9発目 寺来薙心と空っぽの街
雨の公園の真ん中で、闇の扉だけが黒く開いていた。
私は京魔くんの袖を掴んでいる。環さんは、彼の腕にしがみついている。
なのに、私の目にはなにも映らない。
雨も。公園も。闇の扉さえも。
あるとすれば、彼の口から漏れた、冷え切った悲しみのメッセージ。
『寺来さん。……僕はこの世界が嫌いだ』
傘をさしてくれたあなた。
『なんなら、君達、全員嫌いだ』
傘に入れてくれたあなた。
あなたの言葉が受け取れない。受け取りたくもない。
傘を放り投げたあなた。
その傘は水たまりに落ちた。
跳ねた水は土を混ぜ、泥となって傘を汚した。
──もう、いらない。必要ない。
そう言われたみたいだった。
捨てられた傘がひどく寂しく見えた。
闇の扉の吸い込む力がゆっくりと強く、強くなる。京魔くんを導くように、
彼とこの世の離別を後押しするかのように。
なんで嫌いなんですか?
どうして嫌いなんですか?
彼のYシャツの袖を掴む力が、強くなるばかりだった。
あなたが私を嫌いになる理由なんて、
思い当たることはいくつもあるけど、
──全員を嫌い? 世界が嫌い?
なにがあったら全方位嫌い少年になれるんだ!
「寺来さん……君には……」
京魔くんは、雨に濡れたまつ毛を伏せた。
「愛がたりない」
「愛語だの和顔だの、綺麗な言葉を並べてる割には、君は特定個人の誹謗中傷を繰り返している。毎日だ」
「巫女の八夜神さんを、桃色の淫髪だの、爆ぜる胸元だの。彼女の本当の魅力を知ろうともせず、名前すら覚えてやらない」
「寺の教えが泣いてるよ?」
唖然とした。言い返せなかった。
まさか、そこを突かれるなんて全く思っていなかった。
「あと俳優さんを地の文に出すな。木◯拓◯さんの気持ちを考えろ」
そこも?
「じ、じゃあ巫女の嫌いなところはなに!?」
私は堪らずに彼の思いの矛先をずらした。
本能だったと思う。これ以上京魔くんに嫌いエビデンスを浴びせられたら泣いてしまう。彼の前で遠慮なく。
「君と同じだ」
はぁ? 私があの桃色のい……巫女と同列?
何事だよ?
「愛がたりない」
「八夜神さんは、自分自身を愛していない。人のために、平気で命を危険に晒す。なのに、人を愛そうとする」
京魔くんは、ほんの少しだけ目を細めて、呟いた。
「見ていられない」
──巫女は命懸けだった。
今朝、街道の車道に散らばった私の所持品を拾ってくれた京魔くんが、車に轢かれそうになって。
そのとき、車道に飛び出して彼を助けてくれた巫女。
献身だろ?
嫌うことはないじゃないか?
私は、京魔くんのいう『愛』が分からずにいた。
「ついでに環さん。いま、欠伸したね? ふわぁ〜とね? 寺来さんは聞き逃したかもしれないけど、僕には、はっきり聞こえていたよ?」
「愛がたりない」
──ズシャ。その言葉の途中で、京魔くんの片足が半歩、扉へ滑った。
私は袖を握り直す。それでも彼は、笑うでもなく、怒るでもなく続けた。
──ビシッと京魔くんは指をさした。
環さんの雪のように白い口元にむかって。
「……そんなこといわないで」
環さんは、すぅ〜と身体が透けた。もう、かくれんぼしたら誰にもみつけてもらえないくらいに。
京魔くんは環さんの腕を振りほどいた。
肩に落ちた雪をそっと、はらうように。
「寺来さん、この世界を見てくれ」
彼は、この世界の果てを見渡した。
公園を見た。
商店街を見た。交差点を。花屋の店先を。
桜並木の街道を。街路樹を。寺の墓地を。
カエルが池に飛び込んだ、でっかい池を。
とくに変わり映えもない、しけた街を。
誰を楽しませることもない、空っぽの街。
彼は瞼を閉じた。こんなものかと、読み終えた本を棚に戻すように。
「この世界は、空白だ。真っ白だ」
京魔くんは、雨の向こうを睨むように言った。
「毎朝、あちこちを歩いた。この世界を歩いた。なのに、見える景色はこんなにもちっぽけだ」
「僕は思ったのさ。他にも……こう、なんかあるだろ!」
「ラブコメに相応しい、ラブコメを盛り上げる、ノスタルジックな高台とか! 灯台が見える港町とか! 明日行ってみたくなる、行列必至のイタリアンのお店とか!」
「君も、僕も、八夜神さんも、環さんも! この街のみんなが、ラブコメしたくなる世界が!」
京魔くんは、ほんの少しだけ笑った。
「愛がたりない」
「世界がたりない」
「夢もたりない」
「環境も、チャンスも、グッドアイディアも、予想外も、スペクタクルも、衣装も、楽しみも、明日が来るのを楽しみにできる日常も──」
「なにもかもが、たりない」
ごぉおおおおおおおお!
