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第9話 本日限りで辞めさせていただきたいのです

 翌朝。レオンハルトはいつもより早く調査室へ着いていた。


 机の上には処理すべき書類が積まれている。それでも、今朝ばかりは一文字も目に入らなかった。何度も時計へ視線をやり、扉の向こうから足音が聞こえるたびに顔を上げてしまう。


 今日、エミルに想いを伝える。

 昨夜から何度も繰り返した決意だった。


 婚約については、先方と話して破談にするしかない。別の相手へ心を向けたまま結婚する方が、相手の令嬢に対してよほど不誠実だ。


 男の自分がエミルを好きになった。

 そのこと自体、レオンハルトは何もおかしいと思わなかった。

 

 だが、男である自分から好かれて、エミルはどう思うか──

 それは分からない。


 昨夜、これ以上構わないでほしいと言われたばかりだ。それでも、何も伝えずに諦めることだけはしたくなかった。


 扉が開いた。


「おはようございます」


 聞き慣れた明るい声に、レオンハルトは反射的に立ち上がった。


 エミルはいつもの平服に身を包み、深く帽子をかぶっていた。顔色は昨日より幾分よくなっている。しかし、その表情にはどこか硬いものがあった。


「体調は」


「もう大丈夫です。昨日はご心配をお掛けしました」


「いや」


 レオンハルトは席を離れ、エミルの方へ歩み寄った。今ならまだ、周囲の者たちは揃っていない。


「少し、話がある」


 エミルの肩がわずかに揺れた。


「私も、お話ししたいことがあります」


「そうか」


 もしかすると、昨夜のことについてだろうか。期待してはいけないと思いながらも、胸が早鐘を打つ。


「では、私から――」


「あの!」


 エミルが声を重ねた。


 レオンハルトは言葉を止め、続きを促す。


「どうした」


 エミルは胸元に抱えていた鞄から、一通の封筒を取り出した。両手で握りしめるようにして差し出す。


「こちらを、お受け取りください」


 白い封筒の表には、丁寧な文字で「退職願」と書かれていた。


 レオンハルトは、しばらくその文字を理解できなかった。


「……これは」


「本日限りで、こちらを辞めさせていただきたいのです」


 聞き間違いかと思った。


 昨日まであれほど懸命に働き、誰よりもこの場所で役に立とうとしていた青年が、どうして突然そんなことを言うのか。


「理由を聞いても?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


 エミルは視線を落としたまま答えない。


「仕事がつらいのか。誰かに何か言われたのか。それとも、まだ体調が戻っていないなら、しばらく休んでも構わない」


「違います」


「では、なぜ」


 問い詰めるつもりはなかった。それなのに、言葉が止まらない。


「君はここで働くことを楽しんでいたはずだ。皆も君を必要としている。私も――」


 私も、君を必要としている。

 そこまで言いかけて、飲み込んだ。


 エミルは封筒を差し出したまま、ぎゅっと唇を噛んでいる。


「申し訳ありません。でも、もう決めたことです」


「昨日のことが原因か」


 エミルが顔を上げた。

 薄碧の瞳が揺れている。その表情だけで、答えは分かった。


「私が手を握ったことを、不快に思ったのなら謝る」


「違うんです!」


 今度はエミルが強く否定した。


「室長は、何も悪くありません。悪いのは、私です」


「君が?」


「私は……ここにいてはいけない人間なのです」


 レオンハルトには意味が分からなかった。


「エミル、私のことが嫌だと言うのならはっきりとそう言ってくれ」


 エミルは目を伏せた。長い沈黙のあと、かすかな声で答える。


「……好きな人が、いるんです」


 レオンハルトの指先から、力が抜けた。


 そうか。

 やはり、自分ではなかったのだ。


 昨日の涙も、「これ以上構わないでほしい」という言葉も、私を拒絶してのことだったのだ。だとすれば、自分が想いを告げることは、彼をさらに困らせるだけだ。


「分かった」


 その言葉を口にするだけで、胸の内側が裂けるようだった。


 エミルが驚いたように顔を上げる。引き止めてほしいとでも思っていたのだろうか。そんな都合のよい期待を抱きかけた自分を、レオンハルトはすぐに戒めた。


「退職を受理する」


 レオンハルトは差し出された封筒を受け取った。


 受理するには、室長の魔力印が必要だった。レオンハルトが指輪を紙へ触れさせると、淡い碧色の紋章がゆっくり浮かび上がる。


 それは、エミルとの別れが確定した印のように見えた。


「……ありがとうございます」


 エミルは深く頭を下げた。


 帽子の奥から、紫色の髪が一筋だけこぼれ落ちる。いつもなら直してやりたいと思うのに、今日は手を伸ばすことができなかった。


「これまで、本当にお世話になりました」


「こちらこそ、助かった」


 あまりにもよそよそしい言葉しか出てこない。


 行かないでほしい。

 自分を選んでほしい。


 そんな身勝手な言葉が喉元まで込み上げていた。それでも、好きな相手がいると告げたエミルへ、自分の気持ちを押しつけることなどできなかった。


 ◇◇◇


 エミルは自分の机へ向かい、少ない私物を鞄へしまい始めた。出勤してきたノアやルークたちは事情を知って驚き、何度も理由を尋ねていたが、エミルは「家の都合です」と笑ってごまかした。


「せっかく仕事を覚えたところなのに」


 ルークが残念そうに言う。


「また遊びに来なさい」


 ミレイユも珍しく手を止め、まっすぐエミルを見ていた。


「はい。皆さん、本当にありがとうございました」


 笑っている。

 けれど、その瞳は今にも泣き出しそうだった。


 レオンハルトは執務机から、その姿を見つめることしかできない。


 しばらくして、エミルは鞄を抱え、調査室の入口で振り返った。


「室長」


「何だ」


「私を雇ってくださって、ありがとうございました」


 その笑顔を、レオンハルトはきっと忘れないだろう。


「ここで働けたこと、ずっと忘れません」


「……そうか」


「さようなら」


 扉が静かに閉じた。


 誰もいなくなった机の上には、エミルが毎朝使っていた筆立てだけが残されている。


 レオンハルトは手元の退職願へ目を落とした。


 自分が初めて愛した相手とは、もう二度と会うことはない。 

 その事実を受け入れるまで、しばらく時間がかかりそうだった。


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