表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/12

第10話 忘れなきゃ

 屋敷へと戻り、私室で令嬢の平服へと着替え終えたときのことだった。

 扉がノックされ、開くと兄エイドリアンの姿があった。


「クラリス、少し話がある」


「……はい」


 二人は応接室へ移った。


 扉が閉まると、エイドリアンはクラリスの顔をじっと見つめた。


「顔色が悪いな」


「少し疲れただけです」


「そうか」


 兄は責めなかった。

 理由も聞かなかった。

 ただ、静かに頷くだけだった。


 その優しさが、今は胸に痛い。


 クラリスは膝の上で両手を握り締めた。


「お兄様」


「何だ」


「お願いがあります」


 エイドリアンは黙って続きを待つ。


 クラリスはゆっくり顔を上げた。

 その瞳には、もう迷いはなかった。


「もう、お兄様の言うことには逆らいません」


 静かな声だった。


「自立したいなどと、夢物語のようなことも言いませんわ」


 一度言葉を切る。


「一生屋敷から出るなと言われればそうします」


 エイドリアンは何も言わない。


「だから……」


 クラリスはぎゅっと拳を握った。


「どうか婚約だけは、破棄してください」


 その願いは、震えるほど真剣だった。


 エイドリアンは妹を見つめる。


 ほんの数週間前まで、「婚約なんてお断りですわ!」と勢い良く宣言していた少女が、今はすべてを諦めたような顔をしている。


 何があったのか。

 誰かに傷つけられたのか。


 このところ、妹が屋敷を抜け出してどこかへ行っていたことにエイドリアンは気づいていた。だが、気づかないふりをしていた。


 妹には彼の『転移の魔力』の加護を施している。身に何か起きたときは、エイドリアンの元に知らせがゆく。エイドリアンが妹の元に転移することも、妹をエイドリアンの元に転移させることもできる。


 他にも、考えられるうる限りの対策を取っていたし──なにより、明るく楽しそうな妹の様子を見ていると、咎めるのは酷だと思ったからだ。


 だがしかし、本音を言えば今すぐ相手の名を聞き出し、妹を泣かせた人間のもとへ乗り込みたかった。けれど、それをすればクラリスはますます口を閉ざすだろう。

 今必要なのは問い詰めることではなく、妹の心を守ることだ。


 長い沈黙のあと、エイドリアンは静かに口を開いた。


「……分かった」


 クラリスがゆっくり顔を上げる。


「本当ですか」


「ああ」


 エイドリアンは小さく頷いた。


「実は、先方からも婚約について考え直したいと話が来ている」


 クラリスは目を伏せ、小さく笑った。


 そうよね。

 当然だわ。


 一度も会おうとせず、婚約者を避け続けた私なんて。

 誰だって嫌になる。

 こんな不誠実な婚約者など、望む人はいない。


 胸は痛んだ。

 それでも、それでいい。

 これで誰も傷つかずに済む。


「ありがとうございます、お兄様」


 クラリスは深く頭を下げた。


 その姿を見ながら、エイドリアンは胸の奥が締め付けられる思いだった。


 先方からの手紙には、こう書かれていた。


『婚約について、一度改めてご相談したく存じます』


 理由は書かれていない。


 だが親友の性格を知るエイドリアンには分かっていた。


 あいつは一度決めたことを、軽い気持ちで覆す男ではない。

 きっと何か理由がある。


 そして。

 妹もまた、何かを抱えている。


 ◇◇◇


 数週間が過ぎた。


 クラリスは以前のように屋敷で静かに暮らしていた。


 もう男装をすることもない。

 朝になれば庭を散歩し、昼は刺繍や読書をし、夕方には兄と食卓を囲む。

 誰が見ても、理想的な侯爵令嬢だった。


 それでも。

 時折、窓の外を見つめてしまう。


 この時間なら、皆さん仕事をしている頃かしら。


 ルークさんは今日も騒いでいるのかな。

 ミレイユさんは鑑識室へ籠もっているかもしれない。

 ノアさんはまた書類に埋もれているでしょうね。


 そして。

 室長は。


 そこまで考えたところで、クラリスは首を振った。


 もう思い出してはいけない。

 忘れなくては。


 あの場所も。

 あの人も。


 コンコン。


 その時、部屋の扉が叩かれた。


「クラリス」


 エイドリアンだった。


「来週、宮廷舞踏会が開かれる」


 クラリスの肩がぴくりと震える。


「今回は王太子殿下もご臨席なさる。侯爵家として欠席はできない」


 静かな口調だった。


 クラリスはしばらく黙っていた。


 やがて小さく息を吐き、ゆっくりと頷く。


「……分かりました」


 兄のために、家のために生きる。

 そう決めたのだから。


 けれど、その舞踏会が、自分の運命を大きく変える一夜になるとは、この時のクラリスはまだ知る由もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