七、『嵐の予感』
のしのしと風を切って歩く巨漢。その身の丈は二メートル近くある。背は高いが、横にも広い。その体重は二百キロ以上あるのではないか。それだけではない、肩には身長程もある金棒を担いでいる。その重そうな体と金棒を、実に軽々と運ぶその筋力は並大抵のものではない。それだけではない、寒さ本番といかずとも、薄着であれば肌の粟立つこの霜月の往来を、袢纏と褌と言う、実に軽装で平然と歩いている。
その巨漢を見ると、街の人々は一同に身を震わせ、こそこそと隠れ道を開ける。巨漢はそれをいつも通りのニッコリとしたいやらしい目つきで見て、大きな口を両端いっぱいに広げて実に嬉しそうに笑う。そして、とある小さな家の真ん前に構え、
「橘達也! 橘達也はおるかッ!! おるのならすぐに出て来いッ!! この加藤平太の直々のお出ましぞッ!! 出て来ぬかッ! 出て来ぬのなら戸を叩き壊すぞッ!!」
と遠く小山にこだまする程の大声で叫んだ。その騒音の十秒と経たない内に達也が遣戸を開け、
「私が橘達也でございます。これはこれは平太様。一体何用でございましょうか」
と怪訝そうな顔を出した。平太はその細い目をいっぱいに見開き、精一杯厳しい表情を作った。
「よくもぬけぬけとそんな事がほざけるなッ!! 己のやったことを、手を胸に当てて考えてみよッ!!」
平太が、耳が痛む程の声で今一度叫んだ。
周りの家の、気の毒そうな視線が集まる。達也は取り敢えず頭を下げる。が、実際訳が分からない。こんなことをされる憶えなどどこにもない。ああ、いや、などと曖昧な返事をしていると、平太は怒ったように金棒を地面に叩きつけた。ドゴン! と大きな音を出して砂埃を巻き上げる。
「うぬめ! 何とふてぶてしい! 領主様の茶器を盗みおったを、事もあろうに忘れたと申すかッ!!」
身の覚えのない罪状に、達也は、驚き目を剥いて、首を横にぶんぶんと勢いよく振った。
「い、いえ、そんな、そんな事はございません! 何かの間違いでございます! 私が領主様のものを盗むなどと、そんな大それたことをしましょうか! だ、第一証拠も御座いません!」
「何と!? あくまで白を切ると申すか! うぬめが領主様を『作法を知らぬ髭面がびちゃびちゃと茶を啜った所で犬の水飼いじゃ、それならばいっその事茶道に通じた者に売り飛ばしてしまった方が茶器の為だ』などと申し笑っておったとの噂が立っておるのだ! しかし御心の深い領主様はそれを聞いても『なァに、茶の湯を知らぬとは、そのものの言う通りだ。わしも馬鹿にされぬよう、精進せねばならぬ』と仰せられていたと言うのに、まさかあろうことか茶器を盗み、その上とぼけるなどとはな! 領主様には『反省しておるようならばこの事は不問と致す』と仰せつかっていたが、その様な態度を取るとあれば、召し捕って懲らしめねばならん! 来い! 盗人・橘達也ッ!!」
平太は憤怒の表情で達也を見下ろし、金棒を向けた。わけが分からず唖然と聞いていた達也だが、そこまで説明されて、やっと理解できた。
狙いはあくまで三田村優香だ。要するに、彼と優香を引き裂く為の、忠長の馬鹿げた策略だ。
馬鹿げた策略だがしかし、馬鹿には出来ない。つまりは『領主に逆らえば、馬鹿げたことでいつでも黙らせることが出来るぞ』という事である。こんな馬鹿げたメッセージを、平太が馬鹿でかい声で喚き散らせば、簡単に街中に発信できる。つまり滅茶苦茶なら滅茶苦茶な程、下らなければ下らない程効果的である。
達也はギリッと歯噛みした。平太はそれを見て、憤怒の表情を崩し、にやりと笑った。彼もまた忠長の意図を十分に汲んでいたのである。そして、達也にだけ聞こえる声で、
「つまり、マァ、そういうことだ。うぬらが忠長様に楯突く事自体が罪なのだ。分かったか。分かったのなら大人しく付いて来るのだな。なァに、悪いようにはせん。優香とかいう女が忠長様のモノになれば、すぐにでも出してやるからな」
と囁いた。大人しい達也も、流石にこれは我慢の限界と、戦慄し、傍らの樫の木の棒を掴み、振りかざし、平太の頭上へ打ち下ろした。ドゥと、湿った音がした。
平太の頭から、血がだらりと滴る。
