第7話 ヴァルモント侯爵の婚約者
ガルディア伯爵邸の大広間は、眩いほどの光に満ちていた。
天井から下がる硝子の魔導灯が金色に輝き、楽団の奏でる音楽に合わせて光の粒を降らせている。楽器にも拡音術式が施され、大広間の隅まで同じ音色が届いていた。
「幻の令嬢」であるクラリスにとって、これほど大規模な夜会は初めてだった。
「緊張しているか」
隣からレオンハルトが尋ねた。
「少しだけ」
「無理はしなくていい」
「大丈夫です。室長……レオンハルト様が一緒ですから」
何気なく答えると、レオンハルトがわずかに目を細めた。
「そうか」
その声がいつもより柔らかく聞こえ、クラリスはまた胸が落ち着かなくなる。
「氷の魔侯爵様よ」
「相変わらず、なんと麗しい」
「御令嬢と一緒なんて、初めてではなくて」
静かなざわめきが広がってゆく。
多くの令嬢がレオンハルトへ熱い視線を送っていた。
やっぱり室長って凄いわ。侯爵で、優秀で性格も良くて、眉目秀麗なんて。完璧以外何者でもないものね。
そのとき。
「ヴァルモント侯爵は、最近婚約されたと聞いたらしいな」
「ああ。婚約者は、由緒正しい家柄の御令嬢とか」
婚約。
室長に。
室長に、婚約者がいるの?
クラリスの胸は潰れそうになった。
痛む胸をぎゅうっと手で抑えて、彼女は心を鎮めようとした。
何を驚いてるの、クラリス。
当然じゃない。こんなに素敵な方ですもの。
婚約者がいて、当たり前よ。
きっとお相手も素晴らしい御令嬢なんだわ。
室長が、誰と婚約してようが私には関係ないわ。
私は、エミル。
室長の部下のエミルなんだから。
それに、私だって婚約者がいる身じゃない。
顔も知らない。会ったこともない方だけれど。
仮にも婚約者がいる身で、他の方を想うなんて許されないわ。
「どうした? エミル」
レオンハルトに心配げに聞かれてようやく、クラリスは自分の顔が曇っていることに気づいた。
無理やり笑顔をつくると、レオンハルトに微笑み返す。
「なんでもありませんわ、レオンハルト様」
クラリスはどうにか気持ちを切り替えると、会場の隅へ目を向けた。その時、人々の間を歩く一人の男性の周囲が、かすかに揺らいで見えた。
黒髪の若い貴族だった。笑顔で令嬢へ話しかけているが、その胸元に隠した何かから薄暗い揺らぎが滲んでいる。
何か隠している。
クラリスの看破の魔力が、そう告げていた。
「室長」
声を潜めると、レオンハルトはすぐに顔を寄せた。
「どうした」
「あちらの黒髪の男性が気になります。胸元に何かを隠しているようです」
「見えたのか」
「いえ……仕草が不自然でした」
看破の魔力については言えない。だが、レオンハルトはそれ以上追及せず、自然な動作で男へ視線を向けた。
「分かった。近くで様子を見よう」
二人が距離を詰めると、黒髪の男は令嬢へ何かを手渡していた。小さな銀色の香水瓶だった。瓶には、贈答品が安全であることを示す青い認証紋が浮かんでいた。けれどクラリスの目には、その紋章そのものが薄く揺らいで見える。
「ぜひお使いください。新商品です」
受け取った令嬢が蓋へ手を掛ける。
瓶の表面が大きく揺らいだ。
「開けてはいけません!」
クラリスは思わず声を上げた。
男の表情が変わる。
次の瞬間、彼は令嬢の腕を掴み、懐から黒い石を取り出した。周囲に薄い魔力の膜が広がり、ざわめきが起こる。
クラリスは令嬢を助けようと一歩踏み出した。
だが、男がこちらへ手を伸ばす方が早かった。
「お前も来い!」
「きゃっ!」
手首を掴まれ、強く引かれる。
その瞬間、男とクラリスの間へレオンハルトが滑り込んだ。
掴まれていた腕が解放され、クラリスの体はレオンハルトの背後へ引き寄せられる。
「その手を離せ」
穏やかだった声が、凍るように低くなっていた。
「なんだ、お前」
男が後ずさる。
レオンハルトはクラリスを庇うように立ち、相手を真っ直ぐ見据えた。
「彼女は私の婚約者だ」
クラリスは息を止めた。
婚約者。
もちろん嘘だ。
それでも、胸が痛いほど嬉しかった。
「ヴァルモント侯爵の婚約者……?」
男が顔色を変えた隙に、レオンハルトが手を掲げる。眩い光が走り、男の持っていた黒い石が音を立てて砕けた。
続けて床から光の鎖が伸び、男の両腕と足を拘束する。
一瞬だった。
周囲が何が起きたのか理解する前に、男は床へ倒れ込んでいた。
「ノア」
「確保します」
客に紛れていたノアとルークがすぐに現れ、男を連れていく。香水瓶も慎重に回収された。
◇◇◇
「エミル」
聞き慣れた低い声が響いた、その瞬間。
ぐいと強く身体を引き寄せられた。
気付けばクラリスはレオンハルトの胸へすっぽりと抱き込まれていた。
「……室長?」
突然のことに、クラリスは目を見開いた。
なぜ、室長に抱きしめられてるの?
