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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

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第35話 特許か、公共財か ― 二人の日本人の交渉


【今回の論点】知識を独占すれば、人が死ぬ。

 だが独占を一切認めなければ、次の薬が生まれない。――前世で誰も解けなかった問題である。




 交渉の勝ち負けは、相手を黙らせた回数では決まらない。


 席を立たずに、最後まで座っていた側が勝つ。


 社代康介は、四十前後に見えた。


 仕立てのいい服。よく手入れされた指。そして、疲れ切った目をしていた。


 その目に、俺は見覚えがあった。前世の鏡の中で、何度も見た目だ。


 その夜、俺と社代は、商会の一室で向かい合った。


 酒も茶も出さなかった。あるのは、紙と、炭と、二つの頭脳だけ。──前世で言うところの、交渉のテーブルだ。


 交渉は日本語で行った。エリスにも部下にも分からない言葉で話すことに、少しだけ後ろめたさがあった。


 だが社代の「稟議」「承認」「開発中止」という単語を聞くたび、二人ともこの世界へ来る前から、救いたいものを組織に阻まれてきたのだと分かった。争点の奥には、似た挫折があった。


「まず、共通の目的を確認しよう」俺は切り出した。「俺たちは、二人とも、より多くの人間を救いたい。違うか?」


「違わない」


「なら、対立してるのは目的じゃない。手段だけだ。そして手段の対立は、設計で解ける」


 俺は、紙に三つの箱を描いた。


────────────────


【レジャー】医薬品 開発・供給制度 構想(アラタ提案)


①開発報奨制度


新しい薬・治療法を発見した者に、同盟が発見報奨金を支払う


財源:加盟国の拠出+薬の販売収益の一部


→ 金は払う。ただし"独占"の対価ではなく、"公開"の対価として


②期限付き優先製造権


開発者に、5年間の優先製造権を認める(利益回収期間)


ただし──製造方法は同盟に開示・登録が必須


5年後、製法は公共財となり、誰でも作れる


③階層価格と供給義務


富裕層・貴族には高く、貧民には原価で供給する義務を負う


→ 金持ちが、貧しい者の薬代を払う構造


④適正使用の遵守義務


処方免許制・適応制限を守らぬ販売者は、①②の権利を剥奪


────────────────


 社代は、その図を、長いこと睨んでいた。


「……特許制度に、報奨金と、価格差別を組み合わせたのか」


「ああ。あんたの言う通り、タダ働きでは新薬は生まれない。だから金を払う。だが──その金は、"独占して吊り上げた価格"からじゃなく、"公開したことへの報酬"から出す」


 俺は、続けた。


「そして、これはあんたにとっても、遥かに儲かる話だ」


「……なに?」


「今のあんたの商売は、いつまで持つ? 一年か、二年か。──製法は、いずれ誰かに真似される。あんたには特許庁も裁判所もない。真似された瞬間、価格は暴落し、あんたの独占は終わる。あんたは今、"逃げ切り"の商売をしている」


 社代の眉が、動いた。


「だが、この制度に乗れば──あんたは同盟公認の第一号開発者になる。五年間の優先製造権が、法と軍事力で守られる。報奨金が入る。そして五年後には、次の薬でまた稼げばいい。……制度に守られた開発者は、無法の独占商人より、遥かに長く儲かる」


「………」


「社代さん。あんたは製薬会社にいたなら分かるはずだ。製薬企業を守っているのは、企業の力じゃない。特許制度という"社会の約束"だ。その約束が無い世界で独占ごっこをしても、それはただの博打だ」


 長い沈黙が落ちた。


 やがて社代は、疲れたように、背もたれに沈み込んだ。


「……くそ。MBAホルダー同士の交渉ってのは、やりにくいな」


「同感だ」


「……一つだけ、言わせてくれ」彼は、天井を見上げた。「俺が独占にこだわった理由、もう一つあるんだ」


「?」


「怖かったんだよ」


 彼の声が、初めて、素の四十二歳の男のものになった。


「日本で俺は、部長止まりだった。会議で潰され、上に潰され、俺が推したプロジェクトが何度も葬られた。俺は、何も世に出せないまま、会議室で死んだんだ」


 俺は、黙って聞いた。


「この世界に来て、初めて俺の判断が通った。俺の作った薬が、直接人を救った。……必要とされる感覚が、麻薬みたいだった。手放したくなかった。独占をやめたら、また"誰でもない誰か"に戻る気がして」


 俺は、しばらく考えて、言った。


「──戻らないさ」


「?」


「あんたが手放しても、記録に残る。"この薬を最初にこの世界にもたらしたのは、社代康介である"と。同盟の記録網は、それを永久に消さない。……俺の作った仕組みは、誰の功績も、消さないように作ってある」


 社代の顔が、歪んだ。


 彼は、両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。


 そして──掠れた声で、言った。


「……剣崎さん。日本語で話せるやつが、この世界にあんたしかいなくて、良かったよ」


「同感だ」俺は笑った。「──で、返事は?」


 彼は、顔を上げた。目が赤かったが、その口元には、事業家の笑みが戻っていた。


「乗った。だが条件がある。──その報奨制度、設計を俺にやらせろ。あんたは臨床が本業だろ。制度設計と資金調達は、俺の専門だ」


「……願ってもない」


 こうして、大陸医療同盟に、医薬開発局が設立された。初代局長、社代康介。


 だが──二人の日本人が握手を交わしたその頃、既に、災いは南の港町で芽吹いていた。


 社代が一年間ばら撒いた、粗悪な白い粉。それが選び抜いてしまった、薬の効かない菌が。


 (――薬が効かなくなる、という現象がある)


 (前世では、それを「耐性」と呼んだ)


 (そして俺は、社代がばら撒いた一年間が、何を選び残したのかを――この時、まだ計算していなかった)


 第36話「効かない薬」へ続く


 交渉の途中、社代がふと言った。


「……あんた、俺を殴りに来たんじゃないんだな」


「殴っても、薬は増えない」


「そうか」彼は笑った。ひどく下手な笑い方だった。「――俺、この世界に来て初めてだ。まともに議論してもらえたの」


 その一言で、俺はこの男が、前世でどれだけ孤独だったかを理解した。




【今回のカルテ】


開発インセンティブ:公開性と、発明者が次の開発を続けられる報酬を両立する。


【たとえるなら】開発報奨金とは、"発明した人に一番乗りの席は用意するが、道路そのものは塞がせない"という約束のこと。


【次回】第36話「効かない薬 ― 港町の異変」

 白き粉が、効かない。大陸で最も薬を使った町から、悪夢は始まる。


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