第8話 これ以上、私に構わないでください
休日の朝。
アーデン侯爵家の応接間には、大きな木箱がいくつも並べられていた。
「すべて、お嬢様へのお届け物でございますよ」
侍女の後ろには、美しい花束や菓子、上質な紅茶の缶、王都でも人気だという菓子店の焼き菓子まで並んでいる。
クラリスは寝台の上で、力なくそのきらびやかな光景を見渡した。
こんなにたくさん。それも、私の好きそうなものばかり。
まだ一度も会っていない婚約者なのに。
きっと、お兄様が教えたに違いない。余計なところだけ仕事が早いのだから。
兄のエイドリアンが、寝台の端にそっと腰かけた。
「クラリス」
「……はい」
「本当にいいやつなんだ。会えばきっとお前も気に入る」
クラリスはゆっくり首を横へ振った。
「申し訳ありませんが、お会いするつもりはありません」
いい人。
きっとそうなのだろう。
兄がここまで言うくらいなのだから、人柄は保証されているに違いない。
でも。
私は──
胸の奥から込み上げてくる苦しさに、クラリスは俯いた。
「ごめんなさい」
それだけ言うのが精一杯だった。
「少し……気分が優れませんので、ひとりにしてください」
◇◇◇
一人になった寝室で、クラリスは枕に深く顔を埋めた。
「どうして……」
ぽろりと涙がこぼれた。
「どうして、好きになってしまったの」
思い浮かぶのは、濃い紫の髪。
澄んだ碧い瞳。
穏やかな笑顔。
優しく手首へ触れてくれた温もり。
そして。
『彼女は私の婚約者だ』
あの言葉。
任務のための演技だった。
そんなことくらい分かっている。
分かっているのに、あの一言が何度も胸の中で繰り返される。
「……駄目」
首を振る。
「忘れなくちゃ」
でも忘れようとすればするほど、レオンハルトの顔ばかり浮かんでしまう。
その日、クラリスは部屋から一歩も出られなかった。
朝食もほとんど喉を通らず、保安局へも初めて欠勤の連絡を入れた。
◇◇◇
「エミルが休み?」
翌朝。
レオンハルトはノアから報告を受け、思わず聞き返した。
「はい。体調を崩したそうです」
「そうか……」
たったそれだけの返事だった。
だが、机へ向かっても書類が頭へ入ってこない。
昨日、無理をさせすぎただろうか。
あのあと一人で帰らせたのは失敗だったか。
次から次へと考えが浮かび、自分でも呆れる。
「室長」
ノアが静かに声を掛けた。
「事件資料です」
「ああ」
レオンハルトは慌てて受け取る。
何を考えている。
部下が一日休んだだけだ。
心配するのは上司として当然。
それ以上でも、それ以下でもない。
そうだ。
エミルは部下だ。
それも、男だ。
上司である私が、部下である彼をそんな目で見ているなど。
エミルにとっても迷惑だろう。
レオンハルトは深く息を吐き、意識を仕事へ戻した。
◇◇◇
翌々日の朝。
「お、おはようございます」
調査室の扉が開き、エミルが姿を現した。
いつもの明るい笑顔。
……のはずだった。
顔色は悪く、目の下には薄く隈ができている。
レオンハルトは立ち上がった。
「エミル」
「もう大丈夫です」
何も聞いていないのに、クラリスは先にそう言った。
「昨日はご迷惑をお掛けしました」
「本当に大丈夫なのか」
「はい」
笑おうとしている。
だが、その笑顔は少し無理をしているように見えた。
クラリスは自分の席へ座ると、すぐに書類を開き始める。
いつも通り働こうとしているのだ。
それでも、紙を持つ指先が微かに震えていた。
無理をしている。
レオンハルトは確信した。
それでも仕事を続けようとする姿が、妙にエミルらしくて、胸が締め付けられる。
どうして、この青年はいつも自分より周りを優先するのだろう。
その姿を見ているだけで、放っておけなくなる。
レオンハルトは静かに席を立ち、エミルの机へ向かって歩き出した。
◇◇◇
レオンハルトはクラリスの机の前で足を止めた。
「エミル」
「はい」
「仮眠室で休みなさい」
穏やかな口調だったが、有無を言わせない響きがあった。
クラリスは小さく首をかしげながら立ち上がる。
「室長、本当にもう大丈夫ですので」
「大丈夫な人間は、そんな顔をしていない」
「でも――」
「室長命令だ」
その一言で、クラリスは反論を飲み込んだ。
「仕事は私たちで進める」
