幕間III ヴィオラ皇女の百八十日 ― 薬をやめるということ
【この話について】第28話〜第29話の裏側。皇女ヴィオラが甘眠散を断つまでの百八十日を、彼女自身の視点で描きます。
最初は、頭痛の薬だった。
執務が三日続いた夜、侍医が「東方の妙薬にございます」と持ってきた。
白い粉。絹のようにきめ細かく、光を含んで見えた。
舐めると、少し甘かった。
――そして、頭痛が消えた。
消えた、という言い方では足りない。世界の輪郭が、やわらかくなったのだ。
書類の山が、山でなくなった。父帝の顔色を窺う必要も、なくなった気がした。
私は思った。なんだ。私はずっと、こんなに簡単に楽になれたのか、と。
三月後には、朝、目が覚めた瞬間に手が伸びるようになっていた。
半年後には、粉がないと文字が読めなくなった。
一年後――私は、自分が何のために皇女をしているのか、思い出せなくなっていた。
剣崎アラタが皇宮に踏み込んできた日のことは、断片しか覚えていない。
覚えているのは、彼が怒鳴らなかったことだ。
私を叱らなかった。恥じ入らせもしなかった。
彼はただ、私の脈を取り、瞳を覗き、呼吸を数えて、こう言った。
「今すぐは止めません。止めたら、あなたが死ぬ」
私は、笑ったと思う。ひどい笑い方だったろう。
「……皇女が、薬に負けたのだぞ。裁かぬのか」
「裁く仕事は、俺のじゃない」彼は言った。「俺の仕事は、あなたを百八十日後に、この部屋から歩いて出すことです」
百八十日。
私は、その数字を憎んだ。
最初の三十日は、地獄だった。
汗が止まらない。骨の内側が痒い。眠れない。眠ると、悪夢の中で誰かが私の名を呼び続ける。
私は三度、逃げようとした。三度とも、扉の前にミカゲという娘が座っていた。
あの娘は、私を止めなかった。
ただ、こう言った。
「行っていいですよ。でも、戻ってくるまで、ここで待ってます」
――私は、行けなかった。
六十日目。減らす量を、また少し減らした。
九十日目。私は初めて、粉のことを考えずに一日を終えた。夜、そのことに気づいて、泣いた。
百二十日目。父帝が見舞いに来た。私は、父の目をまっすぐ見て話すことができた。
百五十日目。私は執務室に戻った。書類の山は、ちゃんと山に見えた。
――そして百八十日目。
私は、自分の足で寝室の扉を開けた。
廊下で待っていた剣崎は、大袈裟に喜んだりしなかった。
ただ、記録簿に一行、書き込んだだけだ。
「〈症例:ヴィオラ・アルデバラン。転帰、離脱成功。所要百八十日〉」
「……それだけか」
「それだけです」彼は顔を上げた。「あなたは、これで"できた例"になった。次に同じ病になった誰かは、あなたの百八十日を読んで、"できるのか"と思える。──それが、あなたが帝国にした一番大きな仕事です」
私は、その言葉を生涯忘れない。
私は、恥を記録された。
そして、その恥が、誰かの希望になると言われた。
――だから私は、この記録の公開を、自ら許可した。
帝国第三皇女ヴィオラ・アルデバランは、薬に負けた。
そして、百八十日かけて、勝ち直した。
どうか、あなたも。
【今回のカルテ】
依存からの離脱は、意志ではなく設計で成し遂げる。減らす速度、そばにいる人、そして戻ってきていい場所。この三つが要る。
【たとえるなら】依存からの離脱は、崖から飛び降りることではなく、階段を一段ずつ降りること。急げば落ちる。降りきるには、手すりと、待っている人が要る。
【次回】第31話「地図の外側で」から、最終部が始まります。
大陸の地図が途切れる場所へ、医神は自ら踏み込みます。
<第3部・完>
第3部は「仕組みが人を殺し、それでも仕組みを捨てなかった男」の物語でした。
最終部『地図の外側編』では、アラタ自身が患者になります。
# 【最終部】地図の外側編(第31〜40話+エピローグ+幕間IV)
ここから読み始めても大丈夫です。
前提:主人公は「自分がいなくても回る医療」を作り終えた外科医。
残された問いは一つ――記録されない場所で死んでいく人を、どう数えるか。
地図の外側の民、青いカビ、もう一人の転生者、薬剤耐性菌。
そして最後に、医神は自らの心臓を、弟子たちに預けます。
読みどころ:文化と医療/抗菌薬/転生者同士の交渉/師弟の集大成/完結




