二十二、『王子様』
シュウは鼻筋に忌々しく皺を寄せて、嘲笑うかのような口調で、
「お前も、その女の色香に惑わされたか。他の男と同様に」
と言った。綾音は、ん? と少し考えて、ああ、と納得したように頷いた。
「そっか、匂いか。通りで。……ま、僕としては、どっちかって言うとピアノの音が気になったんだけどね」
「お前……何も知らずに助けに来たのか? お前はその女の一体何を知っている?」
「……何も。会ったばかりだ」
シュウは実に楽しげに「はははは」と笑う。綾音は黙って聞いている。
「そうか、何も知らぬか!! ならば聞け!! その女はな、数多の男を惑わし、誑かし、数多の男と寝て、時に殺して来た女だ!!」
「ちが……!!」
リコは、その先を続けることが出来ない。まだ精神は惑わされたままだ。自分が本当に〈能力〉を制御する事が出来なかったのか、本当に男を求めていなかったのか、自信が持てない。
「どうだ、そんな女をお前は助けるのか!!」
シュウは問う。綾音は一向に動じない。
「……僕は、別にリコを助けに来たわけじゃない」
「何!?」――顔をしかめるシュウ。
「え?」――目が点になるリコ。
「僕は、リコを盗みに来たのさ」
悪戯っぽく笑う綾音。
ズキュゥゥゥゥンッッッッ!! ――心臓を特大のマスケット銃で撃ち抜かれたような衝撃を受けるリコ。全ての迷いが吹き飛ばされる。
シュウはひとり、忌々しく顔をひきつらせる。
「……ふん! 言葉をどれだけ着飾ろうが変わらん。どうせ貴様もその女の体が目当てなのだろう、分かっている!! 他の男と何ら変わらん!! 所詮、人間なんぞそんなものだ!! ふふふ、ふふふふふ、しかし分かるぞ、その女に夢中になるのもな。その体は確かに蠱惑的だ。そして一度抱けば分かる!! その女の柔らかな肌と、発せられる匂いがどれ程のものかが!! 脳をとろけさせ、一生離れ得ぬ、麻薬だ!! お前もそうだ! そこに惹かれたのだろうがッ!! ピアノの音!? 馬鹿を言うな嘘つきめ!! お前も他の男と同じだ!! 自分の娘を犯したクズ同然の父親と、結局同じ人間だッ!!」
イライラを払拭するように一気に捲し掛けた。
……だが、おかしい。
これだけ酷い事を言っているのにもかかわらず、リコが全然反応を示してくれていない。黒マントを羽織ったまま、きょとんと目を丸くしてこちらを見ている。
〈能力〉発動。〈能力探査〉。
彼の〈能力〉は、相手の〈能力〉を調べ、理解する事。その理解たるや、性能だけにとどまらず、その〈能力〉の弱点さえも探ることが出来る。
八重野綾音。〈能力・音を殺す〉――その名の通り、音を消す事が出来る。弱点……特になし。
シュウはしばしぽかんと口を開けて、肩を震わせた。
「……音を、殺す……? ……ふふ……ふはははははは!! 笑わせるな!! そんな下らない〈能力〉があったものだ!! よくも、よくもそんなひ弱で馬鹿げた〈能力〉で恰好がつけられたものだ!! そんな〈能力〉で、よくも私を殺せると、一瞬でも思えたものだ!!」
「……僕は、あんたを殺さない」
「……何?」
「あんたから、全てを殺す」
「なっ――!?」
シュウから、全ての音が一瞬にして消えた。
遠く響く大砲の音。
住民の不安げな声。
心臓の鼓動。
血の脈動。
虫の息衝き。
雪のしんしんと舞い落ちる音。
鼓膜を震わせる全ての音。その一切が消えて無くなった。
音の闇。
その闇の深さに、驚き慄いて、よろめいた。
綾音が音も無く疾走。その怒りの形相が、一瞬でシュウの眼前にまで迫る。
シュウは右手にレイピアを持ち、左手に防御専用の短剣・マインゴーシュを引き抜き、構える。綾音の、両手に逆手で持った小太刀がシュウを襲う。マインゴーシュを操れば片方は防ぐことは出来るが、しかし相当の重さのあるレイピアで、もう片方の素早い小太刀は防ぎようが無い。懐に入り込まれたのでは相当不利だ。リーチ差で有利にことを運ぶしかない。素早く後ろに跳んで、距離を取る。しかし綾音の足も手も止まらない。人殺しの目が、ただひたすらにシュウの命狙って襲いかかって来る。
押され続けるシュウ。
これは敵わないと、一時撤退。黒マントを羽織るリコを尻目に、ギリリと歯噛みして背走。
糞!! 糞、糞!! もう少しで、後一歩だったのにッ!! 後一歩で手に入れることが出来たのにッ!!