達也の腕がガタガタと震えた。平生、慎ましく生きて来た彼は、今まで人に平手の一発も喰らわせたことがない。それがいきなり、熱り立って棒で相手の頭を潰しにかかったわけだから、我に帰れば、罪の意識に震えるのも無理はない。
しかし私はやり遂げなければならない。自分の為、未来の妻の為。そう覚悟を決めて、今度こそは、本当に殺すつもりで、棒をギュッと握り直し、大仰に振りかざし、
「だぁ――――!!」
と喚き立てながら、同じ所に振り下ろした。
もう一度、ドゥと湿った音がした。
先程よりも強い痺れが、腕にまで伝わった。
平太の血が、棒を伝って、棒を握る達也の手を赤く、生温かく濡らす。
出血の量は少ないとはいえ、こんな樫の木の棒で二度も思い切り殴られたのである。常人ならばひとたまりも無い。一応医学に通じている彼である。そう思った。
不図、平太の顔が歪む。
達也の体がふわりと舞った。
何が起こったのか、考える間もなく、達也の家の遣戸を突き破って、畳の上を滑って、付きあたりの壁に背中から激突し、うつ伏せに倒れる。
視線の先には、金棒を担ぎ直し、両の目を三日月形にして笑う、平太の姿があった。達也は平太の金棒に殴られて吹き飛ばされたのだ。
達也は決して小柄な男ではない。平太程はないにしても、平均よりもやや大柄で、肉付きが良い方であり、決して非力ではない。にも係わらず、達也の二発は平太にまったく効かず、平太の腹部への一撃は、彼を風にさらわれた木の葉のように吹き飛ばした。
「あ……が……」
背中を強く打って息が出来ない。それどころか肋骨や、下手をすれば背骨まで折れていて、少しの振動で、心臓が鼓動するたびに、指の先までいたる所に激痛が走る。痛いなどと言う次元じゃない。このまま倒れていたのでは、死んでしまう。
〈能力〉発動。自己修復。
己の中でゴキュゴキュと、内臓が蠢き、骨が動き繋ぎ合わさる音がする。その度に、先程とは異なる激痛が全身を伝搬する。達也は声にならない呻き声を畳の上に投げつける。
しかし平太は憎らしげな笑みを湛えて、ゆっくりと彼の許へ詰め寄って来る。達也は己の体の中の激痛と闘いながら、恐怖心とも対峙せねばならなかった。
平太と達也が一歩とない距離になっても、立てるだけの体力回復さえ出来ていない。
平太の人を見下すような視線を真上から受ける。恐怖にがたがたと震え、かちかちと歯を鳴らし、心臓の鼓動が速くなり、その鼓動毎に、吐きたくなるような痛みが脳に伝わる。
満身創痍、万事休す。
とその時、石が三つ、宙を飛んで、後ろから平太の許へ向かって来た。それに気付かない平太ではない、すぐさま振り返り、石を一つパシッと掴み、一瞬で粉々に潰した。むっと眉尻を上げる。残りの二つも同じように、とはいかず空中でギュンと方向を変えた。
一瞬目を剥いた平太だが、その二百キロの巨体で身軽に跳び上がり、空中で回転して、冷静に、二つの石を同時に、ものの見事に両手で掴み、瞬く間に粉々に握り潰してしまった。
外には驚き唖然と佇む、可愛らしい凜の姿。
平太はもう一度華麗に跳躍し、凜の真ん前に一瞬で移動して、
「小僧、お前は筋が良い。将来有望だ」
と言って、腹部をドンと蹴った。凜の体はピンポン玉のように飛んで、壁に激突し、地面に転がった。ピクリとも動かない凜を見て平太は、おや、やり過ぎたか、と頬をぽりぽりと掻く。
そして平太は、畳の上に、打ち上げられた海草のようにべったりと這いつくばる達也に近付いて、片手でひょいと担ぎあげた。達也は痛みで、そして動かない凜を見て、恐怖で震え続けている。平太はそれに気付き、三日月の様な目をしたまま、
「ハハハ、何を震えることがあるのやら。うぬめがやろうとしたことを、俺が少しばかりやり返したにすぎんではないか。他人を殴っておいて自分が殴られずにおれるなぞ、少々都合が良いではないか。……なァに、殺しはしない。殺してしまっては意味がない。うぬは人質じゃ。あの女の首を縦に振らせる為の、な。勾引してしまってもいいのだが、それでは芸がない。うぬめで取引し、あの女の方から忠長様の許へ向かわせよう、と言う算段だ。どうだ、なかなか粋な計らいだろう。うぬは地下牢で女が寝取られるのをじっと待ち続ければいい」
と囁き、街中に響く高笑いを楽しそうに上げた。




