第一章:旅立ちの鐘と、眠れる鉄(後半)
◆登場人物
◯アンヴィル(15歳)
本作の主人公。人間の少年。ドワーフの父親に愛情深く育てられ、自分を「ただの普通の人間」だと信じて育つ。少し耳の形が綺麗。ある事件をきっかけに、父の鍛冶師としての遺志と、世界を救う「伝説の武具を探す旅」へと身を投じる。
◯バルカン(年齢不明)
アンヴィルの父親。
辺境の人間の町で暮らす、腕の良い頑固なドワーフの鍛冶職人。アンヴィルを実の子として大切に育ててきた。「お前は森の巨木の根元で拾った人間の子だ」と言い聞かせている。
しかし、現実はあまりにも過酷だった。
旅の路銀を繋ぎ、魔王を倒すための手がかりや武具の封印場所の情報を集めるため、アンヴィルは各地の「冒険者ギルド」に立ち寄り、魔物退治の依頼を泥臭くこなしていた。
だが、まともな戦闘訓練など一度も受けたことのない少年にとって、その旅路は常に命を削る選択の連続だった。剣の振り方も知らず、ただ親父のハンマー捌きを真似るようにがむしゃらに剣を振るうだけ。一歩間違えれば死ぬ――そんな薄氷を踏むような毎日だった。
「キキィッ!」
薄暗い森の中、アンヴィルは初めて対峙する魔物――醜悪な緑色の皮膚を持った下級魔族「ゴブリン」に、完全に圧倒されていた。
ギルドで一番簡単だと言われた依頼。だが、実戦は想像を絶していた。不規則に飛び上がったゴブリンの錆びた短刀が、アンヴィルの頬をかすめて鋭い痛みが走る。
「くそっ、速い……っ!」
アンヴィルはがむしゃらに父の剣を振るった。しかし、ただ力任せに振り回すだけの太刀筋は簡単に見切られ、虚しく空を切る。逆に体勢を崩したところを狙われ、背後から別のゴブリンの蹴りを見舞われて地面に激しく転がされた。
泥が口に入り、肺の空気が強制的に叩き出される。容赦なく迫る、鈍く光る刃。
(死ぬ……? こんなところで!?)
本能的な恐怖が脳裏をよぎった瞬間、アンヴィルの頭に浮かんだのは、毎日、工房で嫌というほど見てきた父バルカンのハンマーの軌道だった。
一分一秒を争う正確さ。狙った場所に、完璧な重さと速度で、迷いなく鉄を叩きつけるあの動き。
「おおおおおっ!」
アンヴィルは起き上がりざま、剣の重さに振り回されるのではなく、体幹を低く沈めて「鉄の塊を叩き潰す」ように斜め下から力任せに剣を振り抜いた。
鍛冶仕事で鍛え上げられたアンヴィルの腕力は、並の15歳を遥かに凌駕している。その渾身の一撃は、ゴブリンの短刀ごと、その肉体を真っぷたつに叩き割るように強引にねじ伏せた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
残ったゴブリンたちが、少年の放った異常な怪力と気迫に怯え、蜘蛛の子を散らすように森の奥へ逃げていく。
アンヴィルはただ一匹のゴブリンを倒すためだけに、全身を泥と脂汗で汚し、膝を震わせてその場にへたり込んだ。
その夜、安宿の硬いベッドに横たわると、全身の生傷がズキズキと痛み、暗闇の中でやり場のない恐怖が押し寄せてくる。アンヴィルは自分の腫れ上がった手をじっと見つめ、思わず弱音をこぼした。
「はは……。ただのゴブリン相手に、これだもんな。剣を振るだけで息が切れて、死にそうになって……。こんなんじゃ、魔王の足元に辿り着く前に、僕の命が保たないよ。親父、僕は本当に、親父が言ってくれたみたいになれるのかな……」
枕に顔を埋め、奥歯を噛み締める。バルカンの遺した言葉が、今の自分にはあまりにも重すぎて、この先の果てしない旅路を思うと、目の前が真っ暗になりそうだった。
