第16話 英雄になった犯人
【前回まで】疫病の真犯人は、干拓を放り出した大貴族だった。
だがアラタは、彼を告発しない。
正義を通すことと、水路を直すことは、別の仕事だ。
俺が引き受けたのは、後者である。
英雄が生まれる瞬間を、俺は初めて間近で見た。
布告が読み上げられた広場で、市民は泣いて喜んだ。侯の名を叫びながら、地面に額をつける者までいた。
その侯本人は、俺の隣で、紙のような顔色をしていた。
「モルドレッド侯が、水路改修に私財を投じる」──その布告は、帝都を歓喜させた。
眠り病の恐怖に怯えていた市民は、英雄を求めていた。そして侯は、自らの失政を隠せるこの取引に、渋々乗った。掘りかけの水路には水が通され、淀みは流れに変わり、蚊の繁殖池は消えていく。
真犯人より、責任を引き受けて目の前を直す英雄の方が、町を早く動かす。納得はしても、気分のいい取引ではない。
「悔しいですか」とエリスが聞いた。
「ああ。だから数字を残す。今は名誉を渡しても、事実まで渡すつもりはない」
俺は改修工事の「監督」を引き受けた。表向きは侯の指揮下で。実際には──俺の「帳簿」が、どの水路を、どの順で、いくらの費用で処理すべきかを算出し、侯の名前でそれを実行させる。
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【レジャー】水路改修 最適化計画
対象:放棄水路 全47区画
優先順位:発症寄与度×人口密度で加重 → 上位12区画を先行処理
予算配分:金貨380枚(侯の私財枠内)/工期:60日
効果予測:来夏の新規発症を87%削減
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工事現場で、俺は初めて侯本人と対面した。
モルドレッド。四十代半ば、鋼のような体躯に、傲慢と警戒を貼り付けた顔。彼は俺を見下ろし、低く言った。
「小賢しい異国人が。わしを英雄に仕立てて、恩を売ったつもりか」
「恩など売っていません」俺は淡々と応じた。「俺が欲しいのは、来年の夏に人が死なないことだけだ。侯の名誉は、そのための"手段"です。目的じゃない」
侯は、ふん、と鼻を鳴らした。だが、その目の奥に──微かな困惑が走ったのを、俺は見逃さなかった。命令には慣れていても、「利用されて、なお得をする」という立場に、この男は慣れていない。
工事は順調に進んだ。皇女ヴィオラは政治的均衡を保ち、大司教は「神の御加護」を説いて予防を広め、帝立医療院はプロトコルを学び始めた。集中治療病棟からは、次々と患者が目覚めていく。
すべてが、俺の描いた盤面通りに進んでいた。
──ただ一つ、俺自身の身体を除いて。
その頃から、俺は時折、胸の奥に鈍い違和感を覚えるようになっていた。夜、寝台に横になると、心臓の鼓動が乱れることがある。速く、そして時に、脈が一つ、飛ぶような。
(……気のせいだ。過労だろう。前世でも、いつもこうだった)
俺は、自分の魔眼を、自分自身に向けることを──無意識に、避けていた。
そんなある日。集中治療病棟に、一人の少女が担ぎ込まれた。
侯の、一人娘だった。
【今回のカルテ】
費用対効果:限られた資金で、どの対策が最も多くの命を救うかを考える。
【たとえるなら】費用対効果とは、限られた財布で最も多くの命を買う買い物術。高価な薬より安い蚊帳のほうが、命をたくさん買えることは珍しくない。
【次回】第17話「侯爵令嬢の心臓」
帝国中の医者が匙を投げた十四歳。そして同じ夜、アラタ自身の心臓も、静かに脈を飛ばす。




