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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

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第33話 青いカビの奇跡と、恐ろしい未来


【今回の要点】人類が「効く薬」を手にした日、同時に「効かなくなる日」への時計も動き出す。




 以前、御者が笑って言った戯言を覚えているだろうか。


 「北の連中はな、腐ったパンの青カビを傷に貼るんだと。野蛮だろ」


 ――あれは、戯言ではなかった。


 培地に青い斑点が広がった夜のことを、俺は一生忘れないだろう。


 獣脂の灯りの下、ミカゲと二人、椀の中の小さな青緑を覗き込んでいた。


「……先生。これ、ただのカビですよ」


「ああ」俺は笑った。声が、みっともなく震えていた。「このただのカビが、これから何十万人を助ける」


 イルガの民のもとで、俺たちは冬を越した。


 シャーニは、少しずつ心を開いた。彼女の知識は、驚くべきものだった。凍傷の段階的な処置。栄養不足による病の見分け方。出産時の異常への対処。そして──あの、青緑のカビ。


 俺は、ミカゲと共に、カビの培養と精製に取りかかった。


 最初の培地に青い斑点が広がった夜、俺たちは子供のように喜んだ。


 その翌朝、俺は培養棚に鍵を三つ付けた。


 人類を救う薬は、同じだけ大きな誤用の可能性を生む。希望を見つけた瞬間から、恐ろしい未来まで設計する。それが、前の世界から持ち込むべき責任だった。


「学長、これは何を作っているのですか」


「膿む病を、根本から殺す薬だ」俺は答えた。「この世界にはまだ無い。あれば──戦場の傷でも、産後の熱でも、肺の病でも、死ぬ人間が桁違いに減る」


 半年をかけて、俺たちは粗い抽出液を得た。エリスの光では届かない、深部感染の患者に試した結果は──劇的だった。


────────────────


【アナリティクス】抽出物 臨床応用 第1報 n=34


対象:重症の化膿性疾患/敗血症


生存率:無投与時の推定 21% → 投与群 78%


有害事象:発疹 3件、重篤なアレルギー反応 1件(要注意)


判定:革命的な有効性


────────────────


 俺は、その数字を前に、しかし手放しでは喜べなかった。


「……ミカゲ。この薬には、恐ろしい未来がある」


「恐ろしい、未来?」


「聞け。この薬は、細菌を殺す。だが──全部は殺せない。生き残った、たまたま強い菌が、次の世代を作る。それを何度も繰り返すと、いずれこの薬が全く効かない菌が生まれる」


「……そんな」


「前の世界では、これを薬剤耐性と呼んだ」俺は、遠い記憶を辿って言った。「俺の世界では、この薬が発見されてから百年もしないうちに、効かない菌が世界中に広がった。理由は、ただ一つ」


 俺は、板に書いた。


〈必要のない人に、必要のない量を、必要のない期間、使いすぎたから〉


「風邪──ウイルスの病には、この薬は一切効かない。なのに『念のため』と使う。途中で良くなったからと、飲むのをやめる。すると中途半端に生き残った菌が、強くなる。……人類は、最高の薬を、自分たちの手で使い潰しかけた」


 俺は、ミカゲとエリスの目を、真剣に見た。


「だから、この薬を世に出すには、薬そのものより先に、"使い方の掟"を作らねばならない」


────────────────


【レジャー】抗菌薬 管理制度 構想(世界初)


①適応の限定:細菌による感染が明確な場合のみ。風邪などには禁止

 〈適応=その薬を使ってよい場面のこと。細菌には効くが、風邪の原因には効かない〉


②完遂の原則:処方された期間は、症状が消えても最後まで飲み切る


③処方免許制:同盟認定医のみが処方可能


④使用量の監視:地域ごとの使用量を記録網で追跡し、過剰使用地域を検出


⑤耐性菌の監視:効かない症例を全て報告させ、耐性の出現を早期に察知

 〈耐性菌=その薬が効かなくなった菌。薬を使いすぎるほど生まれやすい〉


理念:「この薬は、我々の世代のものではない。百年後の子孫からの、預かり物である」


────────────────


「百年後の……子孫からの、預かり物」エリスが、その言葉を繰り返した。


「ああ」俺は頷いた。「俺たちが今、目の前の患者を救うために乱用すれば──百年後、誰かの子供が、ただの擦り傷で死ぬ。……医療ってのは、目の前の一人と、まだ生まれていない誰かの、両方を天秤にかける仕事だ」


 シャーニが、天幕の入り口で聞いていた。彼女は、静かに言った。


「……我らは、あのカビを"聖なる贈り物"と呼び、年に数度しか使わぬ掟を守ってきた。理由は忘れられていたが──祖先は、知っておったのかもしれぬな」


 その時。


 天幕の外から、荒い息の音がした。


 南から、四十日かけて追ってきた同盟の伝令が、雪の中に倒れ込んだのだ。


「けん、ざき、さま……ご報告が……!」


 伝令は、震える手で書状を差し出した。


「南で、新しい"医神"が現れました」


「……なんだと?」


「聖医ヤシロと名乗る男です。あらゆる病を治す"奇跡の薬"を売り、貴族から民まで、熱狂的に支持されています。──ですが、その薬は法外に高く、彼の商会以外は誰も作れず……同盟の医師が処方を批判すると、"時代遅れ"と嘲笑され、患者が離れています」


 俺は、書状を開いた。そこには、その男の触れ込みが記されていた。


〈万病に効く白き粉。聖医ヤシロが、異界の知恵をもって作り出せし奇跡〉


──異界の知恵。


 俺の背中を、氷よりも冷たいものが走った。


 (……まさか。──もう一人、いるのか)


 だがその夜、俺は眠れなかった。


 (前世で、この薬は八十年で効かなくなり始めた)


 (俺は今、この世界に、同じ八十年の時計を持ち込もうとしている)


 ――光を渡すなら、影の扱い方も一緒に渡さなければならない。


 毛皮にくるまりながら、俺は暗い天幕の天井を、朝まで見上げていた。




【今回のカルテ】


抗菌薬:細菌感染を治療する一方、アレルギーや耐性化にも注意が要る。


【たとえるなら】抗菌薬は"よく切れる刃物"。切れ味を長く保つには、使う場面と回数をあらかじめ決めておくしかない。


【次回】第34話「もう一人の転生者」

 「異界の知恵」を名乗る男。彼は悪人ではない。だからこそ、最も厄介な相手だった。


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