だが、アンヴィルはのそりと身体を起こすと、壁に立てかけてあった父の剣をそっと手に取り、その鞘を優しく撫でた。不器用で温かかった父の掌を思い出す。
「……いや。弱音を吐いてる暇なんてないだろ、アンヴィル。拾われただけの僕を、親父は命を懸けて守ってくれたんだ。この剣に誓ったんだよ、絶対に親父の愛を証明してみせるって。どんなに不格好でもいい、足が止まりそうになっても、一日一歩でもいいから前に進むんだ。親父の息子なら、これくらいでへばってられるかよ……!」
アンヴィルは剣を強く抱きしめ、自分に言い聞かせるように力強く頷いた。まだ細いその背中には、覚悟という名の小さな火が、確かに灯り始めていた。
◇
ある日、神話時代の防具が封印されているという古い遺跡近くの村が、魔王軍の小隊による突発的な襲撃に見舞われた。
黒煙が天を覆い、赤黒い炎が木々や家屋をなめ尽くしていく。悲鳴を上げて逃げ惑う村人たちの背後に迫っていたのは、野良の魔物とは明らかに一線を画す、統率された魔王軍の小隊だった。
その尖兵として村を蹂躙していたのは、引き裂かれた猟犬のような醜悪な顔を持ち、二足歩行する狼型の魔獣**『ガルグハウンド(魔狼歩兵)』**たちだ。
敏捷性に優れた魔王軍の突撃兵であり、集団での連携を得意とする。しなやかな四肢からは想像もつかないほどの跳躍力と、鉄の盾すら噛み砕く強靭な顎、そして人間の肉など容易に引き裂く鋭い爪を持ち、狂ったような鳴き声を上げながら、逃げ惑う人々を容赦なく追い詰めていく。
そして小隊を率いるのは、全身をどす黒い鉄の甲冑で包み、人間の倍近い体躯を持つ巨漢の魔族**『アイアン・オーガ(鉄甲魔兵)』**。
並の戦士では傷一つつけられない強固な重装甲と、家屋の柱を一撃で叩き折る圧倒的な怪力を誇る、魔王軍の文字通りの“壁”であり重歩兵だ。兜の隙間から覗く爛々とした赤い眼光は冷酷そのもので、その手には村人の血を吸って赤黒く染まった巨大な戦斧が握られていた。
「ひっ……あ、あぁ……」
目の前の凄惨な光景に、アンヴィルの全身は一瞬で総毛立った。
漂ってくる濃厚な血と硫黄の臭い。助けなきゃいけない。頭ではそう分かっているのに、膝がガタガタと激しく衝突音を立てるほどに震え、地面に張り付いたように一歩も前へ進まなかった。本能的な死の恐怖が、少年の肉体を完全に支配していた。
(動け……! 動いてくれよ……!)
親父はあの炎の中、一人で魔族の前に立ちはだかったんだぞ。今ここで動けないで、何が伝説の武具の復活だ。
アンヴィルは奥歯が砕け散るほどに噛み締め、情けない己の脚を、自らの拳で壊れそうなほど強く叩きつけた。この震えを止めたい。今すぐ言うことを聞いて、前へ進んでくれ。
アンヴィルは狂ったような咆哮とともに、自身の肉体へと叩きつけた。
「動くなあぁぁ!!」
恐怖による震えを精神力だけで強引にねじ伏せ、アンヴィルは地を蹴った。
逃げ遅れた子供に狙いを定め、鋭い爪を振り下ろそうとしていた魔狼『ガルグハウンド』に向かって、斜めから全力で割り込む。
「させるかあぁぁっ!」
がむしゃらに振り下ろした鉄の剣が、ガルグハウンドの強靭な前足と激突した。
カキィィン!と甲高いた火花が散る。凄まじい衝撃がアンヴィルの両腕を襲い、骨が軋むような痛みが走った。しかし、毎日のふいご引きと鍛冶仕事で鍛え上げた筋力が、術も知らない未熟な少年でありながら、魔獣の怪力を辛うじて押し返す。
押し負けたガルグハウンドが体勢を崩した一瞬の隙を見逃さず、アンヴィルは足元の泥を浴びせかけるように泥臭く踏み込み、親父のハンマー捌きをなぞるように、最短距離で剣を突き出した。
ズブゥッ!