何が起きたの?
「無茶をするな」
かすれるような声が、耳元へ落ちた。
「君に何かあったら、私は……」
長い指先がそっと頬へ触れ、傷がないか確かめるように首筋まで滑る。
「怪我はないか」
「ありません」
「本当に?」
手首をそっと取られる。
赤くなった肌を見て、レオンハルトが眉を寄せた。
「すまない。私がついていながら」
「こんなの、平気です」
「平気ではないだろう」
叱るような言葉なのに、触れる指は驚くほど優しい。
レオンハルトの心配そうな瞳が覗き込んできて、クラリスは思わず目を伏せた。
「どうした。気分でも悪いのか」
「いえ」
そんなふうに優しくしないで。
クラリスは思わずそう言いそうになった。
室長は、部下を気遣っているだけ。
上司として責任を感じているだけ。
なのに私は、彼にこうして心配されて嬉しいと思ってしまっている。
そのとき。
クラリスは、その気持ちの正体に気づいてしまった。
好き。
尊敬しているだけだと思っていた。優しくされるのが嬉しいだけだと。
けれど違う。
私、室長が好きなんだわ。
けれど──室長には婚約者がいらっしゃる。
なんて皮肉なのかしら。
好きだと気づいたときにはもう、恋は終わっていたなんて。
「エミル?」
「何でもありません」
クラリスは、溢れてくる涙を見せないようそのまま俯いたままでいた。
◇◇◇
レオンハルトがひとり調査室へ戻った頃には夜も深くなっていた。
捕らえた男は令嬢襲撃事件の実行役の一人と見られたが、黒幕については口を閉ざしている。回収した香水瓶には、嗅いだ者の意識を奪う術式が組み込まれていた。
捜査としては大きな進展だった。
それなのに、レオンハルトの意識は別のところへ向いていた。
頭に浮かぶのは、青いドレスをまとったエミルの姿だった。
男に腕を掴まれたエミルを見た瞬間、理性より先に怒りが込み上げた。赤くなった手首を見た時には、犯人をもっと強く拘束しておけばよかったとさえ思った。
「……何を考えているんだ」
誰もいない部屋で呟き、額へ手を当てる。
扉を叩く音がした。
「室長、まだお帰りではなかったのですか」
入ってきたノアが、机の上へ報告書を置く。
「ああ。少し考え事をしていた」
「エミルのことですか」
レオンハルトは顔を上げた。
「なぜ分かった」
「そりゃ分かりますよ」
ノアが呆れたような顔をする。
「不慣れな新人を危険な目に遭わせてしまった。気にして当然だろう」
「ったく……。仕事はあれほどできるのに……相変わらず人の心の機微には、にぶちんでいらっしゃる」
「なっ」
「せいぜい、お悩み下さい」
ノアはレオンハルトを見て面白そうに笑うと、書類を残すだけ残して出ていった。
静かになった執務室で、レオンハルトは椅子へ腰を下ろした。
机の隅には、エミルが使っていた記録用紙が置かれている。丁寧な文字で、その夜に見たものが細かく書き込まれていた。
あれほど危険な目に遭いながら、帰りの馬車では捕らえた男より、巻き込まれた令嬢の心配をしていた。
そういうところに、惹かれているのだろうか。
そこまで考え、レオンハルトは目を閉じた。
惹かれている。
自分は今、確かにそう考えた。
「どうかしている」
これまで自分は恋愛にも結婚にも興味を持ったことはなかった。縁談を勧められても心が動いたことはない。婚約者は、いる。だがそれは、信頼する友人から強く頼まれ、仕方なく受けただけの事だ。相手の令嬢を嫌っているわけではないが、恋情を抱いているわけでもない。
その自分が、男である部下のことで悩んでいる。
しかも、女装した姿を思い出しては胸を乱している。
レオンハルトは深く息を吐いた。
「不誠実な男だな、わたしは」
ぽつりとこぼした言葉に、自分自身がいちばん驚いた。




