第四章:誰がための竜馬車(わだち)か、想い繋ぐ四つの軌跡 ① 鉱山編:老職人の遺した灯火
「ちょ、ちょっと待ってアンヴィル……っ。亡霊って……本物の幽霊ってこと……!?」
さっきまで白銀の美しい尻尾を凛とさせていたリンが、完全に耳をペタンと寝かせ、アンヴィルの服の袖をギュッと掴んで背後に隠れる。
「ひゃ、うあわわ……っ! む、む、無念の死を遂げた炭鉱夫たちの怨念が、暗闇のなかで彷徨っているということでしょうか……っ!?」
ミリアも真っ青な顔でガタガタと震えだし、抱えていた分厚い魔導書で顔を半分隠しながら、リンと背中合わせに引っ付いた。
「おいおい、お前らなぁ。魔王軍の化け物にはあんなに威勢よく武器を構えるくせに、お化けの類はダメなのかよ」
ノインが呆れたように息を吐くと、リンが涙目で猛反抗する。
「ち、違うわよ! 魔物や兵隊は、剣が届くからいいの! 攻撃が当たらない相手はどうやって倒せばいいのよ!」
「そ、そうです! 物理法則の通じない霊体相手の除霊術なんて、私、まだ習っていません……っ! 暗い廃坑で、足元から冷たい手がニュッと伸びてきたらどうするんですかぁ!」
怯えまくる二人を見て、バザン親方は呆れたように鼻で笑い、煙草の煙を吐き出した。
「おいおい、買いかぶりすぎだ。本物のオバケなぞ出るかい。俺が言ったのは、それくらい執念深く山に籠もってノミを振るい続けてる、『生きているドワーフの老いぼれ』の例え話さ」
「……え? 生きてる人間、なの?」
リンがアンヴィルの背中からそろりと顔を出す。
「なんだ、ゴルドアのじいさんのことか。まだ生きてやがったのか」
ノインが腕を組んで納得したように頷くと、ミリアもふぅ、と胸に手を当てて大きく安堵の息を吐き出した。
「うぅ……びっくりしました……。心臓が止まるかと……」
お互いに抱き合っていた手を離すと、二人は少し赤くなって衣服の乱れを整えた。
「ふん、とにかくその頑固じいさんから石を獲ってこにゃならんわけだ」
ノインがドワーフの拳をパチンと鳴らす。「よし、ここは俺とアンヴィルで行く。リンとミリアは、もう一つの必須素材である『星砂』の捜索を頼む。幽霊の出ない、お日様の下の砂漠だ。そっちなら大丈夫だろ?」
「……う、うん! 砂漠なら大歓迎よ。任せて!」
「はいっ、地上ならいくらでも歩きますっ!」
お化けが出ない場所だと分かって現金に元気を取り戻した二人を見送り、アンヴィルとノインは、北の死んだ岩山へと向かった。
◇
廃棄鉱山『グラニート』の内部は、光を吸い込むような絶対の静寂と闇に包まれていた。
かつて多くの労働者で賑わったであろう坑道は、今や崩れた岩石と、赤黒く錆びついた手押し車の残骸が無残に転がるだけの墓場だ。
カツン、カツン、カツン……。
地底深くへ進むにつれ、闇の奥から、規則正しい、だが驚くほど微かな金属音を響かせていた。
二人が息を殺して最深部の空洞へ足を踏み入ると、そこにはカンダタ灯の鈍い光のなかに、一人の老いたドワーフの背中があった。
名前はゴルドア。
煤と泥に汚れ、岩のように硬くひび割れた皮膚。その背中は小さく丸まり、全盛期を過ぎた老兵の哀れさを漂わせている。そして何より、振り返った彼の両眼は、白く濁り、光をいっさい通さない「盲目」のものだった。
