八、『泥棒と子猫』
綾音は、もう少しこの街に関する情報が欲しくて(あとお金も欲しいから)、かといって先日のように目立つのもこりごりなので、人の少ない通りで一人、座って笛を吹いていた。しかしそれが災いして、誰一人として綾音の笛を聞きに立ち止る者はいなかった。
「しょーがない。別の所に行こうかな」
綾音は諦めて、立ち上がり場所を変えようとしたその時。
「……この前の泥棒?」
女の声。褐色で瑞々しい肌。小さい体と大きな胸。三つ編みの長い墨色の髪。
真ん丸の眼鏡越しに、切れ長で凛とした瞳と目が合う。
先日とは打って変わって地味な服を着た、リコの姿。
綾音の表情が一瞬にして固まる。
「……えーっと、誰か人違いじゃありませんか?」
「……そんな珍しい恰好している人、他にいるかしら?」
リコは、じとっとした瞳で、黒の袴姿の綾音をねめまわす。
「あちゃー……」
言い訳が一向に思いつかない。リコは袖の裏からナイフを取り出し、構える。
「さて、言い残す事があるかしら?」
「ちょっと待って、まだ何もしていないのに!!」
「あら、これから何かしようっての?」
「そうじゃなくって!!(そうだけど!!)」
綾音は首を横に振って全力で否定する。リコはそんな綾音の姿に、呆れたように溜息をついて、
「……冗談よ。一応この前は、助けて貰ったみたいだしね」
と言ってナイフを素早くしまった。
「……はえ?」
綾音は心底意外そうに、間抜け面をリコに向ける。そのあまりに無防備な顔にリコは、果たして本当にこの男が昨日自分を助けてくれた張本人なのか、自信が無くなってきた。呆れられた当の本人は、それを『何か知らないけど許された』と解釈して、ほっと肩を撫でおろし、
「あ、うん、そっか、よかった。てっきり、部屋ん中で火薬使った事怒られるのかなーって思った」
と笑顔を向けた。
「……あれでピアノ吹っ飛んだけどね」
「あ」
リコのじとっとした視線を受け、綾音の笑顔が瞬間冷凍。
その硬直した何とも間抜けな顔に、リコはつい、ふふっと吹き出してしまった。しかし綾音の方は、顔を青くして、何度も頭を下げて、
「ほんと、ごめんなさい! 何と言うか、僕が弁償出来るもんじゃないだろうし、お金払ってどうにかなるもんでもないだろうけど、本当に、ごめんなさい!」
と謝りだした。流石にこの展開は意外過ぎて、リコは目を丸くして、綾音の後頭部を見下ろして、どうしたもんかと考える。
……この人、私の所に物を盗みに来たんじゃないの? 何で物を壊した事謝ってんの? いや、そもそもどうして私は助けられたの?
えーっと……私は、どうすればいいんだろう。
もう、全然分からない。
そうこう考えて、手をこまねいていると、やがて礼を言う機会が逸した事に気が付いた。
そして、静寂。
実際には近くの工場でカチンカチンと威勢よく鋼を鍛える音や、声を張りあう男達が喧騒を作っているのだが、それらは一向に二人の頭に入らない。お互いがお互いの声を待っている。
何やってんのよ。いえ、このままじゃ駄目よ。いい加減に、どうにかしなきゃいけないわね。
話題を探す。不図、綾音の右手に握られている篠笛に気付く。
……フルートかしら? そう言えばさっきまで、ここで座ってこれを吹いていたわよね。
「そうね……あれは名のある職人が作った品だし、あなたじゃ弁償出来そうもないわね。もっとも、弁償させようとしたら、あなたどうせどっかから、何かしら盗んで来なきゃ駄目でしょう?」
「あう……」
説教口調のリコと、項垂れる綾音。
「だから……あの……そうね……ねえ、その……その、聞かせてくれない? それ」
「え?」
リコは頬を染めながら、綾音の篠笛を指差す。綾音は不思議そうに首を傾げさす。
「……嫌なの?」
「う、ううん!! そんな、全然」
(本当言うとちょっと恥ずかしいけど)
綾音はそう思いながらも、そのくらいで許して貰えるならば、と首を横に振って、覚悟を決める。
篠笛を口に持って行く。口と、左右の親指の三点で笛を固定。と同時に綾音の目が細まる。
瞬時に、綾音は自分の世界へと入った。もう、恥ずかしさなど微塵も感じていない。
か細く、弱弱しく、それは始まった。リコはそれを聞いて「ん?」と眉をひそめる。普段聞き慣れない調和の取れていない音階と、その不思議な、震えるような響きが、どうにも馴染まなかった。どうにも肌に合わなかった。
しかし、次に高く澄んだ音がつんと響いた時、それが全部吹き飛ばされた。むしろその違和感がプラスに作用し、リコの心を奪った。知らず、息を飲んだ。
何だろうこれ。不思議、と言う以外に言葉が見つからないわ。整然と乱雑が同居している。冷たさと温かさが、溶け合わさらずに交じり合っている。光と闇が、同じ所に同時に存在している。まるで、人が作った曲ではないみたい。……いいえ、そんな筈はない。そんな筈はないのだけど……。
あり得ない事が、今ここにあり得てしまっているような。
――しかし次第に綾音の笛の音は、そのようなリコの雑多な思考までも奪った。




