弁当で、休みの日は寝てるだけだった。──俺は、自分の人生を、一度も生きなかった」


 俺は、湖に小石を投げた。ぽちゃん、と間の抜けた音がした。


「だから、今度はやる。釣りを覚える。飯を作る。庭を耕す。……そして、隣にいてほしい人と、一緒にいる」


 エリスの頬が、みるみる赤くなった。


「……そ、それは」


「エリス」


 俺は、彼女に向き直った。


「あんたは俺の主治医で、相棒で、同僚で、後継者だ。──だが、それだけじゃ嫌だと言ったのは、あんただ」


「…………はい」


「なら、聞く。──残りの人生、俺の隣で、一緒に生きてくれないか」


 風が、湖面を渡った。


 エリスは、目に涙を溜めて、それでも真っ直ぐに俺を見て、笑った。


「──処方箋を、出しましょう」


「……は?」


 彼女は、袖から羊皮紙を取り出した。用意していたらしい。


〈処方:剣崎アラタ。──生涯にわたり、主治医の傍を離れぬこと。用法・用量:毎日、無期限。副作用:幸福。〉


「……こいつは」俺は、吹き出した。「最悪の処方だ。エビデンスが一つもない」


「では、比較試験をしますか?」


「──いや」


 俺は、彼女の手を取った。


「この治療は、俺一人の症例報告で、十分だ」




【今回のカルテ】


症例報告:一人の経験にも価値はあるが、一般化には慎重さが必要である。


【たとえるなら】症例報告は、一枚の写真。世界の全部は写らないが、そこに確かに在ったものだけは、間違いなく写る。


【次回】エピローグ「百年後のカルテ」

 百年後。大陸で最も古い医学校の資料室に、一冊の色褪せた記録簿が残されている。


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