そう言ってレオンハルトは、そっとクラリスの手首を取った。
「来なさい」
そのまま仮眠室まで連れて行かれ、柔らかな寝台へ座らされる。
小さな部屋には静かな陽射しが差し込み、外の喧騒が嘘のようだった。
「少し眠れば楽になる」
「室長は、心配しすぎなんです」
クラリスは苦笑した。
「少し寝不足なだけですから」
「寝不足になるほど何かあったのか」
その問いに、胸が詰まる。
あなたのことを考えて眠れませんでした。
そんなこと、言えるはずがない。
「……少し考え事を」
「仕事のことか」
「いいえ」
レオンハルトはそれ以上聞かなかった。
ただ、クラリスの顔を静かに見つめている。
その優しい視線が、今は苦しかった。
これ以上、そんな顔で私を見ないで。
期待してしまう。
勘違いしてしまう。
クラリスは唇を噛み、小さく俯いた。
「室長」
「何だ」
「……これ以上、私に優しくしないでください」
部屋が静まり返る。
レオンハルトは意味を理解できず、ただクラリスを見つめた。
「私が何かしただろうか」
クラリスは慌てて首を振る。
「室長は何も悪くありません」
「なら、どうして」
レオンハルトの表情がわずかに揺れる。
言えるわけがないわ。
あなたが好きだからです、なんて。
クラリスは俯いたまま、ぎゅっと拳を握った。
「これ以上、私に構わないでください」
涙が一滴、膝へ落ちた。
その瞬間。
レオンハルトの手がクラリスの手に伸びた。
大きな手が、細い手を、そっと包み込んだ。
クラリスが驚いて顔を上げると
碧い瞳と薄碧の瞳が、ほんの数十センチの距離で重なった。
「なにを……」
クラリスにそう問われても、レオンハルトにはどう答えればいいのか分からなかった。
泣かせたくない。
ただ、それだけだった。
握った手へ自然と力が入る。
クラリスが、切なそうに微笑んだ。
その笑顔があまりにも儚くて、レオンハルトの胸が痛くなる。
その瞳に吸い寄せられるように、レオンハルトの顔がクラリスに近づいてゆく。
あと少し。
あと少しで、彼女に触れられる。
その瞬間。
「失礼します。室長、報告書を――」
扉が開き、ノアが顔を覗かせた。
二人は同時に我へ返る。
レオンハルトはすぐに手を離し、クラリスも慌てて視線を逸らした。
「あ……失礼しました」
ノアは一瞬だけ状況を見渡し、それ以上何も言わず静かに扉を閉める。
部屋には気まずい沈黙だけが残った。
「……少し休みなさい」
レオンハルトはそれだけ言い残し、部屋を出て行った。
◇◇◇
扉が閉まる音を聞きながら、クラリスは両手で胸を押さえる。
「私、なにを……」
あんなふうに手を握られたら。
あんな優しい目で見つめられたら。
でも。
室長には婚約者がいる。
私も、別の誰かへと嫁いでゆく身だ。
だから、この恋は叶わない。
クラリスは静かに目を閉じた。
明日。
退職届を出そう。
これ以上あの人のことを好きになってしまう前に。
◇◇◇
執務室へ戻ったレオンハルトは、椅子へ腰を下ろして深く息を吐いた。
書類へ目を落としても、一文字も頭へ入ってこない。
さきほど、自分は何をしようとしていた。
手を握った。
それだけではない。
あのままノアが来なければ、自分は――。
「……焼きがまわったか」
額を押さえ、小さく笑う。
もう、ごまかせなかった。
エミルが笑えば嬉しい。
苦しめば胸が痛む。
誰かに触れられるだけで腹が立つ。
会えなかった一日が、あれほど長く感じた理由も分かってしまった。
これは部下への情ではない。
同情でもない。
ならば、この胸を満たしているものは何だ。
その答えは、もうずっと前から出ていた。
「私は……」
ゆっくりと息を吐く。
「エミルを愛しているんだな」
その言葉は驚くほど自然に口からこぼれた。
レオンハルトは心の中で決意した。
エミルに、この思いを伝えようと。
どんな答えでも受け入れる。
それでも、この気持ちだけは隠したくなかった。
窓の外には、静かな夕焼けが広がっていた。
翌日、二人はそれぞれ決意を胸に、保安局へ向かうことになる。
まったく違う未来を思い描いたまま。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
次回、クラリスとレオンハルトはどうなる?




