第13話 室長、お助けいたします!
黒い霧は瞬く間に大広間へ広がった。
悲鳴が上がり、楽団の演奏が止まる。視界を奪われた貴族たちが互いにぶつかり、逃げようとして出口へ殺到した。
「全員、その場を動くな!」
レオンハルトの声が広間へ響く。
次の瞬間、彼を中心に淡い光が広がった。半透明の壁が人々を包み込み、押し寄せてきた黒い霧を外側へ押し返す。
守護結界。
なんて大きな。
大広間にいるすべての人間を一度に守れるほど強大な結界を張れる者などこの国に何人もいないだろう。
改めて、レオンハルトの底知れない魔力を思ってクラリスは息をのんだ。
「皇族警護隊は出入口を封鎖しろ。保安局員は倒れた者の救護を。霧には直接触れるな」
混乱の中でも、レオンハルトは迷いなく指示を出していく。先ほどまでクラリスを見つめていた穏やかな瞳は、今では鋭く会場全体を見渡していた。
室長。
私の室長。
クラリスの胸に、懐かしさにも似た熱が込み上げる。
室長をお助けしなくては!
そう思った時、足元に暗い光が走った。
「クラリス!」
エイドリアンの声と同時に、床に巨大な術式が浮かび上がる。
黒い鎖が幾重にも伸び、クラリスの足首へ絡みつこうとした。
これは。違法魔道具事件の時と同じ術式。
私の魔力を探ろうとしている。
クラリスは逃げようとするが、黒い鎖は容赦なく彼女を引きずり込もうとする。
そのとき、レオンハルトが素早く腕を引き、クラリスを自分の胸元へ抱き寄せた。淡い光の壁が二人を包み、黒い鎖を弾き返した。
「怪我は」
「ありません」
答えながら、クラリスは床の術式を見つめた。
何かがおかしい。
黒い線は複雑に絡み合い、幾つもの術式が重ねられている。けれど、その中心だけが薄く揺らいで見えた。
これは。
偽装されている。
本物の術式は別の場所にある。
そして、それはまだ展開されていない。
「クラリス!」
エイドリアンが霧の向こうから叫んだ。
「お前の眼で見ろ!」
クラリスの体が強張る。
『看破の魔力』
家族以外には決して明かしてこなかった、自分の最も大きな秘密。
クラリスは迷った。
ここで力を使えば、レオンハルトにも知られてしまう。
あれほど隠してきたものを、自分から晒すことになる。
「クラリス」
すぐそばから、静かな声が聞こえた。
レオンハルトが彼女を見つめている。
「何が起ころうとも、私が君を守る」
胸の奥が、強く鳴った。
クラリスはゆっくり頷く。
「分かりました」
目を閉じ、意識を集中させる。
次に瞼を開いた時、世界は一変していた。
黒い霧の中に、無数の揺らぎが浮かんでいる。床を這う術式、壁に隠された魔導具、人々の衣服へ紛れ込ませた小さな石。
けれど、そのどれもが本体ではない。
すべて、誰かの存在を隠すための偽装。
「どこなの……」
クラリスは息を詰めた。
揺らぎが多すぎる。
見抜こうとすると、視界が歪み、頭の奥が強く痛んだ。
「クラリス?」
体がふらつく。
レオンハルトがすぐに腰へ腕を回し、支えた。
「大丈夫です。まだ……見つけられます」
「無理をするな」
「でも、このままでは」
言い終わる前に、レオンハルトがクラリスの手を取った。
指と指が重なる。
その瞬間。
強い光が二人の間からあふれた。
「え……?」
クラリスは目を見開く。
自分の中を流れていた魔力が、触れ合った手を通じてレオンハルトへ広がっていく。奪われているのではない。まるで二人の魔力が溶け合い、一つの流れになったようだった。
レオンハルトも驚いたように周囲を見渡している。
「これは……」
「室長。まさか、見えているんですか!?」
「黒い霧の奥に、光の筋が見える」
クラリスの心臓が跳ねた。