「……誰だ。ここには、お前さんたちが欲しがるような金も銀も、もう一粒だって残っちゃいねえよ」
ゴルドアは視力を失っているはずなのに、二人が入ってきた方向へ正確に顔を向けた。その手には、限界まで磨り減り、先端が丸くなった一本の古びたノミが握られている。
「俺たちは泥棒じゃない」ノインがドワーフの礼儀として一歩前に出た。「俺はノイン。こっちは俺の仲間のアンヴィルだ。じいさん、あんたがゴルドアだな。俺たちは、俺たちの馬車に必要な『浮閃石』を探しにきたんだ」
ゴルドアは一瞬、ピクリと眉を動かしたが、すぐに自嘲気味に鼻で笑った。
「浮閃石だと? 諦めて帰りな。そんなものは、この暗闇のどこを探してもありはせん。もう掘り尽くされた」
「嘘だ」と、それまで沈黙していたアンヴィルが静かに告げた。
アンヴィルの「職人の眼」は、ゴルドアの周囲の壁ではなく、彼の手元、そしてその足元に散らばる「岩の破片」を凝視していた。
「じいさん。あんたがいま叩いているその岩肌、表面はただの石灰岩だけど、ノミが当たる音の響きがほんのわずかに高い。……奥に、空気を孕んだ超高密度の鉱脈がある。あんたは、それが分かっていて、そこをピンポイントで叩いているはずだ」
ゴルドアの手が、完全に止まった。
白い濁った眼が、じっとアンヴィルを探るように向けられる。
「若いの……今、なんと言った?」
「あんたのノミの引き方、そこで叩く角度だ。目が見えないんじゃない。あんたは、ノミから伝わる微細な振動と、岩が返す『音』だけで、地層の厚みと鉱石の純度を完璧に脳内で立体化させている。……バザルトの親方が言っていた、あんたは落盤事故の暗闇のなか、音だけを頼りに仲間を全員掘り起こして助けたって。もともとのあんたの凄腕と、光を失ってからの三十年間、暗闇の中で途方もなく磨き抜かれてきた――まさに執念のなせる匠の技だ。違うか?」
ゴルドアは深く、深く息を吐き出した。表情から頑なな拒絶が消え、代わりに底知れない職人の凄みが這い出てくる。
「……恐れ入った。まさか人間の小僧に、俺の『眼』を見抜かれるとはな。だが、分かったところで何になる。お前さんたちが欲しがるような極上の浮閃石は、この硬い地層のさらに奥だ。おいそれと手に入るわけが――」
ゴルドアが再びノミを構え、力を込めようとしたその瞬間。
「――ガハッ……っ!?」
老人の口から苦しげな喘鳴が漏れ、その細い身体が大きくよろめいた。長年の過労、あるいは薄い酸素のなかで限界を超えて動き続けてきた肉体が、ついに悲鳴を上げたのだ。手からノミと小槌が滑り落ち、硬い岩肌に甲高い音を立てて転がる。
「じいさん!」
アンヴィルは咄嗟に駆け寄り、倒れかけるゴルドアの細い身体をその強い腕でしっかりと支えた。
ゴルドアの呼吸は浅く、ノミを握り続けていた手の平は、酷い筋肉の痙攣で固まり、激しく震えている。
「……放せ。俺は、まだ叩ける……。待ってろよ、エルマ……。この石をお前の墓に、必ず届けてやるからな……っ」
老人は激しく息を切らせながら、うわ言のように愛しい妻の名を呼び、執念だけで岩肌に爪を立てようとする。その時、ゴルドアの煤けたポケットから、一筋の古びた革紐に繋がれた『エルマへ』と不器用な文字で刻まれた、小さな金槌を模した真鍮の鎚印が床へ滑り落ちた。
