第17話 侯爵令嬢の心臓
【今回の症例】十四歳、動悸と息切れ、階段で失神。帝国中の医者が原因不明と匙を投げた。
――手がかりは「発作が始まる瞬間」と「終わる瞬間」にある。
その日、俺は二人の患者を診た。
一人は、目の前の少女。
もう一人は――自分自身だった。
十四歳の患者を診る時、俺はいつも同じことを考える。
この子には、これから六十年ある。
その六十年を、今日の三十分で失わせるわけにはいかない。
少女の名は、リゼット。モルドレッド侯の一人娘、十四歳。
彼女は眠り病ではなかった。数日前から動悸と息切れを訴え、その日、階段で突然倒れ、意識を失ったのだという。付き添う侍女は、真っ青だった。「侯爵様が、帝国中の医者を集めましたが、誰にも原因が分からず……最後の頼みと、ここへ……」
モルドレッド侯は娘の寝台の前で、英雄の仮面を失っていた。握った拳には爪が食い込み、血が滲んでいる。
政治家として何をした男であろうと、今は娘を失いかけている父親だ。患者の家族になった瞬間、人は身分より先に弱さを見せる。
俺の魔眼が起動する。
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【VINDICATE】対象:リゼット(14)
意識:回復傾向
脈拍:発作性に180超へ跳ね上がる 〈通常の倍以上の速さで、突然始まる〉
発作間欠期は正常 〈発作が終われば、まったく健康に見える。だから見逃されてきた〉
めまい・失神を反復/心音:発作時に不規則
最有力:発作性上室頻拍
〈心臓の中の電気信号が輪を作ってぐるぐる回り、心臓が空回りする発作〉
※脳や他臓器に異常なし。心臓の"配線"の異常であり、心臓そのものは傷んでいない
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(不整脈だ。それも、突然、心臓が暴走的に速く打ち始めるタイプ。この世界の医者に分かるはずがない。脈が「速すぎる」ことが病だなんて、誰も知らない)
俺は少女の手を取り、脈を感じながら、待った。そして──来た。発作。少女の脈が、突然、鳥の羽ばたきのように速くなる。
「リゼット、聞こえるか。俺の言う通りにしろ。──大きく息を吸って、止めて、思い切り"いきむ"んだ。便を出すときのように、下腹に力を込めろ」
(迷走神経刺激──バルサルバ手技。前世なら薬や電気で止めるが、道具のないここでは、まずこれだ)
少女が、必死に、いきむ。一度、二度──
すっ、と。暴走していた脈が、憑き物が落ちたように、正常なリズムへ戻った。
「……あ。……胸の、ドキドキが、止まりました……」少女が、驚いた顔で自分の胸を押さえた。
侍女が泣き崩れる。そして──いつの間にか病室の入り口に立っていた男が、震える声を漏らした。
モルドレッド侯。娘の危機を聞き、駆けつけたのだ。傲慢な仮面は剥がれ落ち、そこにいたのは、ただ一人の父親だった。
「……治った、のか。あの、どんな医者にも……」
「まだです」俺は立ち上がった。「今のは、応急処置。発作を一時的に止めただけだ。この子の心臓は、これからも突然暴走する。放っておけば、いつか──失神したまま、二度と戻らない発作が来る」
侯の顔から、血の気が引いた。
「……治せるのか。治せるのだな、貴様なら」
俺は、少し考えた。この世界には、心臓の電気を焼き切る手術はない。抗不整脈薬も、精製されたものはない。だが──
「完全には、治せません。今の医術では」俺は正直に言った。嘘をつくのは、患者にも家族にも、最悪の選択だ。「だが、発作の頻度を減らし、発作が来ても自分で止められるようにすることはできる。娘さんに、いきみ方を教える。カフェ──いや、特定の刺激物を避けさせる。エリスの光で、心臓の負担を和らげる。──共に生きていく病として、管理はできます」
侯は、しばらく俯いていた。そして、顔を上げた時──彼の目から、傲慢さは消えていた。
「剣崎アラタ。……わしは、貴様を憎んでいた。わしの罪を握り、わしを操る、忌々しい異国人だと。だが……貴様は、わしの娘を、他の誰にもできぬやり方で救った。しかも──治せぬ部分を、正直に治せぬと言った」
彼は、深く頭を下げた。帝国軍三分の一を握る大貴族が、追放者上がりの医者に。
「……頼む。娘を。そして──わしにできることがあれば、何なりと言え。この命に代えても」
(……盤面が、また一つ動いた)
俺は、静かに応じた。
「一つだけ。──侯の力で、この帝国全土に、俺たちの"仕組み"を広げてほしい。集中治療のプロトコル、疫学記録の様式、そして医学校を。俺一人では、俺の手の届く範囲しか救えない。だが、あなたの力があれば──帝国の五百万の民に、届く」
侯は、顔を上げ、初めて、笑った。
リゼットは、意識を取り戻した時、俺ではなく父を探した。
そして父の顔を見つけると、真っ先にこう言った。
「……お父様。泣かないで」
十四歳が、倒れた自分の心配より先に、父の顔色を気にする。
この家で彼女がどんな役割を担わされてきたのかが、それだけで分かってしまった。
「……欲のない男だと聞いていたが。とんでもない。貴様の欲は、帝国そのものを飲み込む気か」
「ええ」俺も笑った。「これ以上ない程、欲深いんです」
だがその夜──娘を救った達成感の中で、俺は再び、胸の奥の乱れを感じた。今度は、はっきりと。脈が、飛ぶ。冷や汗が、滲む。
(……いよいよ、まずいな)
俺は、ずっと避けてきたことを、ついに実行した。
自分の魔眼を、自分自身に向けたのだ。
そして、表示された文字に──俺は、息を呑んだ。
【今回のカルテ】
頻脈発作:心拍が急に速くなり、動悸・失神を起こすことがある。
【たとえるなら】発作性の頻脈は、心臓の中の配線がショートし、自分で自分に信号を送り続けている状態。押すべきスイッチさえ分かれば、止まる。
【次回】第18話「医者、自らを診る」
〈VINDICATE〉が、初めて主人自身に牙を剥く。表示されたのは、逃げ場のない診断名だった。




