第40話 湖のほとりで ― そして地図は埋まる
【最終話】ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
――そして本編のあとに、百年後のエピローグが続きます。
二度目の人生の終わり方について、俺には一つだけ希望があった。
誰にも看取られなくていい。その代わり、誰かが俺の記録を読み続けてくれればいい。
……そう思っていたのだが。
湖の水は、痛いほど冷たかった。
手を浸すと、指先から順に感覚が消えていく。
――生きている、という感覚は、たいていこういう小さな痛みでできている。
三ヶ月後。
俺は、湖のほとりに立っていた。
フロンティアの北にある、雪解け水の澄んだ湖。春の陽射しが、水面を金色に砕いている。
「──約束、覚えていましたね」
隣で、エリスが微笑んだ。今日の彼女は、学長の法衣ではなく、質素な旅装だった。
「ああ。記録も、統計も、制度も、無しの日だ」
数字を手放すと、世界は思ったより静かだった。
救った人数も、学校の規模も、残された寿命も、今日は数えない。隣でエリスが呼吸している。それだけを確かめる一日は、俺にとって最も難しく、最も必要な治療だった。
「本当に?」
「……」
俺は、無意識に開きかけていた「帳簿」を、慌てて閉じた。エリスが、声を上げて笑った。
俺たちは、湖のほとりに座った。しばらく、何も話さなかった。ただ、水の音と、風の音と、遠くの鳥の声を聞いていた。
前世の俺は、こんな時間を、一度も持たなかった。
「……アラタ」やがて、エリスが言った。「これから、どうしますか」
「そうだな」
俺は、湖の向こうを見た。
「地図は、だいぶ埋まった」
大陸医療同盟は、今や五カ国に広がっている。北のイルガの民とは、彼らの掟を尊重した形での協力関係が結ばれた(記録は名前ではなく、彼ら自身が管理する符号で行われている)。東方ヤマトには医学校の分校ができ、玄斎が院長として渡った。社代の医薬開発局は、既に三つ目の新薬の開発報奨を出している。
医学校の卒業生は、四百名を超えた。トトは、フロンティア医学校の第三代学長に内定している。ミカゲの依存症治療体系は、大陸標準になった。
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【アナリティクス】大陸医療同盟 総括(設立5年)
加盟:5カ国/記録カバー人口:約620万人
推定回避可能死亡:設立前比 −54%
〈防げたはずの死が、五年で半分以下になったということ〉
乳児死亡率:設立前の3分の1
医師・医療従事者:1,847名
特記:この5年間、剣崎アラタの直接診療によって救われた患者の割合──0.02%
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「……0.02%」俺は、その数字を見て、笑った。
「どうしました?」
「いや」俺は、首を振った。「最高の成績表だな、と思って」
(俺の腕で救った命は、全体の万分の二。──残り全部は、仕組みと、人が救った)
前世の俺が、喉から手が出るほど欲しかった数字が、そこにあった。
「エリス」俺は、湖を見たまま言った。「俺は、前の世界で、四十五歳で死んだ。明日から新しいキャリアを始めるっていう、その前の晩に」
「ええ」
「あの時、俺は思ったんだ。やり残した、って。個人の限界を超えたかった。仕組みで人を救いたかった。……で、それは、やった」
俺は、彼女を見た。
「だから今度は、やり残したことの、二番目をやろうと思う」
「二番目?」
「普通に、生きる」
エリスが、目を丸くした。
「俺は、医者としては優秀だったが、人としては最低だった。友達もいない。家族も作らなかった。趣味もない。飯は病院のコンビニ弁当で、休みの日は寝てるだけだった。──俺は、自分の人生を、一度も生きなかった」
俺は、湖に小石を投げた。ぽちゃん、と間の抜けた音がした。
「だから、今度はやる。釣りを覚える。飯を作る。庭を耕す。……そして、隣にいてほしい人と、一緒にいる」
エリスの頬が、みるみる赤くなった。
「……そ、それは」
「エリス」
俺は、彼女に向き直った。
「あんたは俺の主治医で、相棒で、同僚で、後継者だ。──だが、それだけじゃ嫌だと言ったのは、あんただ」
「…………はい」
「なら、聞く。──残りの人生、俺の隣で、一緒に生きてくれないか」
風が、湖面を渡った。
エリスは、目に涙を溜めて、それでも真っ直ぐに俺を見て、笑った。
「──処方箋を、出しましょう」
「……は?」
彼女は、袖から羊皮紙を取り出した。用意していたらしい。
〈処方:剣崎アラタ。──生涯にわたり、主治医の傍を離れぬこと。用法・用量:毎日、無期限。副作用:幸福。〉
「……こいつは」俺は、吹き出した。「最悪の処方だ。エビデンスが一つもない」
「では、比較試験をしますか?」
「──いや」
俺は、彼女の手を取った。
「この治療は、俺一人の症例報告で、十分だ」
【今回のカルテ】
症例報告:一人の経験にも価値はあるが、一般化には慎重さが必要である。
【たとえるなら】症例報告は、一枚の写真。世界の全部は写らないが、そこに確かに在ったものだけは、間違いなく写る。
【次回】エピローグ「百年後のカルテ」
百年後。大陸で最も古い医学校の資料室に、一冊の色褪せた記録簿が残されている。




