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聖女様、その回復魔法では患者が死にます ~45歳の外科医が異世界転生したら、チートは『診断』『統計』『経営』でした~  作者: 東雲 諒杏
第四章 地図の外側で(第31〜40話+エピローグ)

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幕間III ヴィオラ皇女の百八十日 ― 薬をやめるということ


【この話について】第28話〜第29話の裏側。皇女ヴィオラが甘眠散を断つまでの百八十日を、彼女自身の視点で描きます。




 最初は、頭痛の薬だった。


 執務が三日続いた夜、侍医が「東方の妙薬にございます」と持ってきた。


 白い粉。絹のようにきめ細かく、光を含んで見えた。


 舐めると、少し甘かった。


 ――そして、頭痛が消えた。


 消えた、という言い方では足りない。世界の輪郭が、やわらかくなったのだ。


 書類の山が、山でなくなった。父帝の顔色を窺う必要も、なくなった気がした。


 私は思った。なんだ。私はずっと、こんなに簡単に楽になれたのか、と。


 三月後には、朝、目が覚めた瞬間に手が伸びるようになっていた。


 半年後には、粉がないと文字が読めなくなった。


 一年後――私は、自分が何のために皇女をしているのか、思い出せなくなっていた。


 剣崎アラタが皇宮に踏み込んできた日のことは、断片しか覚えていない。


 覚えているのは、彼が怒鳴らなかったことだ。


 私を叱らなかった。恥じ入らせもしなかった。


 彼はただ、私の脈を取り、瞳を覗き、呼吸を数えて、こう言った。


「今すぐは止めません。止めたら、あなたが死ぬ」


 私は、笑ったと思う。ひどい笑い方だったろう。


「……皇女が、薬に負けたのだぞ。裁かぬのか」


「裁く仕事は、俺のじゃない」彼は言った。「俺の仕事は、あなたを百八十日後に、この部屋から歩いて出すことです」


 百八十日。


 私は、その数字を憎んだ。


 最初の三十日は、地獄だった。


 汗が止まらない。骨の内側が痒い。眠れない。眠ると、悪夢の中で誰かが私の名を呼び続ける。


 私は三度、逃げようとした。三度とも、扉の前にミカゲという娘が座っていた。


 あの娘は、私を止めなかった。


 ただ、こう言った。


「行っていいですよ。でも、戻ってくるまで、ここで待ってます」


 ――私は、行けなかった。


 六十日目。減らす量を、また少し減らした。


 九十日目。私は初めて、粉のことを考えずに一日を終えた。夜、そのことに気づいて、泣いた。


 百二十日目。父帝が見舞いに来た。私は、父の目をまっすぐ見て話すことができた。


 百五十日目。私は執務室に戻った。書類の山は、ちゃんと山に見えた。


 ――そして百八十日目。


 私は、自分の足で寝室の扉を開けた。


 廊下で待っていた剣崎は、大袈裟に喜んだりしなかった。


 ただ、記録簿に一行、書き込んだだけだ。


「〈症例:ヴィオラ・アルデバラン。転帰、離脱成功。所要百八十日〉」


「……それだけか」


「それだけです」彼は顔を上げた。「あなたは、これで"できた例"になった。次に同じ病になった誰かは、あなたの百八十日を読んで、"できるのか"と思える。──それが、あなたが帝国にした一番大きな仕事です」


 私は、その言葉を生涯忘れない。


 私は、恥を記録された。


 そして、その恥が、誰かの希望になると言われた。


 ――だから私は、この記録の公開を、自ら許可した。


 帝国第三皇女ヴィオラ・アルデバランは、薬に負けた。


 そして、百八十日かけて、勝ち直した。


 どうか、あなたも。




【今回のカルテ】


依存からの離脱は、意志ではなく設計で成し遂げる。減らす速度、そばにいる人、そして戻ってきていい場所。この三つが要る。


【たとえるなら】依存からの離脱は、崖から飛び降りることではなく、階段を一段ずつ降りること。急げば落ちる。降りきるには、手すりと、待っている人が要る。


【次回】第31話「地図の外側で」から、最終部が始まります。

 大陸の地図が途切れる場所へ、医神は自ら踏み込みます。


<第3部・完>

 第3部は「仕組みが人を殺し、それでも仕組みを捨てなかった男」の物語でした。

 最終部『地図の外側編』では、アラタ自身が患者になります。


# 【最終部】地図の外側編(第31〜40話+エピローグ+幕間IV)


ここから読み始めても大丈夫です。


前提:主人公は「自分がいなくても回る医療」を作り終えた外科医。

残された問いは一つ――記録されない場所で死んでいく人を、どう数えるか。


地図の外側の民、青いカビ、もう一人の転生者、薬剤耐性菌。

そして最後に、医神は自らの心臓を、弟子たちに預けます。


読みどころ:文化と医療/抗菌薬/転生者同士の交渉/師弟の集大成/完結


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