一、『新しい街ですか。歓迎しなさい』
人も無き國もあらぬか吾妹子と携ひ行きて副ひてをらむ
万葉集・四巻七百二十八 大伴家持
――人にとって、一番幸せな場所とは何処だと思う?
この世の中はね、人が生きるにはあまりに寂し過ぎるの。
皆、それを自覚しながら、当たり前に思いながら、それを他の事でごまかして、埋め合わせて、何とか生きているの。
ねえ、一番幸せな場所とは、何処だと思う? 多くの人に囲まれ、寂しさを完全に消し去ることが出来る場所? それともいっそ、完全に独りで、寂しささえも感じることが出来ない場所?
……ねえ、美矢実、綾音、あなた達は、旅立って、どちらを目指そうというの?
孤独な王か、孤独な世捨て人か、どちらにしたって大差ないわ。結局人間の作る世の中なんて、あまりに不完全で、あまりに不都合なのよ。
それともあなた達は単に、旅に寂しさを紛らわそうというの?
ねえ、美矢実、綾音、このあまりに寂し過ぎる世の中に、一体何を期待しているの?
あなた達は旅に、流浪の果てに、何を探そうというの?――
美矢実の脳裏に浮かぶ、姉の言葉。
底なしに強くて、優しくて、温かくて、それでいて容赦なくて、際限なく冷たい、そんなお姉ちゃんが、旅立ち前の私達に投げかけた、問。
私達はその問に、じっと黙ったまま答えられなくて、てっきり旅人になるのを許してくれないのだと思った。
それでもお姉ちゃんは、俯く私達を、その私達よりもずっと小さな体で、ぎゅっと抱き締めてくれて、
「体には気をつけるのよ?」
と言って、涙を流しながら送り出してくれた。
お姉ちゃん、私達は、何かを探す為に旅をするんじゃないの、今ここから逃げ出す為に、旅をするの。
私はそれを、言えなかった。言えなかったけど、……きっとお姉ちゃんには、全部分かっていたと思う。
それでも私達を送り出してくれた、温かくて、冷たい、大好きなお姉ちゃん。
お姉ちゃん、私達は、旅立ってから少しの年月しか経っていないけど、少しは変わったわ。
少なくとも今は、逃げる為だけに旅を続けているわけじゃない。
確かに逃げているけど、ちゃんと、前には進んでいると思う。
何かを、探したいと思っている。
そして、今、ここで。――
「……お姉ちゃん、悪いけど、もう見つけちゃったわ」
美矢実は暗闇の中で、誰に聞かせる訳でもなく呟いた。
――温かで、寂しくなくって、あまりに幸せで、ここにずっと留まっていたいと思う場所。
「それは……布団の中よ!!」
美矢実は、宿屋のベッドで、布団を頭までかぶり、じっと丸まってぬくぬくと温まっていた。
十二月。外では大粒の雪が舞い落ちている。
うふふ、うふふふふふ。どうして今まで気がつかなかったのかしら。こんなに幸せな場所がすぐ側あるのに、一生ここにいてもいいと思える場所が、こんなにも近くにあったのに。
そうよ、旅なんて、必要無かった。
幸せは、すぐ足元にあった。
私は今、――
宇宙の真理に触れたわ。――
「いい加減に起きないかいッ!!」
轟音。宿屋全体を激しく揺さぶる、爆音と言っても差支えない程の。
そして引っぺがされる美矢実の布団。
「ぐげっ!!」
布団にくるまっていた美矢実は、ころんと転がって、ふかふかのベッドから硬い木の床に落ち腰を強く打って、蛙の鳴き声のような悲鳴を上げた。美矢実の美しくも長い白髪は、ぼさぼさととっ散らかっている。
「な、なんなのよ……」
美矢実が顔を上げると、その轟音の主である、この安宿の主でもある、茶色のスカートと白いエプロン姿で恰幅のいい女が、褐色の、鷲鼻で皺くちゃの顔で、ぎょろりと威嚇するような視線を、腰を打った痛みで涙目になった美矢実に向けていた。
そして、ずかずかと歩きだし、しっかりと光を閉ざす木枠の窓を、いっぱいに開け放った。外から陽の光と、ひんやりとした外気が入ってきて、美矢実の体中の毛穴を突き刺す。