「扉の奥へお進みくださ〜い! 扉の奥へお進みくださ〜い! 扉の奥へお進みくださ〜い!」
闇の扉の引力が、さらに強くなった。京魔くんの服も髪もまるごと没収されるみたいに真横に吸い込まれていく。
「……ふっ! 気にでもぉ……さわったか? 誰とはいわん、がぁ……な!」
足を踏み締めた京魔くん。けれど、息が荒い。
「僕は歩いた! 毎日、この世界を!」
「同じ時間に、同じ場所に、同じ君が現れる。そして街路樹にかっ飛んで鼻血だして……ぁあ」
「……疲れたな」
「き、京魔くん!」
京魔くんは、私の手に触れた。
私の手を振り払いたいの? 逆らおうとした。
私はYシャツを握る力を緩めない。離すものか。
「ごめんよ。寺来さん」
彼は構わずに触れた。抗う私の指、
彼のYシャツの袖を握りしめる、私の指に。
一本ずつ。一本ずつ。
どうしてだろう。抗えなかった。
責めるでもなく、怒るでもなく。肩に落ちた雪を払うような手が、
冷たさが、温度が、
もうここにはないような気がした。
彼は、私の手をほどいた。
最後の指が離れた瞬間、私の手はなにも掴めなくなった。雨だけが、指のあいだをすり抜けていく。
彼は、踵を返した。
闇の扉の開く、先へ。
彼が、京魔くんがいってしまう。
私の体が動かない。
雨を吸った黒のジャージが、鉛のように重い。ただ立っていた。なにもできなくて。
見送るわけでもない私の目。
落ち続ける雨を吸い続けるジャージが、重くなる。動けませんと。言い訳をするように。
最後くらい笑わせたいよ。だって最後なんでしょ? 思いつかないよ? まだ一度も笑わせてないよ? お父様!渾身の寺ジョークなんかないの?
私はぐしゃぐしゃな頭の中を嘆いた。
気の利いた比喩も言えない。
女の子なムーブが出来ない。
自分のことしか考えられない。
私、どうすればいいんだよ!
あなたのために!
私の顔はきっとぐしゃぐしゃだった。
それなのに京魔くんは、笑った。
困ったように。泣きそうな顔を、笑顔の形に押し込めるみたいに。
「さようなら、寺来さん」
雨は彼を隠してはくれなかった。
捨てられた傘を。
ボタンのないYシャツを。
ベルトのないズボンを。
私には見えた。京魔くん。
私だから見えた。やっぱりあなたは格好いい。
服がはだけようが、髪のセットがばらけようが、
大聖堂を飾る宝飾品のような気品。
あなたの瞳に海が見える。
マリンブルーのような輝き。
ひとつ、零れ落ちたなにか。
それは、あなたの願いだ。
あなたは左足から、慎重に一歩、踏み出した。
────だから、私も、踏み出すよ。
私の体はもう軽い。
雨を吸った黒ジャージの重さなんて吹き飛んだ。
なにが鉛のように重いだ。
あなたが、教えてくれたこと、思い出したから。
あなたの願い、思い出したから。
全部は叶えてあげられないかもしれない。
だけど、私にできることは、分かってる。
手を繋ぐ。
いつか、私はあなたと手を繋ぐ。
"いつか"じゃない。
今しかない。
当たり前だよな?
だって、あなたのことが、大好きなのだから。
三年前から。
今まで。
この先も。
ずっと、
ずっと、
ずっとだ。
こうしちゃおれん。
雨が降っている。
ずっと、まだ降っている。
滑り台の斜面、ステンレスの板に大粒の雨がバシャバシャと打ち付ける。
公衆トイレの雨樋から溢れた雨が、誰かの自転車にバシャバシャと落ちる。
うんていの黄色の塗装が、どこか剥がれ落ちる。雨が気にせず剥がし落とす。ドシャドシャと。
喧しい。
私は右腕を空へ、喧しい雨を薙ぎ払った。
弾けた雨粒に映る私。
目には血柱、いや炎の柱、それは『瞋恚』──怒りだ。
心の炎が燃え盛る。
義憤ではない。
清い大義のためでもない。
彼の手を握り、彼をこの世界に繋ぎとめ、彼の毎日に愛を足してやり、あわよくば恋の一幕、二幕、数多のシチュエーションを御満喫。
これは煩悩。仕方がない!
憎むは、己の未熟なる心。
怒れる心は誰が為に。
てゆーか、京魔くんのために。
愛のために?
恋のために?
てゆーか、京魔くんのために!
だから!
こうしちゃおれん!
「悪鬼百滅!」
「いくよ! ……環さん!」
「はぁ〜い!」
ぽん、と湯煙が立った。
環さんは一反木綿に変化。端っこがふわふわと波打つ白い帯。だけど、いつもより短い帯。疲れてるからね?
──既に飛んでいる。
いつもより速く、いつもより前のめりに。
薄く、透き通っていても、疲れ気味でも、
ひとつ返事で飛んでくれる環さん。感謝します。
かっ飛ぶ乗り物になった彼女に、私は飛び乗った。
オープンカーの後方からジャンプしてライド。
そんな勢いで。
──ねぇ、京魔くん。
私、ぶっとばすよ。
あなたが、そう願うから。
『涙なんか流すな! ぶっとばせばいい!』
──そう。
あなたの、
しみったれた涙を。
『この世界が嫌いだ』
『君たちも嫌いだ』
『愛がたりない』
世界を憂いて。
私達を嘆いて。
放り投げてしまった、
あなたの諦めちまった心も。
まとめて。
全部、
ぶっとばしてやる。




