二十一、『ヒーロー』
リコは逃げる。
何処に? 誰から? どうやって?
頭に浮かぶ疑問符を振り切って、雪の降る中を、ただひたすらに走る。せめて、自分を助けようとしてくれた人の犠牲を、無駄にしたくない。その思いだけを胸に、必死に走る。
「いた、リコだ!! 殺せ!!」
ナイフを取り出して、投擲。もう、震えは止まっている。正確に相手の甲冑の隙間に入り込み、突き通す。とは言え、矢張り移動しながらの索敵はかなり精度が悪い。それに、先程から一向に涙が止まらない。涙が凍る程寒い。走り続けるうちに、体力がどんどん消費される。
そして、目的地も定めずに逃げるというのは、単純に心細い。
屋敷から出た時の勢いが、段々と削がれてゆく。
体温が夜風に奪われる。
城から離れるにつれ、明かりが少なくなる。
闇に支配される。
何処に? 誰から? どうやって?
繰り返される疑問符。
逃げ切れたとして、どうやって生きていったらいい?
力が闇にどんどん吸い込まれてゆく。体力が、思考の渦に吸い込まれてゆく。雪の上に、膝をつく。
「見付けましたよ、リコお嬢様」
後ろから、男の声。はっと振り返り見上げると、リコの目に映る、金髪の男。
「シュウ……」
柔らかくしなやかな髪が、風に吹かれてサラサラと揺れる。緋のマントと、髪の一本一本が、僅かな光を捉えて、闇夜にあっても異様に輝く。口元と目元にはにやにやと嫌らしい笑みを浮かべ、リコを見下ろしている。
「お久しぶりですね、リコお嬢様。あの時以来ですね。しかし私は、あなたの事を片時も忘れたことが御座いません」
「シュウ……私もあなたのことを忘れたことがありません。いくら忘れたいと思ってもね」
リコは切れ長の瞳を尖らせ、強気に睨みつける。が、体の震えは隠しきれない。シュウは顔を逸らし、満足そうな笑みを隠す。
「まあ、そんなに邪険にしなさんな。私はあなた様のお命を、お助けしようと申すのです」
「あなた、私を馬鹿にしているの? あまりなめないでもらいたいわね」
リコはナイフをぎゅっと握る。しかしその手は、シュウの姿を見てからと言うものガタガタと震えている。
「ふふ。強がっても駄目ですよ。あなたの味方なんて、城の中に、数人しかございません。あなたの心強い味方であるコズエ様に肩入れしている人間でさえ、あなたは死んで欲しい対象なのですよ。よくご存じでしょう。あなたを殺そうとした人間の中に、コズエ様直属の部下が何人もいた事を。……私と共に生きるか、はたまた死ぬか、あなたに残された道は、それ以外にありませんよ」
「……あなたの望みは、一体何なの。私を助けて、どうなるって言うの。そんなの……私が……私が何だって言うのよ! 私を助けて、私を殺して、何になるって言うのよ!! その為に何人の犠牲が出ているって言うのよ!! 分からないわ!! 全然分かんない!!」
リコは叫んだ。しかしそれはすぐに、深々と降り積もった雪に吸い込まれた。
遠くで闇が、微かに揺れる。
シュウは肩をすくめる。
「……何をおっしゃられるやら。リコ様。はっきり申し上げます。この世の中、命の価値なんてものは、あなたが思う以上に開きがあるのですよ。今日死んでいった敵味方の命を足し合わせても、あなたひとりの命の価値に足りない。そういうものなのです」
「……あなた……一体何を言っているの……?」
「……あなたまさか、ご理解なされない? こんな簡単な事なのに? ……あまり私を失望させてもらっては困ります。
……リコ様、人の命の価値はなにで決まりますか? 性格? 努力?
