十、『時期じゃない』
リコは灯の幾つも点る、豪勢な自分の家に着いて、何故か大きな溜息を一つ。
「まったく、送んなくていいって言ったのに。……ま、一応お礼は言っとくわ」
ドアを開けて室内へと入ってゆく。綾音は傍らの木から、音もなく降りる。
まーたばれちゃったよ。音は完全に消したのに、姿も見られてない筈なのに、どうして分かったんだろうなー。動きだって素早くてナイフ投げも正確。
「十分強いや。この間だって、別に僕が助けなくっても平気だったんじゃないかな。……なあ、オッサン」
綾音は振り返り、人殺しの目を暗中に向けた。暗闇の向こうから聞こえる、コツコツという足音。そして、街灯の明かりが届き、ぼんやりと照らされる、一人の男。
黒の背広に黒の皮靴。身長は自分より低いが、小太り。褐色の脂ぎったスキンヘッドには、〆の字の向う傷。眉が無いから表情が分かりにくいが、その下の瞳はどこか子供っぽさが感じられる。歳は五十くらいだろうか?
男は背広の胸ポケットをまさぐる。綾音は眉間に皺を寄せて身構える。そして……ポケットから煙管とマッチを取り出して、吸いだした。意表を突かれ口をへの字に曲げる綾音。
煙管を吸う度に、ぽうっとその先が静かに赤く灯る。そして、その分厚い唇から煙と水滴を含んだ白い息が吐き出され、夜風に靡き、消える。綾音はその動作の一つ一つの一切に視線を絡ませる。微動だにしない綾音とは対照的に、気楽に、ゆったりと煙草を吹かす、その男。
「……安心しな、今日は何も起こりやしねえよ」
億劫そうな、もたもたとした聞き取り難い声。
「……この間の襲撃はあんたの差し金?」
懐に手を入れ、紐付きのクナイに手をかける。男は動じず、
「俺なら、もっと上手くやるさ」
と鼻で笑う。
綾音の瞳が鋭く尖る。しかし男は構わず、吸い終った煙管を傍らの木に乱雑にコンコンと叩き、懐に仕舞い、綾音に背を向けた。綾音が殺気を迸らすにもかかわらず。
――隙が無い。
攻撃をためらう。
「坊主、今日の所は帰んな」
男から、もたもたとした、それでいて威圧感のある声が発せられる。
「……で、帰った所で襲撃。ってのが無いとでも?」
綾音が肩をすくめ平静を装うも、男はぎろりと子供のような目を尖らせる。
「おめえだって、怪しい者ってんじゃ、俺といい勝負だろ。何、正義の味方ぶってんだ。調子付くなガキが。……それに、恐らく今は気を張って、お嬢は俺やお前の気配を察知している。そんなとこにずっといたんじゃ、休まる暇も無ェ。お嬢の体に障る。さっさと去りな」
綾音は黙っている。
「……ま、おめえが活躍すんのはもうちょっと後だ。せいぜい今のうちに、いつでもこの街を出れるよう準備しとくんだな。まだ不十分なんだろう? 手遅れになっても知らねえぜ」
「……あんた、何を考えて、――ッ!?」
男は跳んだ。綾音は懐のクナイを投擲。が、その切っ先は誰も捕えることが出来ず、ただ宙を掻いた。
男の姿は消えていた。
顔をしかめ舌打ちし、紐をぴんと引っ張ってクナイを回収。
「何なんだ……」
頭を捻っていくら考えてみても、街に着いて日が浅く、リコ自身の事もまったく分かっていない綾音に答えを出せるわけが無い。振り返り、屋敷を眺める。白い石壁は今、橙の灯にぼんやり染められている。不図、不思議な匂いがした。初めて侵入した時に漂っていた匂いだ。
……ま、確かに僕だって不審者だもんな。
綾音は溜息一つついて、音も無く、闇に溶けて消えた。




