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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

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第32話 治さない、という選択


【今回の問い】あなたの治療は、正しい。だが患者の家族は、それを拒んでいる。

 ――押し通すことは、医療か。




 この世界に来て、最も難しい判断だった。


 正しい治療を、"しない"という判断である。


 天幕の中は、獣脂の灯りで橙色に染まっていた。


 毛皮の壁。中央の炉。その傍らで、汗と熱に浮かされた子どもが、浅い息を繰り返している。


 俺の手には、この子を助けられる技術がある。


 そして俺の前には、それを拒む一人の老女がいる。


「シャーニ殿」俺は、静かに言った。「一つだけ、聞かせてください。──あなたの儀式で、この病の子は、これまで何人助かりましたか」


 シャーニの目が、揺れた。


「………」


「答えなくていい。俺には分かる。助かる子もいた。助からない子もいた。そうでしょう」


「……お前に、何が分かる」


「分かりますよ」俺は、火を見つめて言った。「俺も、同じ経験を数えきれないほどしてきた。助けられなかった子の顔は、何年経っても消えない」


 シャーニの肩が、微かに震えた。


 俺は、その場に座り込んだ。処置には向かわず、火の傍に。


 身体中の外科医が「今すぐ動け」と叫んでいた。待つことは、処置をするより何倍も苦しい。


 それでも、ここでシャーニを押しのけて一人を救えば、次の百人は俺たちを拒む。信頼を計算に入れることは冷酷ではない。長く救い続けるための、最も人間的な臨床判断だった。


「──あなたが決めてください」


「なに?」


「俺は、勝手に手を出さない。この子の身体は、この子と母親のものだ。そして、この民の掟の中にある。俺が力ずくで治せば、命は助かるかもしれない。だが、あなた方は二度と、南の人間を信じない。……そして次の冬、俺がいない時に、また子供が死ぬ」


 俺は、母親を見た。


「代わりに、説明はさせてください。何が起きているか、俺には何ができるか、そして何ができないか。──知った上で、あなた方が選ぶ。それが、俺の流儀です」


 俺は、母親の目線までかがんだ。


「お母さん。この子の胸の中で、空気の通り道が、粘っこいもので狭くなってる。だから息が苦しい。──これは、病そのものを消す薬は、俺にもない。だが、楽にすることはできる。温かい湯気を吸わせ、鼻の詰まりを取り、少しずつ水を飲ませる。息をしやすい姿勢に保つ。それだけで、多くの子は自分の力で治る」


 母親の唇が、震えた。


「……治るの? 本当に?」


「約束はできない。でも、俺が診てきた同じ病の子は、十人のうち九人が助かった。何もしなければ──もっと減る」


 俺は、シャーニを見上げた。


「シャーニ殿。あなたの儀式を、止めろとは言わない。歌ってください。祈ってください。母親の心を支えるのは、あなたにしかできない仕事だ。──俺は、湯気を沸かす係でいい」


 長い、長い沈黙。


 やがてシャーニは、赤子を抱いた母親の肩に手を置き、絞り出すように言った。


「…………湯を、沸かせ」


 その夜、天幕の中では、二つのことが同時に行われた。


 シャーニの、低く美しい癒しの歌。そして、俺とエリスが用意した、薬草を煮立てた蒸気。母親は歌に支えられ、赤子は湯気の中で、少しずつ呼吸を楽にしていった。


 夜明け前、赤子はごくりと乳を飲んだ。


 母親が、泣き崩れた。シャーニは、天幕の外に出て、白い息を吐きながら空を見ていた。


 俺は、彼女の隣に立った。


「……お前は、変な男だ」彼女が言った。「南の"医神"と聞いて、我らの掟を踏み潰しに来ると思うておった」


「医療ってのは、身体だけを扱う仕事じゃないので」


「………」


「病を治しても、その人の生きる場所や誇りを壊したら、それは治療とは言わない。前の世界で、俺はそういう失敗を、山ほど見てきました」


 シャーニは、しばらく黙っていた。そして、彼女は懐から、小さな革袋を取り出した。


「……見ろ」


 中には、乾いた植物と──青緑色の、カビの生えた何かが入っていた。


「傷が膿んだ時、我らはこれを貼る。そうすると、膿が引く」


 俺の心臓が、跳ねた。


 (──青緑色のカビ。……まさか)


「シャーニ殿。それ、いつから使ってるんですか」


「知らぬ。我らの祖母の、そのまた祖母からよ」


 俺は震える手で、それを受け取った。「アナリティクス」が、勝手に走り出す。


────────────────


【アナリティクス】検体:イルガの民の伝統的創傷貼付剤


主成分:青カビ属の菌糸体(乾燥保存)

推定作用:細菌の増殖を選択的に阻害する物質を産生

 〈人の細胞は傷つけず、菌だけを狙って増殖を止める物質を、このカビが作り出している〉

──抗菌物質アンチバイオティックの可能性・極大

 〈抗菌物質=感染症を内側から治す薬。前世で「奇跡の薬」と呼ばれたものの正体〉


特記:大陸のいかなる医学書にも記載なし


────────────────


 俺は、天を仰いだ。


 (……ペニシリン。この世界には、まだ影も形もなかった、感染症治療の切り札。それを、地図の外側の、記録すらされていない民が──何百年も前から、経験だけで見つけていた)


「シャーニ殿」


 俺は、雪の上に膝をつき、この北の癒し手に、深く頭を下げた。


「──教えてください。俺に、あなたの医術を」


 ――地図の外側には、何もないと思っていた。


 とんでもない。


 そこには、大陸の医学が数百年遅れている領域が、たった一つだけ、存在した。



【今回のカルテ】


共同意思決定:治療者と患者・家族が、情報と価値観を共有して選ぶ。


【たとえるなら】共同意思決定とは、医者が地図を広げ、患者と家族が行き先を決めること。どちらか一方だけでは、必ず道に迷う。


【次回】第33話「青いカビの奇跡と、恐ろしい未来」

 青緑のカビ。それはこの世界を救う切り札であり、同時に、最悪の未来への扉でもある。


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