それは、看破の魔力を持つ自分にしか見えないはずのものだ。
「室長は、私と同じものが見えているのですか?」
「ああ」
レオンハルトは握った手を見下ろした。
「私には、触れている相手の魔力を一時的に使える力がある」
「そんな力が……」
「だが、これほど鮮明に共有できたのは初めてだ」
二人は再び霧の向こうへ目を向けた。
一人では途切れていた光の筋が、今ははっきりと見える。幾つもの偽装をくぐり抜け、大広間の二階にある回廊へ続いていた。
「いました」
「ああ」
二人は同時に同じ場所を見る。
回廊の柱の陰。
誰もいないように見える空間が、激しく揺らいでいる。
「そこか!」
レオンハルトが片手を掲げた。
眩い光が一直線に走り、柱の前で弾ける。透明な膜が破れ、その中から一人の男が姿を現した。
黒い礼服に身を包んだ、白髪の貴族だった。
会場の誰もが知る、重臣の一人。ヴェッセルバッハ宰相。
「まさか……」
周囲から驚きの声が上がる。
ヴェッセルバッハ宰相は顔を歪めると、懐から黒い魔導具を取り出した。
「看破の継承者が、ようやく見つかった」
クラリスの背筋が冷たくなる。
黒幕の視線は、真っ直ぐ自分へ向いていた。
◇◇◇
「看破の力は、アーデン家に受け継がれていたとはな。だが、お前さえ手に入れば、宮廷の嘘も、他国の策も、すべて暴ける。まさに傾国の力だ」
ヴェッセルバッハ宰相の言葉を聞いて、クラリスは彼を睨みつけた。
「そんな……そんなもののために令嬢たちを襲ったというのですか」
「あれはただの選別だ。誰がどの魔力を持つのか、表向きには分からないのでな」
宰相は悪びれる様子もなく笑った。
「だが、お前は自ら姿を現してくれた」
黒い魔導具が強く光る。
会場中に隠されていた術式が一斉に動き出し、鋭い魔力の刃がクラリスへ殺到した。
「クラリス!」
クラリスの前へ、淡い光の壁が幾重にも現れる。
すべての刃が結界へ衝突し、砕け散った。
レオンハルトはクラリスの手を握ったまま、宰相を睨みつけている。
「彼女には触れさせない」
低い声だった。
それだけで、広間の空気が震える。
宰相はさらに魔力を込めるが、レオンハルトの結界は少しも揺らがない。
「くそ。忌々しい守護の魔力……ヴァルモント侯爵か」
「生憎だが、お前の術式はすべて見えている」
レオンハルトが一歩前へ出る。
「クラリス」
「はい」
「核を探せるか」
クラリスは頷き、宰相の持つ魔導具へ意識を集中させた。
表面に刻まれた術式は複雑だが、そのほとんどが偽装されている。二人の視界が重なることで、一つずつ嘘の線が消えていく。
「あの黒い石ではありません」
「では、どこだ」
「指輪です。右手の指輪が、すべての術式を動かしています」
レオンハルトは即座に動いた。
光の鎖が床から伸び、男の右腕を絡め取る。宰相が逃れようと魔力を放つが、守護の結界がすべてを打ち消した。
「やめろぉ!」
男が叫ぶ。
レオンハルトは容赦なく腕を振り上げた。
鋭い光が指輪を貫く。
甲高い音とともに、黒い宝石が砕け散った。
同時に、大広間を覆っていた霧が消えていく。
床の術式も、壁に隠されていた魔導具も、すべて光を失った。
宰相はその場へ膝をついた。
「終わりだ」
レオンハルトの言葉を合図に、警備隊が宰相を取り押さえる。
広間には、しばらく誰の声も響かなかった。
やがて、事態が収束したと理解した人々の間から、安堵の息が漏れ始める。
クラリスは張り詰めていた力が抜け、ふらりとよろめいた。
「クラリス!」
レオンハルトがすぐに抱き止める。
「申し訳ありません。少し、力を使いすぎたようです」
「よくやった」
彼の腕が、クラリスの体をしっかり支えていた。
