第3話 聖女の祈りと、四センチの境界線
【今回の症例】腹の激痛、五日間。宮廷医も神官も治せない。聖女の回復魔法は、十二回、効かなかった。
効かないのには、たったひとつの理由がある。
人生で最も危険な発言をする前、俺は必ず自分の脈を数える。
脈が乱れていなければ、その発言は感情ではなく、判断だ。
――脈拍、七十二。
◇
王宮の寝室に入った瞬間、鼻が悲鳴を上げた。
香を焚きすぎている。祈祷用の白檀が天井近くで層になって漂い、その下に、隠しきれないものが沈んでいた。
――膿と、脂汗と、尿の匂い。
病室の匂いを、香で覆い隠そうとする文化。それだけで、この国の医療のすべてが分かった。
天蓋付きのベッドには、第二王女ソフィア。
脂汗を流し、左の下腹部を押さえて呻いている。発症から、五日。並みいる宮廷医と神官が、なすすべなく立ち尽くしていた。
そして枕元には、白と金の法衣をまとった女性がひとり。
金色の髪。凛と張り詰めた、それでいてどこか疲弊した横顔。
王国教会の筆頭聖女──エリス。
十二度目の祈りだというのに、その横顔に傲慢さはなかった。
あったのは、救えない理由を誰にも教えてもらえない者の疲労と、王女を失うことへの恐怖だけだ。
だからこそ、俺は彼女を責めるのではなく、止めなければならない。
「大いなる光よ……ハイ・ヒール」
まばゆい光が、王女を包む。
だが。
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【VINDICATE】対象:ソフィア王女(11)
体温39.2℃/脈拍122/血圧低下傾向 〈熱が高く、脈が速く、血圧が下がり始めている〉
左下腹部限局痛、反跳痛(+)
〈反跳痛=押した手を離した瞬間に、より強く痛む。腹の中で炎症が起きている証拠〉
V血管性:△ I感染性:◎ N腫瘍性:△……
〈原因の種類を頭文字で並べ、可能性の高いものに印をつける絞り込み表。今回は「感染」が最有力〉
最有力:腹腔内膿瘍形成 〈腹の中に、膿の詰まった袋ができている〉
膿瘍径:5.2cm ── 閾値4cm超過
〈四センチを超えた膿の袋は、体の力では吸収しきれない〉
魔法・薬物での治癒:不可。ドレナージ必須
〈ドレナージ=針や管を刺して、中身を外へ抜くこと〉
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(……四センチの境界線、か)
膿の袋が小さければ、身体は自力で吸収できる。だが四センチを超えると、外へ出す以外に道はない。
これは信仰の問題ではない。物理の問題だ。
俺は、進み出た。
「聖女様。その光、何度かけました?」
エリスの菫色の瞳が、鋭く俺を射抜く。
「……五日間で、十二回。書記官風情が、何の用ですか」
「十二回かけて、熱が下がらない。なぜだと思います?」
「王女殿下の……お苦しみが、それだけ深い呪いだからです」
「違う。呪いなんてものは、この世に存在しない」
室内が、凍りついた。俺は構わず続ける。
「殿下の腹の中には、膿の袋がある。直径、五センチ。あんたのヒールは組織の再生を早める素晴らしい魔法だ。──だが、再生した組織はその袋に蓋をする。膿は外に出られず、毒は血に回る」
俺は、彼女の目を見た。
「つまり聖女様。あんたは善意で、殿下の容態を悪化させている」
「──無礼者ッ!!」
神官長が吼えた。
だがエリスは、動かなかった。その指先が、微かに震えていた。
「……もし。もし、貴方の言う通りだとして。どうするのです。聖なる御身体に、刃を?」
「刃じゃない。針だ」
俺は、指を一本立てた。
「太い針を一本、袋に刺して、悪いものを全部抜く。それだけで殿下は今夜、眠れるようになる」
俺はエリスの目を、まっすぐ見た。前世で何千回も繰り返した、インフォームド・コンセントの姿勢で。
「聖女様。あんたの一番の望みは、教義を守ることか? それとも──この子が助かることか?」
長い、長い沈黙。
やがてエリスは目を伏せ、囁くように言った。
「………手を、清めなさい。私が、見届けます」
◇
処置は、三分で終わった。
突き立てた針から、悪臭を放つ膿が噴き出す。神官たちの悲鳴。
そして──みるみる和らいでいく、王女の表情。
王女ソフィアは、十一歳だった。
五日間、彼女は一度も泣かなかったという。「王家の者は、痛みを人に見せてはならぬ」と教えられていたからだ。
膿が噴き出したその瞬間、その子はようやく、年相応の顔で泣いた。
「…………痛くない。お腹が、熱くない……」
その夜、王女ソフィアは、五日ぶりに深く眠った。
俺は廊下で、壁にもたれて座り込んだ。手が、少し震えていた。
(……久しぶりだな、この感覚は)
二十年やっても、慣れることはない。人を救った後には、必ず、遅れて恐怖が来る。
もし違っていたら。もし針が別の場所を突いていたら。
その恐怖が来なくなった医者から、順に人を殺し始める。
◇
だが翌朝、俺を待っていたのは感謝状ではなかった。
王宮に響き渡ったのは、神官長の怒声だった。
「王族の御身体を刃物で穢した大罪人、剣崎アラタを捕らえよ!!」
牢へ引き立てられながら、俺は考えていた。
(正しさは、それ自体では人を救わない)
(救うのは、正しさを"通す仕組み"の方だ)
――なら、作るしかない。この世界に、まだ存在しないそれを。
【今回のカルテ】
膿瘍とドレナージ:膿の袋が大きい場合、針や管で排出する処置が必要になる。
【たとえるなら】膿の袋は、風船に溜まった汚水である。外から治す力をいくら注いでも、袋そのものは消えない。針を刺して、抜くしかない。
【次回】第4話「追放される外科医、微笑む」
死罪、あるいは永久追放。判決を聞いたアラタは、なぜか笑った。「左遷先で新規事業を立ち上げるのは、二度目だ」