「ぎゃー!! 寒い、寒いわ! そんな、こんなのってないわ!! 人の所業じゃない!!」
急いで掛け布団にくるまろうとするも、宿屋の主はそれを許さない。がばっとそれを奪い取って、のしのしと外へ出ていってしまった。
唖然と床にぺたんと座りながらそれを見送る美矢実。そして女はすぐに戻ってきて、ぽかんと口を開けている美矢実の姿を見て、溜息をつき、のしのしと歩み寄って、もう一度ぎょろりと威嚇する様な視線を向ける。
美矢実は、気圧されつつも気丈に睨み返して、
「何よ!! 客に向かってその態度は!!」
と叫ぶ。皺くちゃな顔の女は、その美矢実の叫びに、きょとんと眼を丸くし、もう一度呆れたように溜息を吐き、息をすうっと吸った。
あ、不味い。これはまた、――
「何よじゃないよ!! 今何時だと思ってんだい!! もう昼はとっくに過ぎちまってんだよ!! それなのにいつまでもいつまでもぐーすかぐーすかと……オイ、聞いてんのかい!!」
その大声は、到底人が作れるような代物ではなく、美矢実の体の隅々まで浸透し、骨が軋む程響いた。
「……聞いてます、聞いてますから、ホント、許して下さい」
美矢実は必死で耳を抑えうずくまりながら、力の無い声で必死に許しを請うた。
この安宿店主・ミエの〈能力〉・〈大声〉。寝起きにはきつい。
「まったく、一日中いられたんじゃ布団も干せやしないよ!」
能力を解除しての声も十二分に大きく、美矢実の頭をガンガンと震わせる。
「はい。本当にすんませんでした。反省してます。許して下さい」
「まったく。……あんたは本当にあの綾音って子と姉弟なのかい? あの子はいい子だよ。あんなしっかりした気がつく子はそうそういないよ。朝も早く起きて、元気に挨拶してくれて、旅の準備に市場に行って、帰ってきたら何と『しばらくお世話になるから』って、お土産まで買ってきてくれて」
「……チッ、余計な事しおって。前は『お金は大切にー』とか生意気言ってたくせに。実害被るの私だし!」
「……」
「あ、いえ、いえ、何でもありません。全て私が悪うございました。善処いたします。弟を見習って早く真っ当な人間になろうと思います所存です」
美矢実は襦袢姿で、座ったまま頭を下げた。ミエはそれを見下ろしながら、三度目の溜息をついた。
「……まったく。さっさと着替えて降りてきな。スープが冷めちまうよ」
「はーい」
ミエは美矢実に背を向けて、部屋の出口に向かった。その後ろに美矢実は舌を出して、あっかんべーをした。ミエが振り向くと、へらへらとした笑顔に戻っていた。ミエは、四度目の溜息をして部屋を出ていった。
……流石に、そこまで呆れられる筋合いはないんじゃない? お金はちゃんと払うし、お客あっての商売でしょう? うう、酷い。……
しょぼんとしながら顔を上げて時計を見ると、未の刻(大体午後二時)を指し示しているのが見えた。ぱちくりと目を瞬く。
えっと、昨日寝たのが亥の刻(午後十時ごろ)だから。えっと。
……あー、こりゃ寝過ぎたわ。よく昼ごはん残しておいてくれたわね。
自分の所業に呆れながら溜息をつく。そして、いつもの小袖に腕を通す。よく冷えている。ぶるりと体を震わせる。窓から外に目をやると、屋根にちらほらと積もる雪と、そんな中普通に談笑する、褐色の肌の男達が見える。どうやらこの地方では雪は珍しいものではないらしい。
二人がこの街についた時、随分と発展しているな、と感心したものだ。先月逗留した〈小谷〉の街よりも遥かに整備されている。
整然と並べられた四角く大きい家の数々と、煉瓦で補填され沫雪に薄化粧された通り。窓から身を乗り出し眺めると、中世西洋風の、塔のたくさん建っている石造りの城が見える。
……あの中にどんなお宝があって、どんな人間がいるのか。
恐らく、綾音がそれも含めて探っているのだろう。
「願わくは、下衆と金持ちがいっぱいいてくれますように」
そう、白い息を吐いて、神様以外の何ものかに祈りを捧げた。