「君は十分に役目を果たした」
クラリスはそっと顔を上げる。
「室長は、私の力が怖くないのですか?」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「なぜ怖がる必要がある」
「嘘も、隠し事も、見えてしまう力です」
「ならば、君の前では嘘をつかなければいい」
あまりにも迷いのない答えに、クラリスは目を瞬かせた。
「それだけですか?」
「ああ」
レオンハルトは当然のように頷いた。
「私にとっては、君がどんな魔力を持つかより、いま無理をして倒れそうになっていることの方が問題だ」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
その時、エイドリアンが二人のもとへ歩いてきた。
「クラリス、怪我はないか」
「大丈夫です、お兄様」
兄は安堵したように息を吐き、今度はレオンハルトへ視線を向けた。
「やはり、お前なら妹を守ってくれると思った」
「どういう意味だ」
「看破の力は本人の意識が外へ向き、攻撃へ無防備になりやすい」
エイドリアンはクラリスを見つめた。
「このところの令嬢襲撃事件が、看破の力を狙った者の仕業であろうことは分かっていた。だが、こちらから動くとかえって目立ってしまう。だからこそ、表立って妹を守れる者が必要だった」
クラリスは息をのむ。
「それで、私に婚約者を?」
「ああ。お前を任せられるのはレオン以外いないと思った。『守護の力』だけではない。レオンは触れた相手の魔力を一時的に共有できる。お前の力を理解し、ともに使える可能性があるのは、この男だけだ」
すべてが繋がっていく。
兄が婚約を急いだ理由。
何も話せないと言い続けた理由。
レオンハルトを選んだ理由。
クラリスは胸元へ手を当てた。
結局、私の力のためだったのだわ。
クラリスは胸がひどく痛んだ。
けれど、その表情をレオンハルトは見逃さなかった。
「クラリス、あなたに伝えなければいけないことがある」
はっきりとした声だった。
クラリスが顔を上げる。
「私があなたとの婚約を受け入れたのは、エイドリアンを信頼していたからだ」
レオンハルトは真っ直ぐクラリスを見つめている。
「では……」
「だが今の私にとっては、君がエイドリアンの妹であろうと、看破の継承者であろうが、アーデン家の令嬢であろうと関係はない」
レオンハルトはそっとクラリスの手を取る。
「私は、君を愛している」
うそ。
うそよ。
「私は君を知っている。君は懸命に働き、誰かが泣いていれば真っ先に手を差し伸べる。そんな優しさと強さを持った美しい女性だ」
周囲にはまだ多くの人がいる。
兄もいる。
それでも、クラリスにはレオンハルトの声しか聞こえなかった。
「好きだよ、クラリス」
涙が、またあふれそうになる。
今度の涙は、苦しさからではなかった。
「室長……」
「レオンハルト、と」
「レオンハルト様……」
彼はクラリスの手を握ったまま、穏やかに微笑んだ。
「すべてが落ち着いたら、改めて話をさせてほしい」
レオンハルトの優しい、しかし、きっぱりとした言い方に、クラリスは頷くしかなかった。
甘い雰囲気を断ち切るように、エイドリアンが深く長い、ため息をついた。
「お前たち、あとで事情は詳しく聞かせてもらうぞ。それから、レオン……お前、妹に近づきすぎだ」
レオンハルトは平然と答える。
「ああ。それはすまない、お義兄様」
「お前と兄弟になった覚えはない」
「婚約を頼んだのはお前だろう」
「お前こそ、婚約を考え直したいと言ってただろう」
二人のやり取りを聞いて、クラリスは思わず笑った。
数週間ぶりに、心からこぼれた笑いだった。




