第1話 最終面接と、最後の症例
【本作について】全40話+幕間・エピローグ、完結済み。
主人公は四十五歳の外科医。攻撃魔法も万能回復も使えません。武器は『診断』『統計』『経営』の三つだけです。
医学の知識は一切不要です。謎を解く手がかりは、必ずその話の本文の中に置いてあります。
専門用語は、各話の後書きで「たとえるなら」と日常のたとえに言い換えます。
「聖女様。その回復魔法は、今すぐ止めてください」
白と金の法衣。組まれた祈りの手。そして、俺を睨みつける金色の瞳。
「──患者が、死にます」
異世界へ落ちて、ほどなく。俺は王女の寝室で、この国で最も逆らってはいけない相手に、そう言い放っていた。
なぜ、こんな場所に立っているのか。
順を追って話そう。まずは──俺が、死んだ夜から。
◇
医局には、いつも同じ匂いが漂っている。
消毒用アルコールと、冷めきったコーヒーと、誰かの汗。
二十年、俺はこの匂いの中で生きてきた。そして今夜、この匂いに別れを告げるつもりだった。
深夜一時。
その夜、俺は外科医を辞めると決めた。
三十分後、自分が死ぬ病名を、自分で診断することになるとも知らずに。
大学病院の医局で、俺──剣崎アラタ(45)は、静まり返った部屋に一人残っていた。
蛍光灯の白い光。積み上がったカルテの山。壁の時計が刻む秒針の音。
二十年前は、この場所が戦場に見えた。
今は違う。疲れ切った工場にしか見えなかった。
机の上の二つの画面には、別々の未来が映っていた。
左は電子カルテ。原因不明の発熱、どの科にも引き取られない腫瘍疑い、半年も「ストレス」で片づけられた自己免疫疾患。
誰か一人の怠慢ではない。情報と責任の継ぎ目に落ちた患者たちだった。
右は、外資系ヘルスケア企業から届いた〈最終面接のご案内〉。職名は、チーフ・メディカル・データサイエンティスト。
引き出しには、手術の合間に三年かけて取ったMBAの修了証と、統計の認定証がある。メスの届かない命を、データと経営で救うために積み上げた、次のキャリアへの切符だった。
(メスを置く)
それが、俺の出した結論だった。
外科医としての、敗北宣言に近い。
いや。本当は、もっと前から気づいていた。
◇
先月、誤嚥性肺炎の老人を診た。
八十四歳。元・製材所の職人で、右手の親指が半分なかった。
搬送されたその夜、彼は酸素マスクの下で、照れくさそうに笑って言った。
「先生。うちの婆さんが、家で待ってるからね」
婆さんは、三年前に亡くなっていた。家族はもう、訂正しなかった。
診断は正しかった。治療方針も正しかった。
それでも、空床がなかった。紹介先がなかった。夜間に看る人がいなかった。
俺は最期まで、その手を握っていた。骨の浮いた、硬い、木の匂いのする手だった。
力が抜けていく瞬間の感触を、俺は今でも指先に思い出せる。
悪かったのは、俺か。看護師か。病院か。
誰か一人を責めれば、話は簡単になる。だが真犯人は、あの人を受け止められなかった仕組みそのものだった。
俺一人がどれほど眠らず働いても、救えるのは年に数百人。
病床の運用が、情報の連携が、人の配置が、予防の仕組みが変われば──何万人に届く。
「……個人の腕には、限界がある」
外科医を辞めるのは、敗北ではない。戦う場所を、手術室から仕組みへ移すだけだ。
そう言い切れるまでに、二十年かかった。
面接は、明日の朝九時。
四十五歳。普通なら、遅すぎる再出発。
だが、やらなければ一生後悔する。
そう思いながら、仮眠を取ろうとソファに身体を沈めた、その瞬間だった。
◇
「ッ──────!?」
痛み。
理解を超えた痛みだった。
肩甲骨の間を、真っ赤に焼いた鉄杭で貫かれたような激痛。
息が止まる。視界が揺れる。身体が勝手に崩れ落ちる。
(何だ……!?)
前胸部。背部。移動する痛み。冷汗。吐き気。血の気が引いていく感覚。
そして、皮肉なことに。
恐怖より先に、医師としての脳が動いた。
(心筋梗塞──違う)
(肺塞栓──非典型)
(気胸──説明できない)
症状を並べる。消していく。絞り込む。
(急性大動脈解離)
確信だった。
(スタンフォードA型)
さらに絞る。完全に一致する。
笑いたくなった。
(ベイズの定理が……俺の死を告げている)
診断できる。完璧に診断できる。
それなのに、どうにもできない。
床に倒れながら、俺は人生で初めて思った。
患者はいつも、こんな気持ちだったのか。
病名は分かるのに。どうすることもできない。ただ、死を待つだけ。
「剣崎先生!?」
「誰か来てください!」
「コード・ブルー!!」
走る足音。叫び声。
(違う)
(胸骨圧迫はやめろ)
(解離が広がる)
伝わらない。声が出ない。意識が遠のく。
そして、最後に思い出したのは──明日の朝の、面接だった。
本当なら、俺は人生を変えるはずだった。
個人の限界を超えるために。医療システムを変えるために。仕組みで、命を救うために。
(もし)
暗闇の中。最後の願いが浮かぶ。
(もし、もう一度やり直せるなら)
メスも使う。データも使う。経営も使う。
全部使って。
誰も、手遅れにならない世界を作ってやる。
視界が、白く染まった。
◇
――だから、これは。
メスを置くと決めた男が、もう一度メスを握るまでの話だ。
【今回のカルテ】
大動脈解離:大動脈の壁が裂ける緊急疾患。突然の胸背部痛を起こす。
【たとえるなら】大動脈は、体の中を走る一番太いホース。その内側の壁が裂けて、血がホースの"壁の中"に潜り込んでしまうのが大動脈解離である。裂け目が心臓に近いほど、猶予は短い。
【次回】第2話「ステータス画面に『カルテ』が表示される」
目覚めた先は、石の天井。視界の隅に浮かんだのは、剣でも魔法でもなく――見慣れた"あの画面"だった。