鈍い手応えとともに、鋼の刃がガルグハウンドの胸元へ深く突き刺さる。魔獣は激しく身悶えし、どす黒い血を吐き出しながらその場に崩れ落ち、やがて動かなくなった。
「やった……! 倒した、倒したぞ……!」
息を切らしながら、初めて手応えを感じた勝利の余韻に囚われてしまった。だが、そこはまだ戦場の真っただ中だった。
彼の死角――背後の物陰から、先ほど村人をなぎ倒していた小隊長、巨大な鉄甲魔兵『アイアン・オーガ』が、音もなく肉薄していた。身の丈を超える巨大な戦斧が、アンヴィルの細い身体を叩き潰さんと、恐ろしい風切り音を立てて振り下ろされる。
(しまっ――!)
完全に逃げ場はなかった。死の爪牙が目前に迫り、アンヴィルが完全に目をつぶったその瞬間、猛烈な暴風が吹き荒れた。
ズバァァァン!!
猛烈な衝撃音とともに、背後のアイアン・オーガが、自慢の肉厚な鉄甲ごと強引に引き裂かれ、遥か後方まで吹き飛びながら一撃で絶命する。
驚愕して目を開けたアンヴィルの前に立っていたのは、一本の美しい槍を携え、凛とした佇まいで戦場を見下ろす獣人族の少女、リンだった。
「死体の数を数えるのは、戦場が完全に静まり返ってからにしなさい。羽虫を払うような覚悟で魔族の前に立てば、次はお前がその剣で生首を転がされる番よ」
◇
数時間後。魔族の襲撃による騒動がようやく収まり、夕闇が重く垂れ込める村の小さな酒場。
アンヴィルは薄暗い隅の席で、一杯の冷めきったスープを前に、完全に意気消沈して座り込んでいた。
自分の無力さ。いざという時に足がすくんで動けなかった情けなさ。それ以上に、あの激しい炎の中、自分を逃がすために一人で魔族の群れへと飛び込んでいった父親バルカンの、最期の背中が脳裏に焼き付いて離れなかった。
(僕は……ただの拾われ子だ。親父が命を懸けて守ってくれたのに、何一つ、誰も救えやしないんだ……)
手元にあるのは、父から託された一本の、傷だらけの鋼の剣だけ。孤独と、果てしない旅への不安が胸の奥で暴れ、アンヴィルは呼吸の仕方を忘れるほどに自分を追い詰めていた。ポタポタと、堪えきれなくなった涙が、冷たいスープの表面に波紋を作っていく。
そこへ、ドスンと荒々しく対面の椅子に腰掛ける者がいた。昼間、圧倒的な槍捌きで自分の窮地を救った獣人族の少女、リンだった。
彼女が席に着いた瞬間、薄暗く埃っぽい酒場の空気が、一変して張り詰めたような気高さに満たされるのをアンヴィルは感じた。
アンヴィルは思わず、涙の滲む目で彼女の姿を見つめた。
人間のものとは異なる、頭頂部から生えたしなやかで尖った白銀の獣耳が、酒場の喧騒を拾うようにピクリと動く。背後からは、同じく美しい白銀の毛並みを持った長い尻尾が、彼女の感情を表すように静かに揺れていた。
小麦色に健康的に日焼けした肌に、一族の伝統的な紋様が刺繍された、動きやすさを重視したエキゾチックな軽装。切れ上がった琥珀色の瞳は、夜を支配する孤高の肉食獣を思わせるほどに鋭く、それでいて吸い込まれそうなほどに美しい。
まだあどけなさを残す顔立ちでありながら、その佇まいはまさに一国の王女、そして戦場を駆ける苛烈な戦士そのものだった。
彼女は自分の前に、湯気を立てる豪快な肉料理の皿をいくつか並べると、未だに肩を落として俯いているアンヴィルを、その鋭くも切れ味のある瞳でじっと見つめた。
「……いつまでそんな、世界の終わりみたいな顔をしているのよ。見ていてこっちの胃が引き裂かれそうだわ。ほら、飯でも食べなさい。私の奢りよ」
あまりにも深く、哀れなほどに落ち込んでいる人間の少年の姿が、どうにも気になって放っておけなかったのだ。しかし、アンヴィルは力なく首を振る。
「……いらない。僕には、それを食べる資格なんてない。昼間、君が言った通りだ……。僕、あんな生半可な覚悟で戦場に立って、ただ怯えて……親父の剣があるのに、何もできなかった……」
