第2話 ステータス画面に「カルテ」が表示される
【今回の症例】剣で斬られた傷を、神官が回復魔法できれいに塞いだ。傷口は、完全に閉じている。
だが三日後、その男は高熱を出して死にかけている。――何が起きたのか。
目を覚まして最初に理解したのは、「自分は死んだはずだ」という事実ではなかった。
この部屋の衛生状態が、最悪だということだった。
「アラタ様! お目覚めに……!」
耳元で響いた切羽詰まった声に、俺はゆっくりと瞼を開いた。
まず目に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井ではない。
石。むき出しの、削りっぱなしの石壁だった。
天井を走る配管もない。人工呼吸器の駆動音もない。モニターの電子音もない。
代わりに聞こえるのは、蝋燭の火が小さく揺れる音と、誰かのすすり泣き。
鼻をくすぐるのは消毒薬ではなく、古びた木材と獣脂の臭いだった。
寝台には藁。その藁の下には、去年の藁。
傍らには、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたメイド服の少女が立っていた。十五、六歳ほどだろうか。
「アラタ様……本当に、よかった……」
そこで俺は、自分の手を見た。
驚きより先に、その手が震えていないことを確認した。患者を前にした時に使える手か。俺にとっては、顔や名前より先に確かめるべきことだった。
(動く。感覚もある。なら、まだ医者はできる)
皺も、血管も、メスを握り続けてできた指の硬さも違う。紙と羽ペンを長く扱った、四十歳前後の手だ。二十年間使った、俺の手ではない。
大学病院で大動脈解離を起こし、死んだ。その後、別人の身体で目覚めた。
夢。薬物。せん妄。──どれも、この一貫した感覚を説明できない。
(転生、か。信じるには馬鹿げている。だが今ある仮説の中では、一番ましだ)
脈拍七十二、整。呼吸も意識も正常。身体は少し若返った程度で、中身との誤差は小さい。
「ここは……どこだ?」
掠れた声だった。だが言葉は、自然に出た。不思議なことに、この身体の言語を理解している。
「グランツ王国の王都でございます。アラタ様は施療院の書記官として働いておられましたが、三日前に突然倒れられて……」
施療院。つまり、病院のような施設か。
そこで俺は、この世界について二つ目のことを理解した。
――誰も、手を洗っていない。
少女の爪の間には、黒い汚れが詰まっている。寝台の脇の水差しには、薄い膜が張っていた。
情報を整理しようとした、その時だった。
視界の端で、光が走った。
ピッ。そんな電子音が聞こえた気がした。
次の瞬間、半透明のウィンドウが空中に展開した。まるで、高性能ARグラスの表示画面のように。
しかも、異様なほど見慣れている。
カルテだった。
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【固有スキル鑑定】
■ 魔眼〈VINDICATE〉
対象を観察することで、生体情報・身体所見・鑑別診断候補を可視化する。
〈生体情報=体温・脈・血圧など、生きている状態を示す数値〉
〈鑑別診断候補=「この症状なら、この病気が疑わしい」という候補の一覧〉
ただし確定診断は不可能。問診、診察、追加情報による検証が必要。
〈=病名を断定してはくれない。話を聞き、体を診て、確かめるのは人間の仕事〉
■ 解析〈アナリティクス〉
観測した数値・記録を蓄積。集計・統計解析・予測モデル構築が可能。
データ量に比例して精度向上。
■ 商神の帳簿〈レジャー〉
資源・人員・資金の流れを可視化。最適配分を提示する。
■ 魔力:微弱(生活魔法レベル)
攻撃魔法:不可/回復魔法:不可
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「…………は?」
思わず声が漏れた。
攻撃魔法なし。回復魔法なし。火球も雷撃も、傷を一瞬で消す奇跡もない。
代わりにあるのは、診断、統計、経営。
だが〈VINDICATE〉は、病名を教える神託ではない。症状から候補を並べ、情報が増えるたびに可能性を更新する、診断支援装置だ。
つまり──前世で二十年鍛えた思考を、この世界でさらに速く、正確に使える。
「はは……」
思わず笑ってしまった。
「本当に、そのままかよ」
その瞬間だった。
廊下の向こうから、悲鳴が響いた。
「誰か!」「衛兵のガイルが!」「傷は塞がったのに、熱が下がらない!」
