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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

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第31話 地図の外側で


【第四章・開幕/ここまで】

 追放、疫病、同盟、毒、そして継承。残された問いは、ただ一つ。

 ――記録されない場所で死んでいく人を、どうやって数えるか。



 地図の空白は、「何もない」という意味ではない。


 「誰も数えていない」という意味だ。


 北へ進むほど、記録が薄くなっていく。


 診療所の数が減り、やがて村の名が地図から消え、最後には地図そのものが白くなる。


 その白さの中で、俺はずっと同じことを考えていた。


 ――ここで死んだ人間は、何人だ。誰も、答えられない。


 北へ、二十日。


 雪原を越え、氷の張った川を渡り、俺たちは大陸の地図が途切れる場所に立っていた。


 同盟の記録網が「空白」として示す領域。誰も数えたことのない土地。誰も、そこで死んだ人間の名を知らない土地。


 雪は、音を吸う。


 風の音すらしない。聞こえるのは自分の呼吸と、雪を踏む音だけだ。まつ毛が凍り、瞬きのたびに小さく音を立てる。


「……本当に、何もないですね」ミカゲが白い息を吐いた。


「いや」俺は首を振った。「"何もない"んじゃない。"記録されていない"だけだ。人は必ず、いる」


 三日後、俺たちは彼らを見つけた。


 イルガの民。氷原に生きる、三百人ほどの遊牧の民。トナカイに似た獣を追い、皮の天幕で暮らす人々だ。


 彼らは、俺たちを歓迎しなかった。当然だ。南から来た者は、これまで税を取りに来るか、毛皮を安く買い叩きに来るかのどちらかだったのだから。


 エリスが小声で言った。


「治す前に、奪わないでください。彼らの誇りも、決める権利も」


「分かってる」


 だが本当は、分かっているつもりになっていただけかもしれない。医学が正しいからといって、他者の暮らしへ無断で入る権利まで得られるわけではない。


 だが、俺は一つだけ、彼らが無視できないものを持っていた。


 エリスの光である。


 天幕の入り口で凍傷の子供に彼女が触れ、赤黒く変色した指先が痛みを失ったとき、集まった人々がどよめいた。


 その夜、俺たちは長老の天幕に招かれた。


 そして──そこで、彼女に会った。


「その光は、認めよう。だが、お前たちの"知識"とやらは、この地には要らぬ」


 天幕の奥、火の傍に座っていたのは、一人の女性だった。歳は五十ほど。顔に藍色の刺青を入れ、獣骨の首飾りをつけている。


「シャーニ。イルガの民の、"癒し手"だ」長老が紹介した。


 俺は、頭を下げた。「剣崎アラタ。南から来た、医者です」


「知っている」シャーニの目は鋭かった。「南で"医神"と呼ばれる男だろう。──病を数え、人を切り、記録を作る男」


「……よくご存知で」


「南から逃げてきた者がいる。彼は言った。『あの男は、村の全てを紙に書き取った』と」彼女の声が、低くなった。「我らの民は、名を紙に書かれることを嫌う。数えられた民は、次に税を取られ、その次に土地を奪われる。──それが、北の歴史だ」


 (……刺さるな。これは、正論だ)


 俺は、前世を思い出していた。医療統計も、疫学調査も、時に権力の道具として使われてきた歴史がある。善意の記録が、支配の道具になることを、この人は経験として知っているのだ。


「なるほど」俺は素直に頷いた。「では、記録は作りません」


「……なに?」


「あなた方が望まないなら、名前は書かない。集計もしない。──俺の仕組みは、あなた方の同意の上でしか動かさない」


 シャーニが、初めて眉を動かした。


「……ならば、何をしに来た」


「教えてもらいに」


「は?」


「この土地には、俺の知らない病があるはずだ。そして──あなたには、俺の知らない治療があるはずだ」俺は、まっすぐに彼女を見た。「三百人が、医者なしで氷原を生き延びている。それは奇跡じゃない。あなたの技が、本物だからだ」


 火が、ぱちりと爆ぜた。


 シャーニは、長いこと俺を見つめた。そして、ふん、と鼻を鳴らした。玄斎とそっくりの仕草だった。


「……口の上手い男よ」


 だがその時、天幕の外が騒がしくなった。若い母親が、赤子を抱いて飛び込んできたのだ。


 赤子は、ぐったりとして、激しく喘いでいた。


────────────────


【VINDICATE】対象:乳児(生後8ヶ月)


呼吸数 70 〈乳児としても異常に速い。息をするだけで力尽きかけている〉

陥没呼吸(+) 〈息を吸うたび、肋骨の間がへこむ〉

喘鳴(+) 〈息にヒューヒューと音が混じる〉

脱水中等度 〈飲めないため、体の水分が足りていない〉


最有力:細気管支炎+二次性脱水 〈肺の細い気道の炎症と、それに伴う水分不足〉


予後:適切な支持療法で救命可能。無処置なら、48時間以内に危険


────────────────


「──呼吸が苦しくて、水も飲めていない。すぐに処置を」


 俺が動こうとした瞬間、シャーニが立ちはだかった。


「待て」


「!?」


「この子は、イルガの子だ。癒すのは、我らの儀式だ。お前の手は、要らぬ」


 天幕の空気が、凍りついた。


 母親が、俺とシャーニを交互に見て、震えている。


──俺は今、この世界で最も難しい岐路に立たされていた。


 目の前の命を、力ずくで救うか。それとも、この民の誇りを、尊重するか。




【今回のカルテ】


文化的安全性:正しい治療でも、相手の価値観と決定権を奪ってはならない。


【たとえるなら】文化的安全性とは、正しい薬を持って人の家へ上がる時、きちんと靴を脱ぐこと。薬が正しくても、土足なら追い出される。


【次回】第32話「治さない、という選択」

 正しい治療が、常に正しいとは限らない。そして北の癒し手は、アラタが喉から手が出るほど欲しかったものを持っていた。


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