憤慨して逃げ込んだ先は、森。
今宵は新月。
真っ暗闇。
しまった!! ――己の失態に血の気が引くシュウ。
慌てながらも慎重に辺りを見回しながら、ムシッ、ムシッ、と雪を踏みしめる。
……落ち着け、落ち着けシュウ。確かに俺はあいつの姿を見付けることが出来ないが、あいつもまた、俺の姿を捉える事は出来ていない筈!! まだだ……まだ、十分な程勝機はある!!
息を整えて、ゆっくりと歩きながら、上下左右、四方八方に注意を払う。
ムシッ。
ムシッ。
雪を踏みしめる音……。
……そんな馬鹿な。
シュウはやっと気付いた。自分が雪を踏みしめる音が、はっきりと聞こえる。心臓の鼓動が、はっきりと聞こえる。
あいつ……まさか、音で俺の場所を探っていたッ!?
不味い、不味い不味い!!
その時、シュウのすぐ前で、『どさり』と雪が踏み固められる音がした。
「そこかァ!!」
シュウは音のする場所を、レイピアで無闇矢鱈に切りつけた。
彼は、ちゃんと考える必要があった。どうしてそんな音がしたのか。この状況、音を自在に消す事が出来る綾音が、どうしてそんな自分の所在を明らかにするようなことをするのか。
しかし彼は、暗中の地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸に、すがらざるを得なかった。
その音は囮。綾音は音も無くシュウの後ろに立ち、彼の目を切った。
ぎゃあああああああ!!
シュウは懸命に叫んだ。しかし、それが空気を震わせることは無かった。
誰か、誰か、助けてくれ!!
いくら求めても、その声が誰かの耳に届くことは無かった。
恐怖。
無音。
闇。
悪かった、俺が悪かった!! 許してくれ、どうか!! 俺は、本当に、リコを愛していただけなんだ!! どうか頼む、もう、リコのことは諦める、リコにはもう近付かない!!
必死に命乞いを闇に投げかける。これも誰にも届かないのか……。
「……一つだけ聞いておく」
シュウの暗中にただ一つ響く、綾音の声。
かかった!! これこそが、地獄に垂らされた、本物の蜘蛛の糸。必死にしがみつく。
「何でも聞いてくれ、だから、頼む、命だけは助けてくれ!!」
シュウの声が発せられた。
「……あんたとリコの会話は、実の所、微かながらも聞いていた。……で、質問だ。さっきあんたは、僕の〈能力〉が〈音を殺す〉事だと判じたな。どうやらあんたは、他人の〈能力〉がらしいが。……なあ、あんた、あんたがリコを襲った時、リコの〈能力〉を既に理解していて、しかもその〈能力〉を制御できないってことまで、……実は知っていたんじゃないか?」
沈黙。――これが、シュウの答えだった。そして、シュウは振り返り、声のする方をレイピアで突き出した。それは虚しく空を掻いた。
彼は、自ら蜘蛛の糸を切って、自らの体を地獄へと落とした。
綾音は、シュウの両手両足の腱を器用に切った。
あああああああ!!
シュウの叫びは、またしても闇にかき消された。手足が一切動かせなくなって、地にべたりと伏した。
するとどうしたことか、綾音はシュウの服を剥いだ。師走の闇夜の風が、シュウの肌をちくりちくりと刺す。……このままでは、凍え死ぬ。しかし、もがけどもがけど雪に埋もれるばかり。やがて寒さで動きも鈍る。
「闇に溶け、誰に観測されることも無く、この世から消滅しろ」
その言葉を最期に、シュウから全ての音が完全に消えた。
剥き身の素肌に雪が降り積もる。
叫べど叫べど声は出ない。
匂いも何も無い、何も見えない。
冷たさに、触角も次第に死んでゆく。寒いのか暑いのかさえも分からなくなる。
シュウは、少しずつ少しずつ、巨大で深遠なる闇に呑まれていった。
――リコは地にぺたんと座ったまま綾音を待った。不思議と綾音の無事に関する不安は無かった。
……ただ、先程、綾音の前で、シュウに言い返せなかったことを気にしていた。
綾音が来たら、なんて言えばいいのだろう。自分の〈能力〉のこと、過去のこと、いろいろなことをまとめようとして、考えると、頭がごちゃごちゃにこんがらがった。
遠くでは未だにドンパチと威勢のいい音が響いている。
綾音が、姿を現す。考えはまとまっていない。
「綾音……」
リコは不安そうに綾音を見上げる。綾音はしかし、何も言わずに、膝をついて、ぎゅっとリコをしっかりと抱き締めた。それと同時に、遠く響く戦場の声が消えた。
唖然。
「リコ。目を瞑って……今は、今だけは、何も見なくていい。何も言わなくていい、何も聞かなくていいから……」
耳元で優しくささやかれた。リコは綾音の言う通り、目を瞑り、何も見ず、何も聞かず、綾音の温かさと匂いだけに、感覚を澄ませていた。――