医師の反射だった。考える前に、身体が動いた。
◇
病室へ駆け込むと、一人の兵士がベッドの上で苦しげに呻いていた。
顔面蒼白。呼吸促迫。全身、汗だく。
明らかに危険な状態だ。
その傍らで、豪奢な法衣の神官が胸を張っていた。
「案ずるな。三日前、私がヒールを施した。傷は完全に閉じた。後は、神のご加護を祈るのみである」
その足を見た瞬間、〈VINDICATE〉が起動した。
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対象:ガイル(22) ※〈 〉内は、この画面が添える注釈である
体温 39.8℃ 〈平熱より約三度高い〉
脈拍 128 〈平常のおよそ二倍。心臓が必死に血を送っている〉
血圧 82/50 〈危険な低下。全身に血が行き渡っていない〉
病態:敗血症性ショック移行中
〈菌が血に乗って全身へ回り、血圧を保てなくなりかけている状態。数時間単位で死に至る〉
所見:
・閉鎖創内部に異物残留 〈塞がれた傷の中に、汚れが取り残されている〉
・嫌気性菌増殖 〈空気を嫌う菌が、蓋をされた傷の中で増えている〉
・捻髪音(+) 〈皮膚を押すと、中に溜まったガスがプチプチと鳴る〉
鑑別順位(疑わしい順)
①ガス壊疽 92% 〈筋肉が腐り、ガスを出しながら広がる、最悪の感染症〉
②重症軟部組織感染症 6% 〈皮膚の下の深い層で起きる、重い感染〉
③蜂窩織炎 2% 〈皮膚の浅い層の感染。比較的軽い〉
予測生存率 無処置:7%
〈このまま何もしなければ、十人のうち九人以上が死ぬ〉
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鳥肌が立った。
病名だけが表示されるわけではない。根拠まで出る。身体所見まで出る。しかも、鑑別順位付き。
(これは診断を代行する能力じゃない。診断を加速する能力だ)
そして俺の目は、既に問題の本質を見抜いていた。
(傷に、蓋をしたのか)
足を押す。皮下で、嫌な感触が伝わる。プチプチと、細かい泡を潰すような。
(中で、菌を培養してやがる……!)
「その足、今すぐ開くぞ」
部屋の空気が凍った。
「刃物と、酒と、火を持ってこい」
神官が顔色を変える。
「な……何だと!? せっかく神聖なる癒やしで塞いだ傷だぞ! 貴様、異端か!」
異端。それで結構だ。
前世でも、似たようなことは言われた。診断が常識を否定するとき、人は必ず怒る。
俺は神官を押しのけ、短剣を受け取り、炎で炙った。赤熱した刃先を見ながら、静かに告げる。
「異端で結構だ。──膿あるところ、切開あり。〈Ubi pus, ibi evacua〉。二千年前から変わらん、外科の鉄則だ」
刃を、振るう。
切開した瞬間、創部から黒ずんだ膿が噴き出した。腐臭が室内を満たし、周囲が悲鳴を上げる。
だが俺には、その臭いがむしろ希望に思えた。
――出てくるなら、救える。
洗浄。排膿。異物除去。そして、開放創管理。
◇
翌朝。ガイルの熱は、嘘のように下がっていた。
汗を拭いてやると、この大男は照れたように顔を背けた。
「……俺ぁ、まだ二十二だ。死にたくねえ」
声が震えていた。
三日前、神官に「祈りが足りぬからだ」と言われて以来、彼はずっと、自分の信心が薄いせいで死ぬのだと思い込んでいたらしい。
「あんたの信心は関係ない」俺は言った。「傷の中に、蓋をされた膿があっただけだ。悪いのは、あんたじゃない」
ガイルはしばらく天井を見て、それから、盛大に鼻をすすった。
これが、剣崎アラタによる異世界最初のコンサルトだった。
そして、この一件が王宮へ報告される。
俺はまだ知らない。この国で最も厄介な患者のもとへ、自分が呼び出されることを。
第二王女。その診察が、俺の運命を大きく変えることになる。
◇
――余談だが。
その夜、俺は試しに〈VINDICATE〉を、自分自身へ向けてみた。
像は、霞んで結ばなかった。
(対象外か。医者は自分を診られない。……冗談みたいな仕様だな)
俺は笑って、それきり忘れた。
この「忘れた」が、いつか自分の心臓を止めかけることになるとは、思いもせずに。
【今回のカルテ】
切開排膿:感染した傷は、ただ塞ぐのではなく、まず膿を外へ出す。
【たとえるなら】膿んだ傷を魔法で塞ぐのは、ゴミを外に出さないまま扉だけ閉めるようなもの。部屋の中で、腐敗だけが進んでいく。
【次回】第3話「聖女の祈りと、四センチの境界線」
王女の腹に、四センチを超える膿の袋。――回復魔法では、絶対に治らない大きさである。




