第23話 罰しない仕組み ― 医療安全の思想
【今回の要点】罰する文化は、ミスを消さない。
ミスを"隠す"だけである。
組織が事故を起こした時、最も安上がりな解決策は、誰か一人を差し出すことだ。
そして、最も高くつくのも、それである。
理事会の空気を、俺はよく知っている。
誰にも悪意はない。ただ全員が、自分の組織を守るために最も安全な選択肢を選ぶ。
その総和が、いつも決まって、一人の若者を切り捨てる形になる。
三人の死は、大陸中に伝わった。
「医神の学校が、患者を毒殺した」──悪意ある噂は、正確な事実より遥かに速く走る。入学希望者の一部が辞退し、地方の診療所には抗議が押し寄せた。
医学校の理事会(辺境伯、王国の使者、帝国の使者、教会代表)が緊急招集された。
「学長。責任者の処分を求める声が上がっている」王国の使者が、苦い顔で言った。「投薬した生徒を放校とし、学長も一時謹慎とすれば、世論は収まる」
生徒たちが、廊下で息を殺して聞いているのが分かった。
俺は立ち上がり、静かに、しかしはっきりと言った。
「──断ります」
廊下の向こうで、誰かが息を呑んだ。トトだろう。
彼を切れば、学校の評判は一時的に戻るかもしれない。だが生徒全員に「失敗したら隠せ」と教えることになる。その授業料は、次の患者の命で支払われる。安すぎる処分ほど、後で高くつく。
「なっ……」
「処分は、最も安易で、最も危険な解決策です。理由を説明します」
俺は、板に図を描いた。
「トトを放校にすれば、世論は収まるでしょう。だが、その瞬間に、この学校の全ての生徒がこう学ぶ。『失敗したら、終わりだ』と。すると何が起きるか。──次から、誰もミスを報告しなくなる」
理事たちが、顔を見合わせた。
「隠された小さなミスは、地下で育ちます。そして数年後、もっと大きな事故になって噴き出す。俺は前の世界で、それを嫌というほど見てきた。……罰する文化は、安全を殺すんです」
「では、どう責任を取る」辺境伯が問うた。
「三つで示します。──第一に、事実の完全公開。何が起き、なぜ起き、何を変えたか。三人のご遺族と、大陸全土に包み隠さず公表する。第二に、再発防止の仕組み。既に導入した『三つの確認』を、同盟加盟の全診療所に義務化する。第三に──」
俺は、深く頭を下げた。
「──学長として、亡くなった三人のご遺族の前に、俺自身が出向き、詫びます。生徒ではなく、俺が」
三日後。俺は三軒の家を回った。罵倒された。水をかけられた。当然だ。俺は言い訳をせず、何が起きたかを最後まで正直に説明し、頭を下げ続けた。
三軒目、老いた妻を亡くした男が、最後にぽつりと言った。
「……あんた、逃げなかったな。医者ってのは、ミスを『寿命でした』って言うもんだと思ってたよ」
「言えば楽になります。でも──それを言った瞬間、次の誰かが同じ死に方をする」
男は、長いこと黙っていた。そして。
「……女房の名前を、その"記録"とやらに、書いてくれ。あいつの死で、次が助かるなら」
その言葉を、俺は生涯忘れないだろう。
医学校に戻り、俺は新しい台帳を作った。表紙にはこう書いた。
〈有害事象記録簿──ここに記された全ての名は、未来の誰かを救うために記される〉
その台帳の第一頁に、三人の名を書き入れている俺の背後で、声がした。
「……甘い、と言おうと思うたが」
玄斎だった。老医師は、台帳を覗き込み、ふん、と鼻を鳴らした。
「ヤマトでは、薬を誤れば薬師は腹を切る。潔いが──記録は、残らぬ。同じ過ちが、五十年ごとに繰り返される」
彼は、俺を見た。初めて、値踏みではない目で。
「……小僧。お主の"仕組み"とやら、少しだけ、面白い」
「ありがとうございます。──ところで玄斎殿。一つ、力を貸してほしい」
俺は、例の商会の記録を差し出した。
「市価の三分の一で、致死量の薬草を、大陸中にばら撒いている商会がある。荷は、ヤマトから来ている。──心当たりは?」
玄斎の顔から、笑みが消えた。
「…………まさか。あの者らが、海を渡ったか」
その夜、俺は『有害事象記録簿』の一頁目に、三人の名を書いた。
症例番号ではなく、名前を。
「……なぜ、名前まで残すのですか」トトが聞いた。
「番号だけでも、仕組みは作れる」俺は答えた。「だが――なぜ作ったのかを、そのうち忘れる」
インクが乾くまで、俺たちは黙ってそこに座っていた。
【今回のカルテ】
心理的安全性:失敗や懸念を、罰を恐れず報告できる組織文化。
【たとえるなら】心理的安全性とは、"火事だ"と叫んだ人が怒られない職場のこと。叫べない職場は、火が天井に届いてから気づく。
【次回】第24話「気と科学 ― 東方医学との衝突」
五十年の経験と、百二十例の数字。どちらが正しいかを決める方法が、この世界にはまだ無い。