それを見たノインが、ハッと息を呑んで声を詰まらせた。
「……真鍮の誓約細工。ドワーフの鍛冶師が交わす伝統的な『婚儀の誓い(つがいのあかし)』だ。生涯、その相手のためだけに腕を振るうっていう……」
ノインのその呟きと、血を吐くようなうわ言。端々に美しく経年変化を残した誓いの形見を見たアンヴィルは、すべてを察した。この老人は何十年もこの闇の底で一人きり、先立たれた妻の墓に捧げる石のために、彼女との誓いの形見を握りしめて命を削って戦ってきたのだ。
アンヴィルは胸を強く締め付けられながらも、ゴルドアの手から、静かに、しかし拒絶を許さない力強さで古びたノミと小槌を拾い上げた。
正式にノミを構え、ゴルドアの硬く強張った肩にそっと手を置き、静かな、しかし優しく語りかけるような声で告げた。
「無理をしないで。あんたがここで倒れたら、そのエルマさんが一番悲しむ」
「っ……!?」
ゴルドアの身体が、まるで落雷に打たれたかのように硬直した。
見えないはずの白い両眼が、驚愕に大きく見開かれる。
(『無理をしないで。あなたが倒れたら、わたしが悲しむわ』)
三十年前、光を失ってなお意地を張って鍛冶場に立とうとする自分を、後ろから優しく抱きしめて止めてくれた、亡き妻・エルマのあの声。あの時の、どこまでも自分を労ってくれる温かい手の感触が、目の前の人間の小僧の手の温もり、そして「エルマ」を呼ぶ声の優しさと、あまりにも鮮烈に重なった。
「お前……今、なんと言った……」
「これ以上はあんたの身体が持たない。だけど、奥さんへの約束を諦める必要もない」
アンヴィルはゴルドアのノミを自分の手になじませると、頼もしく微笑んだ。
「あんたの『耳』を俺に貸してくれ。俺が代わりに、あんたの腕になる。二人で叩けば、もっと深くへ届くはずだ」
ゴルドアはしばらく呆然としていたが、やがて、その震える手でアンヴィルの肩をガシッと掴んだ。
「……フン、大きく出たな、若造が。浮閃石はデリケートな鉱石だ。ツルハシなんかで力任せに叩けば、衝撃で中の結晶がパキパキにひび割れて、ただの濁ったゴミになっちまう。岩の『ラミ(断層の隙間)』、一番脆い急所にノミの先をミリ単位で狂わずに打ち込まにゃならん。ドワーフの耳に、人間の腕がついてこられるか、試してやる」
そこからの採掘は、まさに言葉を超えた「技術の共鳴」だった。
「右だ。三寸奥に、硬い石英の層がある。そこは叩いても弾かれるだけだ。そのわずか二分下にある、一番柔らかい『音の抜ける隙間』にノミの先をあてがい、一気に小槌を振り下ろせ!」
「了解!」
ゴルドアが岩肌に触れて音を聴き、岩盤の急所を的確に指示する。アンヴィルはその指示通りに、寸分の狂いもなくノミの先端を滑り込ませ、的確に槌を打ち込んでいく。
力で抉るのではない。岩の張力を利用し、急所を突くことで、巨大な岩盤がピキピキと音を立てて自ら綺麗に割れていくのだ。ノインもまた、崩れかける足場をその怪力で支え、火花が散る暗闇の中で三人の呼吸が完全に一つになっていく。
カツン、カツン、カツン――!
