第35話 特許か、公共財か ― 二人の日本人の交渉
【今回の論点】知識を独占すれば、人が死ぬ。
だが独占を一切認めなければ、次の薬が生まれない。――前世で誰も解けなかった問題である。
交渉の勝ち負けは、相手を黙らせた回数では決まらない。
席を立たずに、最後まで座っていた側が勝つ。
社代康介は、四十前後に見えた。
仕立てのいい服。よく手入れされた指。そして、疲れ切った目をしていた。
その目に、俺は見覚えがあった。前世の鏡の中で、何度も見た目だ。
その夜、俺と社代は、商会の一室で向かい合った。
酒も茶も出さなかった。あるのは、紙と、炭と、二つの頭脳だけ。──前世で言うところの、交渉のテーブルだ。
交渉は日本語で行った。エリスにも部下にも分からない言葉で話すことに、少しだけ後ろめたさがあった。
だが社代の「稟議」「承認」「開発中止」という単語を聞くたび、二人ともこの世界へ来る前から、救いたいものを組織に阻まれてきたのだと分かった。争点の奥には、似た挫折があった。
「まず、共通の目的を確認しよう」俺は切り出した。「俺たちは、二人とも、より多くの人間を救いたい。違うか?」
「違わない」
「なら、対立してるのは目的じゃない。手段だけだ。そして手段の対立は、設計で解ける」
俺は、紙に三つの箱を描いた。
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【レジャー】医薬品 開発・供給制度 構想(アラタ提案)
①開発報奨制度
新しい薬・治療法を発見した者に、同盟が発見報奨金を支払う
財源:加盟国の拠出+薬の販売収益の一部
→ 金は払う。ただし"独占"の対価ではなく、"公開"の対価として
②期限付き優先製造権
開発者に、5年間の優先製造権を認める(利益回収期間)
ただし──製造方法は同盟に開示・登録が必須
5年後、製法は公共財となり、誰でも作れる
③階層価格と供給義務
富裕層・貴族には高く、貧民には原価で供給する義務を負う
→ 金持ちが、貧しい者の薬代を払う構造
④適正使用の遵守義務
処方免許制・適応制限を守らぬ販売者は、①②の権利を剥奪
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社代は、その図を、長いこと睨んでいた。
「……特許制度に、報奨金と、価格差別を組み合わせたのか」
「ああ。あんたの言う通り、タダ働きでは新薬は生まれない。だから金を払う。だが──その金は、"独占して吊り上げた価格"からじゃなく、"公開したことへの報酬"から出す」
俺は、続けた。
「そして、これはあんたにとっても、遥かに儲かる話だ」
「……なに?」
「今のあんたの商売は、いつまで持つ? 一年か、二年か。──製法は、いずれ誰かに真似される。あんたには特許庁も裁判所もない。真似された瞬間、価格は暴落し、あんたの独占は終わる。あんたは今、"逃げ切り"の商売をしている」
社代の眉が、動いた。
「だが、この制度に乗れば──あんたは同盟公認の第一号開発者になる。五年間の優先製造権が、法と軍事力で守られる。報奨金が入る。そして五年後には、次の薬でまた稼げばいい。……制度に守られた開発者は、無法の独占商人より、遥かに長く儲かる」
「………」
「社代さん。あんたは製薬会社にいたなら分かるはずだ。製薬企業を守っているのは、企業の力じゃない。特許制度という"社会の約束"だ。その約束が無い世界で独占ごっこをしても、それはただの博打だ」
長い沈黙が落ちた。
やがて社代は、疲れたように、背もたれに沈み込んだ。
「……くそ。MBAホルダー同士の交渉ってのは、やりにくいな」
「同感だ」
「……一つだけ、言わせてくれ」彼は、天井を見上げた。「俺が独占にこだわった理由、もう一つあるんだ」
「?」
「怖かったんだよ」
彼の声が、初めて、素の四十二歳の男のものになった。
「日本で俺は、部長止まりだった。会議で潰され、上に潰され、俺が推したプロジェクトが何度も葬られた。俺は、何も世に出せないまま、会議室で死んだんだ」
俺は、黙って聞いた。
「この世界に来て、初めて俺の判断が通った。俺の作った薬が、直接人を救った。……必要とされる感覚が、麻薬みたいだった。手放したくなかった。独占をやめたら、また"誰でもない誰か"に戻る気がして」
俺は、しばらく考えて、言った。
「──戻らないさ」
「?」
「あんたが手放しても、記録に残る。"この薬を最初にこの世界にもたらしたのは、社代康介である"と。同盟の記録網は、それを永久に消さない。……俺の作った仕組みは、誰の功績も、消さないように作ってある」
社代の顔が、歪んだ。
彼は、両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。
そして──掠れた声で、言った。
「……剣崎さん。日本語で話せるやつが、この世界にあんたしかいなくて、良かったよ」
「同感だ」俺は笑った。「──で、返事は?」
彼は、顔を上げた。目が赤かったが、その口元には、事業家の笑みが戻っていた。
「乗った。だが条件がある。──その報奨制度、設計を俺にやらせろ。あんたは臨床が本業だろ。制度設計と資金調達は、俺の専門だ」
「……願ってもない」
こうして、大陸医療同盟に、医薬開発局が設立された。初代局長、社代康介。
だが──二人の日本人が握手を交わしたその頃、既に、災いは南の港町で芽吹いていた。
社代が一年間ばら撒いた、粗悪な白い粉。それが選び抜いてしまった、薬の効かない菌が。
(――薬が効かなくなる、という現象がある)
(前世では、それを「耐性」と呼んだ)
(そして俺は、社代がばら撒いた一年間が、何を選び残したのかを――この時、まだ計算していなかった)
第36話「効かない薬」へ続く
交渉の途中、社代がふと言った。
「……あんた、俺を殴りに来たんじゃないんだな」
「殴っても、薬は増えない」
「そうか」彼は笑った。ひどく下手な笑い方だった。「――俺、この世界に来て初めてだ。まともに議論してもらえたの」
その一言で、俺はこの男が、前世でどれだけ孤独だったかを理解した。
【今回のカルテ】
開発インセンティブ:公開性と、発明者が次の開発を続けられる報酬を両立する。
【たとえるなら】開発報奨金とは、"発明した人に一番乗りの席は用意するが、道路そのものは塞がせない"という約束のこと。
【次回】第36話「効かない薬 ― 港町の異変」
白き粉が、効かない。大陸で最も薬を使った町から、悪夢は始まる。




