第12話 婚約者なんて聞いておりません!
「『幻の令嬢』が、これほどお美しい方だとは」
「アーデン侯爵様が、お見せになりたがらないわけです」
兄のエイドリアンがいなくなったあと。レオンハルトに見つからないよう壁際までやってきたクラリスは、いつの間にか令息達に囲まれていた。
どうしよう。
なんだかよく分からないけど囲まれてしまったわ。
おそらくお兄様と親しくなりたい人たちでしょうけど。
こんなにいるなんて、予想外だわ。
こういうとき、世の御令嬢はなんと言って逃げ出すのかしら。
ああ。社交経験の無さが恨めしい。
クラリスを囲む令息達の輪が、またぎゅっと縮まった。
肩がぶつかりそうになって、クラリスは思わず怖くなった。
お兄様。どうか早く、帰ってきて。
お願い。
「……エミル?」
突然、背後から低い声がした。
聞き間違えるはずもない。
ゆっくり振り返る。
そこにはレオンハルトが立っていた。
クラリスは思わず息をのむ。
「室、長……」
レオンハルトの表情が止まる。
澄んだ碧い瞳が大きく見開かれ、目の前の令嬢をまるで信じられないものを見るように見つめている。
「ヴァ、ヴァルモント侯爵。どうしてこちらに」
クラリスに肩を付けんばかりに近づいていた令息の一人が、かすれた声を出した。
レオンハルトは令息たちを一瞥すると、静かな声で言った。
「彼女は、困っているようだが」
その場の空気が一瞬で張り詰める。
「も、申し訳ありません」
「我々は、その……」
令息たちは顔色を変え、慌てて道を開けた。
レオンハルトが一歩前へ出て、令息達を睨みつけると蜘蛛の子を散らすように立ち去っていく。
壁際には、クラリスとレオンハルトだけが残った。
レオンハルトが一歩近付く。
クラリスは逃げようと一歩後ろへ下がる。
けれど、後ろは壁だった。
「……エミル」
その一言で、クラリスは観念した。
「……はい」
小さく頷く。
沈黙が流れた。
レオンハルトは何も言わない。
ただ、目の前の少女を見つめ続けている。
目をかけていた部下。
毎日一緒に働いていた青年。
泣かせたくないと思った相手。
「なぜ、ここに……」
そのとき。
エイドリアンが二人へ歩いてきた。
「なんだ。もう会っていたのか、二人とも」
二人は同時に振り返る。
エイドリアンは安心したように笑った。
「紹介しよう」
そう言って妹の隣へ立つ。
「私の妹、クラリス・アーデンだ」
レオンハルトのひゅっと息をのむ音が聞こえた。
そんなことに気づかないまま、エイドリアンは続けた。
「それからクラリス。こちらが、私の親友。そして、お前の婚約者にと考えていた、レオンハルト・ヴァルモント侯爵だ」
時間が止まった。
「……え」
クラリスの声が震える。
「私の、婚約……者?」
「なんだ。なにをそんなに驚いていてる」
エイドリアンが不思議そうに首をかしげる。
クラリスの脳内は真っ白だった。
婚約者が、室長だったなんて。
初めて。初めて知った。初めて知ったわよ、お兄様。
どうしてそんな大事なことを──
「なぜ、もっと早くにそのお名前を教えて下さらなかったのですか」
クラリスの少し強い口調に、エイドリアンはのんびりと口を開く。
「お前が聞く前に席を立ったんだろう。その後もずっと私を避け続けていたし」
それはその通りだ。婚約者という現実から逃げたくて、兄と会うのも避けていた。
全ては自分の、自業自得、というわけなのか。
クラリスは、こわごわとレオンハルトを見る。
レオンハルトも驚いたまま動けない。
婚約者。
兄の親友。
室長。
エミル。
クラリス。
全部。
全部。
「あなただったの」「あなただったのか」
クラリスとラインハルトの声が重なった。
瞬間、クラリスの眼から涙があふれた。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい、室長」
「私……私……本当に、ごめんなさい」
今さら何を話せばいいのだろう。
男だと偽り。
職場を騙し。
何も告げず辞めてしまった。
「ずっと、お騙ししていて、申し訳ありませんでした」
クラリスは深く頭を下げた。
しばしの沈黙が流れる。
やがて。
「エミル。いや、クラリス。顔を上げてくれ」
優しい声だった。
ゆっくりと、クラリスが頭を上げた。
その時だった。
――パリン。
どこかで硝子が割れるような音が響いた。
会場中の照明が一瞬だけ大きく揺らぐ。
レオンハルトの表情が一変した。
「伏せろ!」
レオンハルトが、クラリスに覆いかぶさった。
黒い霧が、大広間いっぱいに広がり始めた。