暗闇に響く音が、先ほどよりも明らかに高く、澄んだ音色へと変わっていく。
限界まで研ぎ澄まされたアンヴィルのノミが、地層の最深部に隠された「最後の急所」を捉え、鋭い衝撃を伝えた、その時だった。
パリィィィン……! と、まるで薄氷が割れるような美しい音が響き、分厚い岩盤が左右に見事に割れ開いた。
そこから、眩いばかりの、息を呑むような青緑色の光が、地底の闇を爆発的に照らし出した。
岩肌の奥に眠っていたのは、不純物が一粒すら混じっていない、自ら息を吸うように神秘的に明滅する、巨大な結晶塊。
ゴルドアが何十年も追い求め、アンヴィルたちと手繰り寄せた、奇跡の【純度一〇〇%の浮閃石】だった。
「……おお……っ」
ゴルドアはその光を、魂の網膜で捉えたかのように震える手で結晶に触れた。「信じられん……これほど大きく、これほど清らかな塊が、まだ眠っていたとは……。おい、お前さんたちの言う通りだ。これなら、エルマの魂も、どこまでも軽やかに天国へ昇っていける……」
老職人の目から、一筋の涙が溢れ、煤汚れた頬を伝い落ちる。
その姿を見たアンヴィルとノインは、静かに顔を見合わせた。二人の目的は馬車の改修素材だったが、この老人が人生を懸けて掘り当てた、亡き妻への誓いの結晶を奪うことなど、職人として、男としてできるはずがなかった。
「じいさん」アンヴィルが優しい声で告げる。「その結晶は、全部あんたのものだ。エルマさんの墓標に、そのまま捧げてあげてくれ。俺たちは、他を当たるよ」
「そうだ。ドワーフが他人の愛の結晶をぶんどるなんて、そんな不粋な真似はできねえよ」
ノインも腕を組んで、満足そうに鼻を鳴らした。
二人が背を向け、その場を去ろうとした、その時。
ガギィィィン!!
激しい金属音が静寂を破った。
驚いて振り返ると、ゴルドアが錆びついた大斧を振り下ろし、たった今掘り当てたばかりの巨大な結晶の端を、容赦なく豪快に叩き割ったところだった。
ゴルドアは、ゴロリと転がった、それでも大人の頭ほどもある極上のひとかけらを拾い上げると、アンヴィルに向けてぶっきらぼうに放り投げた。
「おっと……っ!」
アンヴィルが慌ててそれを受け止める。手に入れた結晶は、驚くほど軽い。まるで風をそのまま固めたかのように、不純物が一切ない純度一〇〇%の輝きを放っていた。
「……勘違いするな、若造ども」
ゴルドアは、大斧を地面に突き立て、背中を向けながらぶっきらぼうに言い放った。その声は震えていたが、ドワーフの職人としての誇りに満ちていた。
「俺のエルマはな、欲張りな女じゃねえんだよ。こんなバカでかい石を墓に乗っけたら、『重たくて落ち着かないわ』って怒られちまう。あいつの墓標には、この残りの大きさで十分すぎるほどさ」
ゴルドアは一度言葉を切り、それからゆっくりと、アンヴィルの方へ顔を向けた。その白い両眼の奥に、確かに温かい光が宿っているように見えた。
「……それに、あいつも言っているはずだ。『その優しい手を持った若者に、一番良いところを分けてあげて』ってな。……ありがとよ、小僧。おかげで俺の、長すぎる暗闇が終わった」
アンヴィルは、胸の奥が熱くなるのを堪えながら、受け取った奇跡の石を強く握りしめた。
「……ありがとう、ゴルドアさん。大切に使うよ」
「フン、行くがいい。お前さんたちのその『魂』で、最高の道具を作ってみせろ」
ゴルドアは再び岩壁に向き直り、愛おしそうに残された大きな結晶に触れた。その小さく丸まった背中はもう、寂しい亡霊のそれではなく、一人の女性への愛と職人の誇りを最後まで全うした、偉大な男の背中だった。
(お前さんの作る馬車は、一体『誰の心』を運ぶものだ――?)
去り行くその背中を見つめながら、アンヴィルはふとも、胸の奥でそう問いかけられたような気がした。言葉など交わさずとも、命を削って想いを石に込めた老職人の生き様そのものが、若き鍛冶師の魂にそう突きつけているようだった。
アンヴィルは深く一度だけ頷き、廃棄鉱山を後にした。
二人の胸には、手に入れた最高の素材の輝きと、一人の職人の背中から託された、決して消えない想いの灯火が宿っていた。
「……行くぞ、アンヴィル」ノインが涙を拭い、前を見据える。「次はリンたちの待つ、熱砂の火山だ。あいつらもきっと、何かを背負って戦ってる」
「ああ」
アンヴィルは風のように軽い浮閃石を強く握りしめた。胸の奥に灯ったあの問いが、まるで生き物のように、熱く、静かに脈打ち始めていた。