「食べなさいって言ってるの!」
リンがテーブルを強く叩いた。白銀の耳が不快そうに後ろに伏せられ、激しい音が薄暗い酒場に響く。アンヴィルはびくりと肩を揺らして顔を上げる。
彼女はふう、と一つ大きくため息をつくと、少しだけ声音を和げて言葉を続けた。
「死んだ人間は、飯を食べられない。生きてる人間だけが、腹を空かせて、泥をすすってでも、明日へ進む権利があるのよ。……あんたのその剣、ただの人間が持つにしては、随分と分厚くて、泥臭くて……でも、ひどく大切に打たれたものに見えるわ。誰に貰ったの?」
アンヴィルは自分の腰にある剣を見つめた。あの狭く、いつも熱気に満ちていた実家の工房。火床の熱。
「……ドワーフの、親父だ。名前はバルカン。僕は拾われた子どもで、血も繋がってない人間なのに、親父は僕を本当の息子みたいに育ててくれた。その親父の街が魔王軍に襲われて、親父は僕にこの剣を託して……一人で炎の中に消えた。『世界を蝕む魔王をぶち倒してこい』って。それが、親父の遺志なんだ」
アンヴィルは震える声で、飾らずにすべてを打ち明けた。自分がただの無力な人間であること、それでも親父の愛を証明するために、この無謀な旅を始めたことを。
それを静かに聞いていたリンの、琥珀色の瞳がわずかに揺れた。白銀の尻尾の動きがピタリと止まる。彼女は自分の腰にある、一族の意匠が施された美しい槍にそっと触れ、自らの口を開いた。
「……ハッ、お互いに、ろくでもない宿命を背負わされたものね」
彼女は自嘲気味に、しかしどこか気高く微笑んだ。
「私はね、リン。獣人族の王女よ。……だった、と言うべきかしらね。私の故郷も、魔王軍によって跡形もなく蹂躙されたわ。城が燃え、民が虐殺される中、私は生き延びるために、戦士たちの背中に守られて無様に逃げ延びた。この槍だけを握りしめてね」
アンヴィルは息を呑み、彼女の横顔を見つめた。あの圧倒的な強さを誇る彼女もまた、自分と同じ、剥き出しの絶望を乗り越えてきたのだと知った。
「帰る場所を失い、大切な人を奪われ、それでも消えない怒りと約束を胸に抱いて、泥水をすすりながら歩いてる。……あんたのその情けない顔を見てたら、あの日の自分を見ているみたいで、胸糞悪かったのよ」
リンは肉の塊を一つ口に放り込むと、アンヴィルの前に温かいスープの皿をぐっと押し出した。
「だから、食べなさい。あんたの親父さんが遺したその剣は、あんたがここで餓死するために打たれたわけじゃないでしょう?」
「……うん……」
アンヴィルは震える手でスプーンを握り、温かいスープを口に運んだ。喉を通る熱が、凍りついていた少年の心を芯からじんわりと溶かしていく。
涙がまた溢れて止まなかったが、今度はその味の中に、確かな「生」の温もりがあった。あの狭い工房で、父バルカンが作ってくれた世界一好きな肉スープの温かさが、一瞬だけ重なった気がした。
それを見届けたリンは、ふっと満足そうに耳をぴんと立たせ、口元を緩めて椅子の背もたれに体重を預けた。
「いいわ。その不格好で無謀な旅、一人で勝手に死なれるくらいなら、私がついて行ってあげる。私は私の民を救うために、あんたはあんたの親父の遺志を果たすために、魔王の首を獲る。目的は同じよ」
アンヴィルは涙を拭い、まっすぐに彼女を見つめた。
「……ありがとう、リン。僕、強くなりたい。親父の剣に恥じないくらい、絶対に」
「ふん、言うわね。その代わり、明日からの旅の合間には、死ぬ気で私の稽古を受けてもらうから。覚悟しなさいよ?」
こうして、初めての心強い仲間が加わった。アンヴィルはギルドの依頼で情報を集めつつ、毎夜、リンの厳しい突きを木刀で受け、戦士としての肉体と心を鍛え上げていった。