そんなわけありませんよね。
ご存じでしょう。そんなものでは人の価値を上げる事なんてかないません。そんなもので人生の道筋を変えられる道理はありません。吐息で嵐を動かすような行為です。
では何か? 時、才能、地位です。これはね、全て産まれたときに定まるのです。人生なんてのは、産声と共に固定されるのです。産まれた地位の低さを覆すのも、結局は持ち合わせた才能や産まれた時期の良さです。先程申した努力だの性格だのも、どんな親から生まれどんな親に育てられるのか……つまりは、産まれたときに全て決まるのですよ」
「……それなら……何で私なのよ。才能も地位も、お姉様たちの方が遥かに上なのに。いい加減に、白状して。あなたは何を企んでいるの。あなたは私に何を求めているの」
気丈に振舞うも、体の力はどんどん抜けてゆく。
「……アイが死んだ、との報告を受けました」
「な……ッ!!」
「そしてもうすぐ、ユカリかコズエの片方が死にます。どちらが死ぬにしても、残った方もすぐに殺さねばなりません。戦力を消耗させた後とはいえ、これは結構骨が折れます。……でも、何としても成し遂げなければなりません。あなたを〈女王〉とする為にね」
「……あなたは、本当に、何を言っているの……何一つ分からない」
「……リコお嬢様。私は、あなたを愛しているのです」
リコの体がびくんと跳ねる。
速まる心臓の鼓動。
吐き気に似た不快感。
逃げなきゃ――そう思っても、立ち上がれない。ぺたんと腰をついて、それでも必死にずりずりと後退り。
シュウはそれを嘲笑うかのように、すたすたと簡単に近付いて、リコの頬に触れた。シュウの笑みが、リコの体を震わせる。
「私は、あなたに夢中なのですよ。あの日、あなたと肌を重ねたあの日から……」
「……嫌……」
リコの瞳から涙が溢れる。シュウの笑みは変わらない。昔を懐かしむように目を閉じる。
「あれは、何年前のことでしたか……私があなたの護衛に任命されてすぐのことでした。あの夏の暑い日、私は窓辺でうたた寝をするあなたの香りに引き寄せられました。ああ、あなたのあの蠱惑的なかぐわしさ!! ……あの抗いようも無い欲望の奔出を、私は忘れ去ることが出来ません。そして私は、あなたの求めるがままに、狂ったようにあなたを求めました。二人の欲望の糸の絡みあう、美しくも儚いひと時を過ごしました」
「そんな、違う!! 私は、嫌だって、何度も叫んだ!! それなのに……!!」
「……いいえ、違いません。私は、よく憶えています。私を魅惑するあなたの香りを、快楽に身を任せるあなたの顔を、私を吸い寄せるあなたの肌を……」
「やめて……ちがう……あれは、私の〈能力〉が勝手に……」
「〈能力〉が勝手に暴走して、幾人もの男どもに襲われたとでも? ……嘘おっしゃい。詭弁ですな。あなたは、求めたのですよ。男たちを。快楽を、安心を、都合のいい道具を!! そう、姉たちと同じようにね!!」
「ちがう……ちがうの……リコは……リコはそんなことしないの……リコはわるくないの……」
頭を抱え、うずくまり、必至で首を横に振り、大人に咎められた幼児のようにひたすら「ちがうの」を繰り返し続ける。シュウは畳みかけるように詰め寄って、吐息もかかる程近くで、目を剥いて必死の形相でリコの瞳を覗き込む。
「いいえ、何一つ違わない!! 私は、あなたに惑わされた愚かな男の一人に過ぎない!! あなたに人生を狂わされた、惨めな男の一人に過ぎないのです!! ……そう、罪の意識に苛まれ自害した、あなたのお父上と同じようにね!!」
リコの顔がゆがんだ。うわぁと大声を上げて子供のように泣いた。必死になって我慢していたのに、精一杯耐えていたのに、決壊してしまった。シュウの言葉に、リコの自我が懐落してしまった。シュウは立ち上がって、泣き崩れるリコを不敵な笑みをたたえ見下していた。
どれ程泣いていたのか分からない。
やがて、泣き疲れたようにひっくひっくとむせび泣くリコに、シュウは手を差し伸べて、
「さあ、私と共に行きましょう。私はあなたに心奪われた身。あなた無しで生きていくことは出来ません。そして、あなたもまた、最早私なしでは生きていくことかなわぬのです。リコ様。私はあなたを守ります。どうか私とあなたで、共に生きてゆきましょう。どうかこの手を取って下さい」
と優しく微笑んだ。リコは顔を上げて、生気のない虚ろな瞳でシュウの笑みを見た。
「……シュウが、リコを守ってくれるの?」
「ええ、勿論です」
「……シュウと一緒にいれば、もう苦しまなくて済むの?」
「ええ。私が、あなたを苛む全てから、命をかけて遠ざけて見せます」
リコの手が伸ばされる。手と手の距離が、段々と縮まる。
もう少し、もう少しだ。もう少しで、全てが手に入る!! シュウは笑い出したいのを必死に我慢して、急く心を精一杯制す。
手と手が触れあうその刹那。ビュンと空気を切り裂く音に、リコは驚いてはっと我に帰った。
「ぐあああああ!!」
シュウが悲鳴を上げる。その差し伸べた右手から血が滴り落ち、暗闇に落ち、地の雪を生温かい血で溶かす。その手に突き刺さるのは、リコの見馴れぬ武器。つい最近になって初めてお目にかかった武器。手裏剣は、リコのすぐ耳元をかすって、シュウの右手に深く食い込んだ。
闇夜に音も無く現れた黒マントは、上からリコに覆いかぶさった。
「貴様ァ!!」
シュウは手裏剣が手に刺さったままで、腰の細剣・レイピアを抜き、その黒マント目掛けて突いた。しかしそのレイピアは、黒マントが取り出した小太刀に軌道を上手く変えられて、誰にも突き刺さることなく宙を掻いた。黒マントはリコを抱え、攫うように後ろに跳躍した。
唖然とそれを見送るシュウ。
「ごめん、リコ。遅れた」
黒マントはにっこり笑って、リコをふわりと雪の上に乗せて、黒マントを脱いで学生服になり、リコに黒マントを優しく羽織らせた。
「あ、あなた……どうして……?」
「聞こえたからね、リコの叫びが」
「ふざけるな、誰だ貴様!!」
この学生服は誰か? そんなものは決まっている。
「一応名乗っておくよ。八重野綾音、どこにでもいる盗賊さ」
「あ……綾音……」
リコは初めてその名を知った。綾音は優しくリコの頭を撫でた。無性に恥ずかしい。子供じゃないんだから。リコは頬を赤らめた。そんなリコの様子を見て一安心した綾音は、
「ちょっと待っててね。すぐに片付けるから」
と言って、振り返り、人殺しの目をシュウに向けた。




